五章 井水戸とアナザーとグレイ
不可解と言えば不可解だった。
「住所がわかっておるのに辿り着けなかった、か。しかし、それだけで異名関連の事件と断定とは早合点ではないか?」
杉野の奴は何を基準にこれを永久未解決事件と判断したのだろうか?
私は挟まれていた手書きの手紙を開く――
管理司書の 杉野深夜 様へ
偶然あなたのことを知りました。
冷夏だったら、こんなことにならなかったかもしれません。
いつもそう思います。
話は変わりますが、あの事件のことについて話したいと思います。
何度も手紙を書こうと思いました。
しかし、何を書けば伝わるのかわからず、ずっと書けませんでした。
井水戸玄奥はもう死んでいるので、それを伝えたくて手紙を書きました。
六十時間前に死にました。
少し前までは生きていました。三日くらい前です。
あの男が何をしたのかわかりませんでした。
奇跡を起こしたのだと、今になって分かりました。
だから、井水戸は生きています。
まだ井水戸は生きています。
最後になって思うのは、やっぱり同じことです。
冷夏だったら、こんなことにはならなかったはずです。
類似していませんか、天才と三人の弟子の話に。死んだ人が生きているって。
何でも分かってくれる司書さんへ
差出人は書かれていない、事件の関係者からだろうか?
手紙を読んだ私は、もう一度資料に書かれている連絡先を見て疑問に思うところがあった。
「080から始まるということは……携帯電話の番号じゃないか」
この井水戸一家はどうして家の固定電話ではなく、携帯電話の番号を教えたのだろうか。
「しかも080というのは、確か最近の番号では?」
ここ二、三年くらい前から080から始まる電話番号が使われはじめ、それ以前は090から始まる番号だった。十一年前の書類にどうして080から始まる番号が記されているのだろうか?
気になった私は、記されている電話番号を自分の携帯からかけてみることにした。
(さすがに十一年も前のものが繋がるわけがないか…?)
そう思っていたが、何故か呼び出し音が響く。
『――∞≠±一=0――』
通じたかと思うと、不可解な数式の様なものが読み上げられた。
『――現在、電話に出ることが出来ません――折り返して電話致します――』
不可解な式の後に聞こえたのは、使用されていないというものではなく、通話できない状態にある、というものだった。
(一体何の数式だ?十一年も前からずっと同じものを使っている、のか?だが、080は最近の番号だ。なぜ井水戸一家は当時まだ使われていなかった080から始まる携帯番号を我々に教えたのだ?一体どういうことだ?)
青年を助けたければこの事件を調べろ、とグレイは言った。
(だが、得体の知れないあやつを信じろと言われても。しかし、何だかんだで私はまだ何もされておらん。しかし、青年と杉野の奴は――ええい!何もせんよりはマシだ!)
資料を10年度の棚の方にしまい、一直線にエレベーターへと乗り込み一階へと降りた。
(オモテ通り裏一丁目一番地の一騎マンション――そこへ行けば井水戸一家とやらに会えるやもしれん)
この事件が青年とどうかかわっているのか見当もつかなかったが、何の情報も無く虱潰しに調べるよりは確率が高い。 それに、青年と杉野のことが気がかりだ。下手に手を出せば、グレイの奴が二人を―――
私はオモテ通り裏へと大急ぎで車を走らせた。
しかし、もし仮に井水戸一家に会えたとして、どうすればいいのだろうか?杉野と言う男を知りませんか、と訊けばよいのだろうか?それとも青年を知りませんか、と訊けばよいのだろうか――いや、名前を知らない以上尋ねようがない。 では、グレイと言う男を知りませんか、と訊けばよいのだろうか?ここは普通にお子さんのことを話せばよいのだろうか?
考えても、考えても、何も浮かばず、思考を巡らせている間にオモテ通り裏一丁目一番地にある一騎マンションまでやってきていた。
「さてさて、どうしたものかね」
とりあえず、三〇六号室を訪ねようとマンションの号室を確認していく。どうやら一階ではないらしい。
三階まで階段を上り、手前にあった部屋の号室を確認する。
「三〇一号室…となれば、一番奥がそうか?」
案の定、階段から最も離れたその一室が三〇六号室だった。
何を言うかも決まらぬまま、インターホンを鳴らす。三度鳴らしてみたが、部屋は静まり返っていた。
「うぅむ、留守なのか?」
安心したような、惜しいような。扉が開いていないかとドアノブを回すと、やや遠くから声をかけられた。
「あんた、そこで何をやっているんだ」
階段の方に目をやると、自分と同じくらいの歳の男がこちらを訝しげに見ていた。
「私は警視長の相甲斐正則と言う者です」
そう言って警察手帳を見せると、相手は近づいてきた。
「なんだ、警察さんか。空き巣かと思ってしまったよ、悪かったね。自分は此処の管理人の一騎というものだ」
ぺこぺこと謝りながら男は自己紹介をした。私は一騎さんと挨拶を交わし、井水戸一家について尋ねた。
「少々お尋ねしたいのだが。此処の部屋に住んでいる家族は、今日は誰も居ないのかね?」
すると、男は苦笑いをしながら答えた。
「相甲斐さん、そこに住んでいるのは一人暮らしの学生ですよ」
どうやらすでに引っ越してしまったようだ。何とか情報が得られないか、引越し先がわからないかと、一縷の望みにかけて尋ねた。
「そうですか。では、十一年前にここの部屋に住んでいた井水戸一家がどこへ引っ越したかご存知じゃありませんか?」
しかし、男は苦笑いをするばかりで返答はない。
「どうしましたかな、一騎さん?」
「いえ…十一年前は誰も住んでいませんよ。そもそも、このマンション自体が十一年前はだ建設中で、十年前の秋に完成しましたので。しかも、この最上階の六部屋は二年前までずっと買い手や借り手が見つからなかったんですよ」
言葉を失った――どうして家の住所まで偽って答えたのか。建設途中のマンションに住んでいるなんて馬鹿げている。
しかも、これでは事件への足取りが途絶えてしまったのではないか?
「あぁ、でも、一家では住んでいませんけど、井水戸くんの部屋は確かにここの三〇六号室ですよ」
そう言われ、私は改めて部屋の表札へと視線を移す。
三〇六号室 氏名 井水戸 玄奥
「なっ!井水戸――玄奥だと?」
雷に打たれたよりも強い衝撃が襲う。
表札には確かに死んだはずの〝井水戸玄奥〟と書かれていた。同姓同名の別人、と思いたい。
「彼、とてもいい子なんですよ。中学卒業してからずっと一人暮らしをしているんですけど、バイトをしながら高校に通って、まだ十六歳の子なんですけどね」
十六歳――十一年前は五歳だ。歳もぴったり合ってしまう。しかし、十一年前の事件の井水戸な訳が無い。遺体が見つかっているのだ。これはただの偶然に過ぎない。
(いや、この事件も永久未解決事件――なにかしらの異名や異世界が絡んでおるはずだ。トリックがあるに違いない!)
永久未解決事件は世界警察――通称・WPと呼ばれる世界際を超えた警察の担当だ。それでも私は手がかりを得られないかと必死になった。
「この子が今どこにいるか分かりませんかね」
「うーん…、今日は土曜日だし、多分バイトじゃないですかね?」
急に警視長の携帯が鳴り響く。
「む、失礼――もしもし、私だ」
私は一騎さんから少し離れたところで電話に出た。
『もしもし、警視長さん?』
どこかで聞いたことのあるような声――青年か!
「あぁ、そうだ。お前さん無事だったのか?」
『え?無事って、何のことですか?』
何とも間抜けな青年の声に、逆にこちらが困惑してしまった。
(もしや、運よく助かっておったのか?それとも、グレイの言った始末したとは嘘だったのか?)
『……?よく分かりませんけど、あんたに頼まれていた例のアニメのことで話したいことがあるんです。今、物語の終止符に居るんで、来てもらえますか?』
「む、あのアニメだと?……わかった、今から向かおう」
電話を切り、一騎さんに礼を言い階段を駆け下りて車に乗った。運転席に座り、ぱたんとドアを閉めた直後――
〝遅い〟
――と、後部座席から行き成り言葉が投げられ、どきりとした。慌てて後部座席を見ると、背丈とほぼ同じほどの長く綺麗な白髪に、素肌も髪に負けず劣らず透き通るような白い肌、純白の袴に雪のようなコートとマイクの付いたヘッドフォンをつけた、顔は幼いがスタイルはかなりいい女が足を組んで座っていた。
「紫香楽!お前さん何故ここに!」
〝車を出せー〟
私の訊ねる声など無視して彼女は言葉を投げる。仕方なく車を走らせ、ミトリ通りにある物語の終止符を目指した。
彼女がここに乗っているということは、恐らく目的地は一緒なのだろう。とにかく今は出来るだけ青年の所へと行かなければ。グレイの奴は何をしてくるかわからない。
〝お前は――あいつの名前を聞いていないのか〟
唐突に言葉を投げる。
「あやつ?一体誰の事を言っているんだ?ん?」
誰のことか分からなかったので訊き返す。
〝三年前に廃墟で会った男の名前――その様子だと聞いていないんだな〟
そう言われ、何でも上手くいくのがいや、と言う先ほどの電話の青年だと理解した。
「あぁ、聞いておらん。親に連絡が回るのが嫌だそうだ。私も名乗っておらんし、連絡も教えておらん。会った時、ちょうど携帯を失くしてしまってな。だが昨夜、メールアドレスを聞いたところだ。……それがどうした?」
――ん?あの青年にはメールアドレスしか教えていないのに、なぜ私の携帯の番号を知っていた?
〝あの男――井水戸玄奥と名乗っているぞ〟
紫香楽の言葉に思わずブレーキを踏んだ。そして、すぐさま後ろを振り向き、声を上げる。
「なんだと!そのようなバカな話があるか!井水戸という男児は、遺体が見つかっておるのだぞ!それに――――」
―――いや、待て。あの黒髪の青年は五歳の頃に事故に遭ったと言っていなかったか?今は一人マンションで暮らしていると言っていなかったか?一人暮らしのためにバイトをしていると言っていなかったか?何より、あの事件は〝永久未解決事件〟ではないか?
私は慌てて携帯電話を取り出し、着信履歴を開く。
ほんの二分前、青年からかかってきた電話番号、080―○○○○―△△△△。
〝お前はグレイがどういう奴か――知らずに探していたのか〟
その言葉に私は紫香楽の方を向いた。
「………!お前さん、私がグレイを探しておったことを……知っておったのか?」
彼女は小さくうなずくと、再び言葉を投げる。
〝死者に成り代わって現れる男――グレイと言うのも井水戸と言うのも――すでに死んでいる者の名前――だが――そいつは人間だ――ただの人間――しかし〟
紫香楽はそこで一度言葉を切った。そして、諦めたような表情で言葉を投げた。
〝――あれはあくまで矛盾と言う存在――理解できるものではない〟
「どういう意味だ?」
〝矛盾と言う言葉の由来――という物を知っているか?――最強の盾と矛の話だ――昔――一人の商人がいかなる盾をも貫く矛と――いかなる矛をも防ぐ盾を売っていた――では――その矛でその盾を貫けばどうなる?〟
有名な話だ。結局、その商人は答えられなかった。そこから生まれたのが矛盾という言葉。
〝有名な話のついでに――もう一つ世界際で有名な話をしてやろう――本物のグレイの話〟
紫香楽はどこか悲しげな表情で言葉を投げる。
〝グレイ・パラドックスという奴は――絶対の世界が滅ぶ二年前――今から十七年前に死んでいる――そして――今その名を名乗っているのはそれの弟子――全てのきっかけは――一つの数式―――〟
世界同士が何十世紀にも亘って争うきっかけはたった一つだった。
今から凡そ三千年前――初めて別の世界を発見した錬金術師・ニュートン。
賢者の石や鉄くずを金に変えることに成功し、異世界への行き方を編み出した。彼は死ぬ間際にこう言った。
『すべてを手にした私が言おう、〝∞≠±一=0〟を解いたものには富も名誉も不死も、全てが与えられる、と。だがこの式は解いてはならない式だ。それでもこれを解きたいというならば、全ての世界を知るがいい』
すべてを得るための式――それを解くため様々な世界の住人は異世界の知識を求め侵攻し、虐殺し、奪い合った。
やがて小さな奪い合いは戦争へと変わり、戦争が始まってから二千九百八十年ほどが経った。長くの歳月が経とうが、未だに数式を解けたものはいなかった。
そんなある日、今よりおよそ二十年前。一人の天才の名が知れ渡った。
天才の名は〝グレイ・パラドックス〟。
彼は虚無の住民――ドッペルゲンガーを発見し、それが当時多大な権力を持っていた絶対の世界の住人――アブソリュートと釣り合う力の持ち主だと発表した。そして彼は自分の研究助手として三人の弟子をとる。
一人の名は、モノクロ・グレー。グレイが認めるほどの天才で、何でもそつなくこなした。
一人の名は、無色透明。出来の悪かった彼は、人一倍努力した。
一人の名は、英雄家勇魚。覚えるのが早く、どんどんできることを増やしていった。
グレイは虚無を発見したことにより、全ての世界の名が分かったのだと言った。そして、弟子と共に解いてはならない数式〝∞≠±一=0〟を解き始めた。
三年が経った頃、事件は起こった。
いつもの様にグレイが助手と共に部屋で解いていた時、誰かが解いてはならない式を解いてしまったのだ。だが、グレイが解いたのか、モノクロが解いたのか、無色が解いたのか、英雄家が解いたのか、誰が解いたのかが分からなかった。
すべてを手にした誰かに恐れ、いろんな世界の住民たちが四人を殺そうとし始めた。
すると、グレイが『式を解いたのは自分だ』と名乗り出た。
〝当然――グレイは殺された――それから一年が経った頃からだ――今の様にグレイ・パラドックスと名乗る者が現れ――人の願いを叶えるようになったのは〟
「本当はグレイは死んでいなかった、とは考えられんのか?」
ふふっ、と笑う声が降ってくる。
〝死者が生きている――か――どこかで聞いたような話だな――井水戸もすでに死んでいるのに生きているのだから――手紙にも書いていた――なぁ相甲斐――僕は何度かグレイに会ったことがある――そして会う度に綺麗だと思った〟
「綺麗?」
紫香楽の言葉を受ければ受けるほど、自分が追い詰められていく気がした。これ以上訊いてはいけないような、しかし、知らなくてはいけないような。
〝瞳が綺麗だったんだ――初めて会った時は――銀色の月光の様に深く淡く光る灰色の瞳――次にあった時は――永遠に輝きを失わないホワイトオパールの様な白い左目――すべてを呑み込むオブシディアンの様な黒い右目――街中ですれ違う彼はブラウンクォーツの様な茶色の瞳――なぁ相甲斐――三年前に廃墟で出会った男――瞳は何色だった?〟
初めて会ったとき、あやつは白と黒のオッドアイ。普段会うあやつは茶色の瞳。
あの青年が井水戸玄奥と言う名で、井水戸玄奥は既に死んでいて、携帯から∞≠±一=0と聞こえて、∞≠±一=0というのは解いてはならない式で、瞳の色が白と黒、そして茶色で、それはつまり――
「まさか――あの青年がグレイ、だと?!」
紫香楽は視線を外から私の方へと向けた。
〝あれが井水戸玄奥と名乗る以上――当然そうなる――手紙を見ただろう――井水戸玄奥はもう死にました――と書いてある――死者に成り代わってあいつは現れる――世界共通の敵――何色でもないあれが〟
「く、くそ!」
がつんとハンドルを力いっぱい叩き、アクセルを踏んだ。
直接会って確かめなくては――彼が本当にグレイだというならば、目を離してはいけない。グレイは近いうちに杉野に会って何かをするつもりだ!
〝でも――人を騙すことを除けば悪いやつではない――だって僕はあの世界が大嫌いだった――強いものが弱いものを虐げる絶対の世界が――だから――だから僕は願ったんだ――絶対の世界なんて消えてなくなればいい――って――無力な僕の願いさえも叶えてくれた〟
走り出した車の中で、小さく言葉を投げ続ける。
〝絶対は力こそがすべて――弱い奴はこき使われて当然――死んで当然という考えだった――だから世界間での権力の分散と平等化を断ったんだよ――どうして絶対の我々がお前たちの様な貧弱と対等にならねばならんのだと――それどころかお前たちは我々にもっと貢ぐべきだと述べて――他の世界の知識と力を求めて戦争を引き起こし始めた――その頃まだ生きていた天才グレイは言っていたよ――『アブソリュート達の考えではいつまでたっても世界は平和にならない。それどころか世界総てを戦争に巻き込み、一世界が独占・独裁を行い始める。だから自分があの数式を解いて力を手にし、世界を丸く収めたい』――素敵な夢だと思った〟
投げられるのはただの文字だというに、どことなく彼女の気持ちが分かった。
〝でもグレイは死んだ――誰もその夢をかなえる人はいなくなったと思った――でもあの男が来たんだ――唯一数式を解いた男が――『グレイ先生の考えには大いに賛成だ。だから、オレなりのやり方でやるよ。対等になりたくない、というならオレはアブソリュート達をこの世界から消す。もちろん殺しを肯定するわけじゃない。自然界で生き物が生き物を殺すのは食う為であり、それ以外の理由で殺すなんて許されることじゃあない』〟
警視長は小さく言葉を投げ続ける紫香楽を、バックミラー越しに窺った。
〝『誰が許さない、って、それはもちろんオレ自身がだ。それでも、オレはこの現状を放っておかない。だから、誰かが強く望むのならこの絶対の世界を壊そうと思う。自分の意思ではやらないよ、あくまで誰かが願えばね』〟
何があってグレイに世界を壊すよう願ったのかは分からないが、彼女はそれで幸せだったのだろう。
〝そしてさらにこう言ったんだ――『オレは英雄じゃないし悪の親玉でもない。善行だってするし悪行だってする。その人が願えばなんだって叶える。でも、一つだけ誰かの願いじゃなく自分の意思でやりたいことがあるんだよね。それは世界共通の敵になること。RPGで言うラスボスの魔王さまだよ。あれってなかなかいい世界だと思わないかい?魔王という一つの危機に対して、バラバラだった国や人が一つになって悪を倒すんだ。共通の敵が居れば、皆が協力することが出来ると思うんだよね。もちろん、必要なときはオレも皆に協力するよ』〟
ごろり、と、彼女は後部座席の上に寝転がり、さらに言葉を投げる。
〝『きちんと世界をまとめられる人が現れるまで、オレが世界共通の敵になって世界をまとめておこうかな。そのやり方が正しいかどうかなんて興味はないし、間違っていても正そうとも思わない。自分の好きなように気の向くまま、飽きるまで人の願いを叶えていくさ。すべての世界をまとめる英雄がどれだけ先に現れるかはわからないけど、やってみる価値はある』――グレイと似ているけど根本的に違う――あれは天才で努力家――……もっとも――僕には世界がそんな風になるとは思えない〟
彼女の考えには賛同できたし、グレイの考えも理解できないわけではない。
「――また会ったね、警視長さん」
言葉を受けていた私の視線の先、赤信号の横断歩道。
今日会った青年は――ダークブルーと称される、深みのある灰色の瞳だった。
「キミの探していた青年くんは見つかったかい?」
マイクの付いたヘッドフォン、黒い短髪、片裾に金の刺繍がある黒いジーンズ、白いカッターシャツ、黒い生地に金の装飾のある裾も袖も長いコート。両耳にはアメシストのピアスが光っていた。
その隣には、十一年前に死んだはずの少年が居た。
****
孤月が杉野と会った頃、警視長がミィと会った頃。
賑わうオモテ通りを井水戸とアナザーは二人、歩いて行く。遅い昼ご飯を食べるため、近くのファストフード店へと向かっていた。
「……?」
視線を感じた我輩は、自然と後ろを振り向いた。
(何か様子がおかしいデスネ……)
あたりを見回すが、我輩以外誰も居ない。誰も、居ない――車も通行人も、誰一人居ない。
「――!」
隣に居た井水戸の裾を掴む。我輩の視線の先には、一人の男。
「ここにはキミとオレしかいないよ、アナザー・ワールド――いや、井水戸玄奥」
黒い短髪、金の刺繍が施された袖も裾も長い真っ黒なコート、片裾に金の刺繍がある黒いズボン、灰色の瞳、アメジストのピアス。所狭しとコートに付けられた様々なバッジ。
「グ、グレイ」
隣に居る井水戸と瓜二つな男は静かに口を開く。
「オレを介して家族に会えた。もう、満足だろう」
「どう、したのデスカ?貴方らしくないデス」
「……井水戸の名前をキミに返すよ。キミに夢を見せるのはここまでだ」
何を言っているのか、理解できなかった。
「忘れたわけじゃないだろう、今のキミは〝死ななかった井水戸玄奥〟の夢を見ている。もう井水戸は死んでいるんだよ。夢を見るのは止めよう、飽きてしまった」
歪に歪んだ笑いを見ると、耳元で水の音が聞こえた―――
目の前に迫ってくる水、水、水。
そう――我輩が、井水戸玄奥が五歳の時に遭った事故、あれがすべての始まりだった。
十一年前、我輩は家族四人で泡白山にあるキャンプ場へ向かった。キャンプ場として人気のある泡白山は、夏休みということもあって人でいっぱいだった。
(いっぱい、いっぱい。ひとがいっぱいだぁ。あれもこれもみんないっぱい。いっぱい、いっぱい)
虚ろな目をした彼は、楽しそうにしている三つ上の姉と、両側から楽しそうに手をつないでいる両親を見ていた。
(ぼくはいつでもひとりぼっちだ)
彼と家族の間に会話は無い――まるで、存在を無視するかのように。
「ねぇねぇ、お母さん。わたしの水着可愛いかな?オレンジとピンクのお花がらなの!」
新品の水着を取り出し、嬉しそうに話す彼の姉。綺麗な洋服を着た姉に対し、彼の着ている衣服は雑巾の様に汚れていた。
がりがり、と、自分の手の甲を掻き毟る。何度も、何度も。何度も引っ掻くうちに皮がむけ、血が滲む様になった。しかし、両親はそれを見ても何も言わず、手当てをしようともしなかった。
(でも、それはぼくがわるいこだから。ぼくがいいこにしていれば、いつかおかーさんもぼくのあたまをなでてくれるんだ。おとーさんもぼくをほめてくれるんだ)
ネグレクト――育児放棄。そんな言葉を知るはずもない彼は、自分が悪いのだと思い込んでいた。
姉の綺麗な服を見て、彼は自分の薄汚れた衣服の裾を掴む。
(ふくをあらってきれいにすれば、おかーさんもほめてくれるかな?)
川の方を見ていると、おねーちゃんが話しかけてきた。
「げんおう、はい。これがげんおうの水着だよ。男の子用だから、ズボンみたいなやつだよ」
白い布地の水着に青い刺繍、内側には平仮名でいみとげんおうと書かれていた。
「……ぼくの?ありがとう、おねーちゃん!」
「でも、お父さんとお母さんには内緒だよ?お小遣いをためて、こっそり買ったやつだからね。サイズ合うかなぁ?げんおうも大きくなったから、ちょっと大きめのを買ったんだよ」
おねーちゃんは、ぼくにとっても優しい。ぼくにご飯をくれないおあかーさんやおとーさんの目を盗んで、こっそりぼくにご飯を持ってきてくれる。
(ぼくにはやさしいおねーちゃんがいるもん、だいじょうぶだもん)
「あとで一緒に泳ごうね。今からごはんだから、落ち着いたらごはんもってくるよ。一緒にたべさせてあげられなくてごめんね」
今にも泣きだしそうな声でそう言ったおねーちゃんは、おかーさんに呼ばれて両親の方へとご飯を食べに行った。ぼくも一緒に食べたかったけど、近くに居るとおかーさんとおとーさんは機嫌が悪くなるから、ぼくは一人で川の方へと歩いて行った。
穏やかな流れの川――ぼくは周りに人が居ないことを確認してから、水着に着替え始める。
川や土があるため、街中に比べれば気温は低かった。しかし、日光の強さは変わらず、日が射すととても暑く感じた。おねーちゃんがぼくの所に来るにはまだ時間がありそうだったので、ぼくは着替えて一足先に水浴びをしようと思った。
服をたたんで近くの木の下に置き、靴を脱いで川の方へと近づく。足を水につけようとして思い出す。
「あっ、こういうときは、じゅんびたいそうしなくちゃ」
ちょっと前におねーちゃんがそう言っていた。しかし、やり方がよく分からなかったので適当に体を動かした。
いざ水の中に入ろうとした時、ぼちゃん、と何かが水に落ちる音がした。
(なんだろう、こっちからきこえた?)
水音がした方へと川の中を歩いて進んで行く。ひんやりとした川の水は、熱くなった体を心地よく冷ましてくれた。心地よさを味わいながら音がしたと思われる場所に来ると、体長十五㎝くらいの魚が数匹泳いでいた。
「わぁ………さかなだぁ!」
泳いでいる魚をこんなにも間近で見たのは初めてだった。
嬉しかったぼくは、魚を捕まえようと手を伸ばす。触れてもぬるぬるとしていて、うまく捕まえることが出来なかった。それでも夢中になって何度も手を伸ばす。
「楽しそうだね?」
「うん!とってもたのしいよ!」
不意にかけられた声に、ぼくは素直に答える。そして、答えてから誰に声をかけられたのか疑問に思った。
顔を上げて辺りを見ると、すぐ近くにある大きな岩の上に灰色の瞳の男が座っていた。
「いいんじゃない、今だけでも楽しい思いをしておけば。どうせろくな人生じゃあなかったんだろう?アハハ、キミもつくづく災難だねえ、だって両親に――ん、ああ、何でもないよ、こっちの話だから。ん、いや、カンデラはそのまま待機していてよ。えっ、オレだけ一人ラクして遊んでいる、だって?やだなー、そんなの今更じゃないか」
男は僕と話している途中で頭に付けていたヘッドフォンに手を当て、ヘッドフォンから伸びているマイクに向かって話し始めた。
はあ、と小さくため息を吐いた男は、何も聞いていないにも関わらず勝手に状況を話し始めた。
「ちょっと仕事で三名ほど、あちこちに配置していてね。こんな穏やかな世界じゃなくて、三秒目をつぶれば二度と目が覚めなくなる世界にだけど。〝こっちは真面目にやっているのに、お前は子供と戯れているのか〟だってさ。やれやれ、必要なときは話を全く聞いてくれないっていうのに、こういうどうでもいい時だけは地獄耳なんだから。ん?どうやって話していたか、って?ヘッドフォン越しに会話をしているだけだよ、何も珍しい事じゃあないだろう?ああ、この世界じゃヘッドフォン一つあれば半永久的に通信が出来るハイテクなものは無いのか。永久機関が無いんじゃ仕方ないね。ところで、キミはこんなところで遊んでいていいのかい?」
オッドアイの男は夏にも拘らず、袖も裾も長い真っ黒なコートを着ていた。その上、真っ黒な長ズボンを穿いる――見るからに暑そうだ。
コートにもズボンにも金の刺繍が施されていて、コートには無数のバッジが付けられている。服の色合いが特撮物のヒーローみたいでかっこいいなぁ、と思いながらぼくは尋ねた。
「ここであそんじゃだめなの?」
男は上流のさらに上の方を見ながら答える。
「いや、ここで遊ぶこと自体はいいんだけどね。今この時間帯にここで遊んでいていいのか、って聞いているんだよ。今ちょうどお昼だしさ、ここに居るのはまずいんじゃない?」
ぼくも男の見ている方を見るが、雲があるくらいで他に変わったものは無かった。
みんなと一緒にお昼ご飯を食べてきなさい、と言っているのかな?
「ぼくはみんなといっしょにごはんたべちゃいけないんだよ。おとーさんもおかーさんも、ぼくがいるときげんがわるくなるから」
「ああ、そう。……そういう意味じゃないんだけどな。まあ、いいか。それにしても、今日はいい天気だね。あんなにも雲が綺麗に見えて、こんなにもいい天気だと水浴びでもしたくなるくらい――うわっ!」
ぼくは自分が味わったひんやりとする水の心地よさを味わわせてあげようと、両手にいっぱいに水を掬ってオッドアイの男に浴びせた。
「みずあび、とってもきもちいいよ」
「だからって、見ず知らずの人にいきなり水をかける奴が――どわっ!」
濡れた石の上で暴れて抗議していた男はつるりと滑り落ち、派手な音をたてて川に落ちた。
「うう……、下着までびしょ濡れだ……。全く、水着でもない人に水をかけるなんて、キミは何を考えているんだか。もしかして、オレを岩の上から落とそうとか考えていたわけじゃないよね?」
不機嫌そうに言われ、ぼくは慌てて首を横に振った。
「ううん、おみずがとってもきもちよかったから……あつそうなかっこうしてたから、おみずかけたらすずしくなってきもちいいかな、っておもったの。ご、ごめんなさい」
立ち上がった男はぼくのほうへと手を伸ばす――この人も、おとーさんとおかーさんみたいに、ぼくを打つのだろうか?
ギュッと強く目を瞑り、身体を縮こまらせて俯いた。
茜色、浅黄色、浅緑色、天色、菖蒲色――色鮮やかな爪先は、ぼくの頭を包んで優しく撫でた。
「…?」
恐る恐る顔を上げ、男の方を見上げる。男は手を頭から離し、
「キミ、さ――ここから今すぐ離れなよ。じゃないと、キミは死ぬことになるよ」
と、淡々とした口調で話す。
「えっと……?ここに、いると、しぬ、の?」
実感のわかない話に、ぼくは男が言ったことを繰り返す。
「そうだよ。でも、今ならまだ助かる」
男は再び上流のさらに上を見上げていた――相変わらず山の頂付近に溜まる雲。
このままここに居ると死ぬ。
でも、そんなことを言われたって、ぼくにはあまり生きていたいとは思えなかった。
むしろ、それはいいことじゃないだろうか?おとーさんもおかーさんもぼくが居ると機嫌が悪くなる。ぼくにご飯を食べさせたくない。ぼくに綺麗な衣服を着せたくない。だったら、ぼくが居なくなればいいんじゃないだろうか?
「ぼくがいきていても、どうしようもないよ。おとーさんも、おかーさんも、ぼくのことがきらいみたいだし、おねーちゃんにもめいわくかけているし………」
ぼくが居なくなれば、みんな幸せになれるんじゃないだろうか。
「そういうの、ネグレクト、って言うんだよ。日本語じゃ育児放棄――本来養育する立場に居る者が、養育される側への世話を怠る。つまり、キミみたいな子供に対してご飯をあげない、風呂に入れない、衣服を清潔にしない、怪我をしても手当てをしない、可愛がらない。これは児童虐待っていう犯罪なんだよね。その上、キミに対して殴るけるの暴行を振るっているようだし、確実に警察沙汰だね」
この男はおとーさんとおかーさんがぼくにご飯をくれなかったり、頭を撫でてくれなかったり、怪我を手当てしてくれないから悪い奴と言っているのはなんとか理解できた。
でも、それは違うんだ。
おとーさんもおかーさんも、ぼくが悪い子だから。そうだよ、ぼくが悪い子だからいけないんだ。ぼくが悪い子だから叩いたり、蹴ったり、ご飯をくれなかったりするんだ。
だから、おとーさんはぼくに対して、要らない子って。
だから、おかーさんは、ぼくに対して――
「――〝誰の子かもわからないお前なんて、生まなきゃよかった〟?」
こちらへと顔を向けながら言うオッドアイの男の後ろ――自分の背丈を優に超す高さの水が押し寄せていた。
どうしてこの男が、おかーさんがぼくに言った言葉を知っていたのだろう。どうしてこんなにも大量の水が流れてきたのだろう。
考える暇も無くぼくは水に呑まれ、水を飲み、意識を黒く塗りつぶされていく。
真っ暗になった目の前に僅か一点のみの光が現れたかと思うと、遠くから罵倒する声が聞こえた。
〝本当に違うって言ってるでしょう!どうして信じてくれないのよ!〟
〝現にあの子は違うじゃないか!お前、浮気しているんじゃないのか!〟
ぼくは自分の家の押し入れの中に居た。
(ぼくがおぼえているさいしょのきおくだ)
僅かに押し入れの扉を開け、外で話しているおとーさんとおかーさんの様子を窺う。
〝本当に違うわよ!私はあなたの子を産んだのよ!私こそ聞きたいわ、どうしてあの子はO型なのよ!〟
〝そんなこと、知るわけがないだろう。どうしてA型とAB型からO型が生まれるんだ!〟
幼いぼくには、何を言っているのか理解できなかった。でも、ぼくが原因で喧嘩をしていることは理解できた。
「もういやだ、けんかしないでよ。おとーさん、おかーさん」
押し入れの扉を思いっきり閉め、暗闇へと意識を落とす。
暗い、暗い、暗い、暗い。
目を醒ますと、ぼくは湖の傍に倒れていた。
「ここ、どこ?おとーさん?おかーさん?おねーちゃん?」
起き上がり、ぼくは家族を探す。ふと視界に入った湖の水底に何かが漂っていた。
「?」
目を凝らして何が漂っているのか覗き込む。右手、左手、左足、右足、頭、緑の髪、白いズボン――ぼく?
「何がそんなに心残りなのさ」
後ろからかけられた声、ぼくは振り返る。
「えっと、グレイ、おにーちゃん?」
びしょ濡れの男が立っていた。男は僕の隣までやってくると、腰を下ろす。
「何が心残りなの?」
「こころ、のこり?」
「そっか、まだ理解できてないんだね。その水底に沈んでいるのが何か分かるかい?そう、キミの身体だよ。キミは死んでしまって、魂だけが残っているんだよ」
そう言われ、ぼくは近くにあった岩を触ろうとする。すると、するりと通り抜けた。
ぼくは、死んで、幽霊になった?
色とりどりな爪先が、ぼくの頭を包み撫でる。
「あれ、どうしておにーちゃんはぼくがさわれるの?」
「こういうのを専門にしているから、だよ。オレは何でもできるからね、キミのお願いを一つだけ叶えてあげる。何でもいいよ、何でも叶えてあげるから」
なんでも、叶えてくれる?
「じゃあ、じゃあね。ぼくね、おとーさんとおかーさんとおねーちゃんにあいたい。それからね、みんなといっしょにキャンプがしたいの。それから、それから、かぞくみんなとしあわせにくらしたいし、それから――」
「一つだけ、って言っただろう?」
男は苦笑いをしながら言う。
「そうだなあ、よし、分かった。じゃあ、こうしよう。キミの身体は水底を見ての通り、心臓が止まって動かなくなってしまった。でも、どの願いを叶えるにしてもキミには身体が要る。だから、キミを一時的にあの体に戻してあげるよ」
そういうと男は指をぱちんとならした。指を鳴らすと男の足元から黒い何かが現れ、水底を漂うぼくの身体を引き上げる。
「そのかわり、井水戸玄奥という名前はオレが貰う。今この時からオレが井水戸玄奥だ。キミにはオレが見聞きした物を伝えてあげるよ。直接会ってもいいけど、家族はキミに気付くことはない。どうしてか、って?キミがこの身体に戻れば、キミは別の世界の存在になるからだよ。普通の人は、別の世界の者に気付くことが出来ない。生きている人は死んでいる人を見ることはできないだろう?それと同じだよ」
ぼくは首をかしげる。
「あれ、分からないかな?キミにね、新しい世界をあげる、って言っているんだよ。新しいもう一つの世界――アナザー・ワールド。この世界はキミだけの世界だ。キミが望めば、そこでは優しい両親も居るし、おいしいものもたくさん食べられる。そういう世界だよ」
「でも、結局それは夢でしかない」
車も、人も、全てがいつもの様に戻っていた。五月蝿い騒音がする中、隣に居る井水戸は我輩に語りかける。
「もう分かるだろう。アナザー・ワールドは妄想でしかないんだよ。キミが望むよう、喧嘩ばかりする井水戸を演じたり、誰にでも優しい井水戸を演じたり、世界際のこと何も知らない井水戸を演じてきた。楽しかっただろう?キミが望むままの世界を遊び続けたが、幾らオレがキミを演じても、キミはもうこの世界には居ないんだよ」
隣に居る井水戸は、十一年前にあった時と同じようにバッジの沢山ついた真っ黒なコートを着ていた。
いいや、井水戸じゃない。井水戸は我輩の名前で、彼はグレイ・パラドックス。
「キミも今年で十七歳だ。そろそろ、現実を受け入れてもいい頃だよ」
我輩は何も言えないまま、去っていくグレイの後をついて行く。
「オレがそばに居ないと誰にも気づいてもらえない。寂しいだろう、もう終わりにしようよ」
「妄想、だと分かっていても、我輩がすでに死んでいると分かっていても、それでも我輩は、今のまま過ごしていたいデス。出来れば、両親に愛されたかったデス――」
色鮮やかな爪先が頭を包み、優しく撫でた。
****
「ああ、車ならそこに置いていても大丈夫だよ。今は何も動かないから」
全てが赤で止まっている信号を見て、車から降りた私に向かってグレイは言った。私は真っ先に確認を取る。
「お前さん、ずっと私のことを騙しておったのか」
「騙してなんかいないよ、オレは嘘なんか言っていない。キミに対しては井水戸だと名乗っていないし、会った当時は近くの中学に通っていたのも本当だし、廃墟の屋上から飛び降りたのも事実だ。だけど、オレは悪意を持ってキミに接触したから、イーブン、引き分けってところかな。キミもオレに対してアニメのことを調べさせただろう?杉野がオレを探すために作ったアナザーのアニメを、流行のものがある、と嘘を言ってさ。だからお互い様だよ」
彼は笑いながら言う。
「キミはパラドックスって知っているかい?正しそうに見える前提と妥当に思える推論から受け入れがたい結論が得られることを指す言葉なんだけど。オレの力はそれに酷似していてね、同じと言っても差し支えは無い程だ。時にはジレンマや矛盾と呼ばれているけど、キミにも同じようなことをしただけだよ」
そういうと、私の足元に大小二つの石を投げた。
「キミが杉野を助ければ、井水戸は死ぬ。井水戸を助ければ、杉野が死ぬ。これは間違った前提だ――井水戸は十一年前に死んでいて、これ以上死にようがない。キミの知っている井水戸はオレだ。次にキミはオレに願いを叶えて貰えば二人とも助けられる、という妥当に思える推論を出した。でもね、残念ながらそれは違うんだよね。初めから助けなくてはならない人物は一人しかいない、一人しか助けを求めていない。故に、助けようとした井水戸がキミの敵となって現れる、という受け入れがたい結論に至ったという訳だ」
言い終わると同時に、大小二つの石はぼんと小さな音を立てて粉々に砕けた。
「つまり私は青年を助けるのではなく、杉野を探さなければならなかったと?」
「イエス、そういうことだ」
グレイはぱんぱんと二回手を叩く。すると、彼の足元から白と黒の何かが現れた。
「白いのがモノ、黒いのがクロ、最強の矛と最強の盾。隣に居るのが水戸玄奥のもう一つの世界、アナザー・ワールド。本物の井水戸玄奥だよ。そして――」
彼は自らの胸に手を当てる。
「――オレが〝モノクロームコントラディクション〟。そう、解いてはならない式の答えだ」
「お前さんが答え、だと?」
私の質問には答えず、彼は話を始める。
「実はさ、オレの先輩が杉野に誘拐もしくは拉致、あるいは人攫いをされてね。杉野は彼女を使ってオレと紫香楽をおびき出すつもりらしい」
「どういうことだ?」
私は、彼の言っている意味がよく分からなかった。
「オレは井水戸と名乗って明日希高校に通っていて、そこに通う先輩が杉野に拉致された。よっぽど紫香楽に復讐したいらしい、アナザーのアニメを流して、先輩を人質に捕り、オレを挑発してくるんだ」
彼は呆れたような動作をしながら答えた。
こやつは本当に中央図書館で会ったあのグレイなのかだろうか?
あの時は威圧感があり、動くことすらできなかったが、今は威圧感も殺気も殺意も異常性も攻撃性も感じられなかった。
「相甲斐さん、勘違いしてないだろうね。オレ達SIは〝世界共通の敵〟を買って出ているだけで、キミ達と変わらないそこらへんにいる人間だ。自分の身近な人が危険な目に遭えば助けに行くし、困っている人には無償で手を貸す。そこらへん、勘違いしないでよ」
紫香楽と変わらない。
紫香楽と初めて会った時もそうだ、噂しか知らなかった私は紫香楽を酷く警戒した。
しかし、紫香楽からすればただ仕事をしていただけで、無意味に人を殺したりしない。処刑人と同じ、法に従っただけだった。
「だが、お前さんは私の敵なのだろう」
「いいや、グレイはただ人の願いを叶えるだけの存在で、SIは誰か個人の敵じゃない。SIはあくまで世界同士の平和を崩す者の敵だ。キミはそんなことしないだろう?だからキミはオレの敵じゃない。もちろん、考えが合わなくて敵対する、と言う意味なら敵だろうけどね。さっきも言ったけど、オレは学校の部活で遊んだり、雇主の店長と冗談交わしたり、頼れるキミに相談したり、仮初の家族と出かけたりするのが好きだ」
彼は至って真面目な口調で言う。
「だから、この日常を壊されたくないんだよ。オレだって普通の人と同じように、何事も無く毎日を過ごしたい、ときもある。それに、一般市民が誘拐されているんだ。警察のキミが手伝わないわけがないよね?」
少し、肩の力が抜けた気がした。
「市民誘拐、か。当然だな、私も協力する。どうやらお前さんのこと、勘違いしておったみたいだな。ミィのやつもお前さんらSIのことを酷く警戒しておったから、見境のない、それこそゲームの魔王のようなやつだと思っておった」
「昔はそういう意味合いが強かったのは事実だけどね。でも、ここ十年くらいで共通の敵条約というのが布かれてから、世界同士の戦争仲介組織になっているんだよ。まあ、絶対の世界が負けたってだけあって、皆があまり戦争を考えなくなったんだけどね。それはいい事だと思うよ。おかげで、オレ達SIはこうやって毎日暇しているんだ」
私は大きな声で笑いながら答える。
「だが、その日常が好きなのだろう?はっはっはっ」
青年は笑う。
「まあね。さて、それじゃあ孤月先輩を助けるための作戦を考えるか」
「そうだな。紫香楽の奴もおるし、杉野を捕まえて貰うか」
私の言葉を聞いた紫香楽は、音も無く車から降りてきて平然とした態度で言葉を投げた。
〝あー――僕では杉野は捕まえられない〟
降りてきた紫香楽の方を見ながら私は尋ねる。
「何故捕まえられんのだ?」
私の傍を通り抜け、少年の頬を左右につまみながら紫香楽は言葉を投げる。
〝お前は中途半端にしか条約を知らないのだな――世界際条約というものは――世界間で交わされている基本的な条約だ――その条約の内容は過干渉を防ぐというもの――それ以外にも世界際外交条約や――SIへの対応のための共通の敵条約など――さまざまなものがある〟
「そうだったのか?私は世界際条約しかないものだと思っておった」
ミィも紫香楽もそんなことを全く言っていなかったため、それだけなのだと思い込んでいた。
グレイは少し愉しそうに話し始める。
「一国の法律にもいろんなものがあるだろう、それと同じでいくつもあるのさ。司書っていうのは役職上異なる世界の知識を持っているだろう。この時点で『自分が居る世界に異なる世界の知識持ち込む』という条約違反に当てはまる。でも、条約を破った奴が居ないかを監視するには司書が空想科学を用いてすべての世界を監視する必要がある。だから、世界・表の三大勢力より三異条約っていうものが布かれているんだ」
〝アナザーのほっぺ――ふにふにで気持ちいい〟
「あうあう」
真面目な話をしている私たちなど気にせず、紫香楽は少年の頬を触っていた。
〝人間の子供って――どうしてこんなに可愛いんだ〟
「あうーあうー、止めて下サイー」
私も青年も少しの間二人の様子を見ていたが、ため息を吐くと青年は説明を始めた。
「三異っていうのは、世界・表の三大勢力である司書・ライブラリアン、王・ルーラー、軍・ソルジャーと、突然変異であるワベクのこと。三異は異なる世界の知識を得ても構わない。しかし、得た知識を悪用してはならない、というのが三異条約。三異の条約違反者は、ルーラー直属の世界警察が取り締まるってことになっているんだよ。だから、境界線である紫香楽からは、司書である杉野に手出しができないのさ。ちなみに、三裏っていうのが矛盾と絶対と虚無。条約のほとんどは、三異と三裏とそれ以外の世界に分かれて内容が決まっている。それから、そこにいるアナザーみたいにワベクや異名などから間接的に異世界に関わって力を得た奴らの為の、二次異交条約、っていうのもあって――」
〝話が長い〟
「いてっ」
ばしりと頭を叩き、紫香楽は話を止めさせた。叩かれたグレイは特に怒ることも無く、頭をさすっていた。漸く頬を離してもらえた少年は、頬をさすっていた。
この男も紫香楽と同じで、やはり付き合ってみれば案外普通の奴なのか。
世界というものは無限大にある――故に様々な人が居る。住む世界が違うだけで、人として分かり合えないことはないのだ。
〝このお喋りめ――関係ない事まで話すな――そういう話は時間があるときにしろ――相甲斐――手伝えはしないが――僕も杉野のことは気になる――だから僕も行く〟
そういうと紫香楽は私の車の後部座席へと乗り込んだ。
「やれやれ、しょうがない女王さまだな」
そういうとグレイとアナザーも後部座席へと乗り込み、私は運転席に乗り込んだ。