四章 グレイ・パラドックス
某県中央通り一丁目一番地一号、管理司書駐在中央図書館。その最上階にある管理司書の知識管理及び監視室にやってきた警視長は、扉を三回ノックした。
「鍵なら開いているの」
少女の声が聞こえ、警視長は扉を開ける。部屋の中には膨大な数の本と本棚、いくつもの機器と繋がれた巨大なコンピューター、そして水玉の眼鏡をかけた少女が居た。
「うむ、忙しいところすまんな。ちいとばかり、あの部屋の鍵を借りたいのだが」
声をかけると、少女は読みかけの本から顔を上げた。
「またあの事件のことを調べるの?ミィはあんまり感心しない――過去に囚われてもろくなことが無いの。でも、一つのことに夢中になるのは好き。だから鍵を貸してあげるの」
少女――ミィはそういうと、ポケットの中から小さな鍵を取り出した。
「お前さんは相変わらずしっかりしておるな、あやつに見習わせたいくらいだ」
「前任と一緒にはしないでほしいの。それに、ミィよりも優秀な子は居る――司書のアンネ兄妹を知っているの?二人はとってもすごい司書なの。ミィや前任とはくらべものにはならないくらいなの。十人の人が一度に話していても、アンネ兄妹は一字一句もらさず聞き取り覚えることが出来るの」
警視長の前に居るミィ・アーネと言う少女は、司書の中でも一世界の管理を任されるほど優秀な司書――いわゆる管理司書である。司書の中にも優劣があるらしく、〝アンネ兄妹〟というのがとても優秀なら司書らしい。
「お部屋を出るときは、きちんと鍵をかけてミィに鍵を返しに来てほしいの」
「うむ、分かった。毎度すまんな、感謝するぞ」
礼を述べ、警視長は部屋を出た。
一つ下の階まで階段で降りると、施錠された部屋の前で止まる。先程ミィから借りた鍵を使い、扉を開けて少し埃っぽい部屋の中へと入る。
内から鍵をかけ、部屋にある小さな明かりをつけた。
数ある部屋の内、膨大な数の捜査資料が保管されているその一室。〝永久未解決事件〟の資料のみの保存を目的としたその部屋で、警視長は資料を漁り始めた。
〝永久未解決事件〟とは、〝異名〟や〝異なる世界〟が何らかの形で関わったと思われる事件で、一般公開されることの無い事件のことだ。
大方の事件が未解決であったため、この名称で呼ばれている。
「ここに無いならあの事件は異名と無関係、ということになっちまうのだが」
人がなんとか通れる幅におかれた棚に、所狭しと資料が陳列されている。
「一体どこにあるのだ…確かに此処の棚に無くてはおかしいのだが…」
二〇一六年と書かれた棚を一心不乱に資料を漁っていた警視長は、ふぅ、とため息をついた。
(…あれからもう五年か)
私が〝灰〟を探していたのも、とあるアニメの情報を集めていたのも、一つの事件がきっかけだった。
警視長になった私の日常は緩やかに非日常へと移っていた。
司書と呼ばれる世界を監視する人間、紫香楽と言う名の絶対の境界線、異名と呼ばれる異世界からの違法侵入者。私の知っている世界はゆっくりと、だが確実に変わっていた。
どうにか司書や紫香楽と慣れ、異名に関わり、早一年が経った四月の終わり――今から五年前のこと。
「急げ、お前さんら!このままじゃ間に合わなくなっちまう!」
私は声を荒げながら階段を駆け上がり、最上階を部下とともに目指していた。
(頼む、頼む!間に合ってくれ――そして、嘘であってくれ!)
焦る気持ちからか、自然と駆け上がるスピードも速くなっていく。
最上階――管理司書の知識管理及び監視室にたどり着いた警視長は、勢いよく扉を開けた。
「そやつは危険だ!今すぐそやつから離れろ!」
中をよく確認せずに開けると同時に叫んだ私は、中に居る二人の人物を見て面食らってしまった。
「相甲斐、一体何の用だ?」
金髪の男が呆れ顔で声を出す。
「む、むぅ?杉野と…あやめ君じゃないか…!」
「お久しぶりですね、相甲斐さん」
そこに居たのは私の良く知っている管理司書・杉野深夜とその妻・杉野あやめだった。
「今、深夜さんと一緒に結婚式の最終確認をしていたところです」
柔らかな笑みを浮かべる茶色い髪の女性。
「おぉ、そうだったか!たしか結婚式は六月の頭だったな!だからといって、此処に仕事服で来るのはいかがなものかな」
私はいつもの様に、にかっと笑って彼女の服装を指摘した。
「あぁ、ごめんなさい。私ったら、着替えるのも忘れていたわ」
茶色い髪の女性――あやめは看護師らしいナース服で此処に来ていたのだ。
そんなあやめの肩を抱きながら、杉野が上機嫌で尋ねる。
「それで相甲斐。お前は一体何の用があったんだ?多くの部下を引き連れ、ここにノックもせず入ってくるとは…」
最後の方には、あきれた表情をしていた。慌てて警視長――相甲斐は説明を始めた。
「おぉ!そうだった!…実は先ほど紫香楽に聞いたのだがな」
「またおしゃべり好きの彼女の話し相手にでもされたのか?」
くすくす、とからかいの笑みをこぼしながら杉野はおふざけを言う。
「そうでは…いや、半分はそうだが。その時、今この時間にお前の元に〝異名〟が居ると言われてだな、慌ててやってきたのだ」
「私の元に?此処には私かあやめしか居ないはずだが…」
曇った表情でそう言うと、杉野は部屋の奥にあるスーパーコンピューターで部屋内のスキャンを行い始めた。司書の知識をすべて用いた空想科学のスキャンシステムは、あらゆる異物を検知することが出来る。これを用いて全世界の監視を行っているのだ。
とはいえ、杉野は科学世界の監視を任されている管理司書であるため、彼の使っているスーパーコンピューターでは科学世界の監視しかできない。監視結果のデータを、司書の世界に居る他の司書に転送しているのだ。
「あやめ君は気にしなくて構わん。お前さんの安全は私どもが守りますからな!」
大きな声で大丈夫だと宣言すると、彼女はにこりと微笑んだ。
「やはりこの部屋には、私を除いて科学世界とは別の世界に住んでいたものは居ない。異なる世界の力を持った者も、居ないぞ?私は許可証を得ているので異名ではないし………」
どういう訳か、スキャン結果は白だった。私は、もしや、と困ったような顔をして呟いた。
「むぅ…もしかすると、あやつにからかわれたのかもしれん…」
頭をかきながら小さな声で言うと、言葉がどこからとも無く文字通り降ってきた。
〝からかってなどいない――司書の近くに異名は居る〟
皆が辺りを見回す――一際大きな本棚の上に白い影が座っていた。
「紫香楽か。だが、ここにいるものは誰一人異なる世界とかかわりを持っていなかったぞ?」
杉野はスーパーコンピューターの画面に映し出される白の文字を紫香楽に見せる。
〝僕は分かりやすく相甲斐に伝えたつもりだったが――それでもわからなかったのか――僕は言った筈だ――司書の元に異名が居ると〟
言葉の意味を理解した杉野の眉間にしわがよる。
「紫香楽、それでは私の傍に居たあやめが異名になってしまうではないか」
杉野の声は酷くとげとげしかった。
〝だから――そう言ってるんだよ〟
私は慌ててフォローを入れる。
「お前さん、そういうおふざけは良くないぞ。あやめ君は空想科学を用いた身元精密検査を行った結果、この世界に生まれこの世界で育ったものだと結果がでておるのだ。異なる世界と接触した形跡も力を持った痕跡も無かったのだ」
蔑むかのような視線でこちらを見る白い影――紫香楽は、言葉を投げつける。
〝アブソリュートは間違いなど犯さない――世界際条約に則り――お前を始末する〟
アブソリュート――絶対の世界の住人。
紫香楽がそう言葉を投げ終えると、紫香楽の影から何かがわらわらと湧いてきた。あっという間に本棚から床に降り、相甲斐とあやめの元まで迫ってくる。
「な、なんだこいつは!」
ムカデのような、黒い身体から無数の足が生えている虫。
〝蟲だよ――僕のお気に入りさ――群れで獲物を囲んで足止めしてくれる――いい奴らさ〟
紫香楽が静かに手の甲を上にして右手を前に出すと、手の周りにきらきらと光る純白の刃が五つ現れた。
「止めろ、紫香楽!あやめが一体何をしたというのだ!」
杉野は近くにあった本で蟲を蹴散らしながらあやめの方へ駆け寄り、自分が盾になる位置に立った。あやめは杉野に縋り付くように背中に抱きつく。
紫香楽は相変わらず蔑むような視線を送る。
〝邪魔をするな管理司書――それは異名だ――異名を始末するのが僕の仕事〟
杉野は一歩も動かなかった。紫香楽から視線を逸らさず、ただ睨みつける。
「あやめは異名じゃない!私がきちんと調べたと言っているだろう!世界最高の知識をなめるなよ!」
声を張り上げ否定する。すると、後ろから小さな声が聞こえた。
「…ごめんなさい、深夜さん」
触れていた者が離れ、背中がひんやりと虚しくなる。
「あや―――」
キィィィン、と、耳に響く高い音が頭上から聞こえた。
振り返った杉野が見たものは、光る純白の刃に貫かれながら宙を舞う、あやめの姿だった。
「あやめ!」
純白の矢が飛ぶ彼女の元へ駆け寄ろうとした杉野の腕をつかみ、近づくことを阻止する。
「今近づいちゃお前さんも危ない!」
杉野は狂ったようにひたすら妻の名を呼び続けていた。
三つの光る純白の刃を放ち終えた紫香楽は、それ以上攻撃をしなかった。
杉野は自分を止める相甲斐を振り払い、ぐったりとしたあやめの傍まで駆け寄った。
「あやめ!起きてくれ、あやめ!」
しかし、呼吸も鼓動も完全に止まっていたあやめから返事など返ってこなかった。
あまりにも酷い現実に身体をわなわなと震わせた。血が滲むほど唇をかみ締めた杉野は、紫香楽を睨んだ。瞳には涙が溜まっていて、今にも零れ出しそうだった。
「何故あやめを…」
開いた口からは、怒りが溢れ出す。
「何故異名ではないあやめを殺したのだ、アブソリュート!」
〝何度も言わすな――それは異名だ――阿呆が〟
紫香楽は相変わらず蔑む様な視線を送っていた。
「……っ!許さんぞ、アブソリュート!貴様だけは絶対に許さん!…………覚えておけ!例え何百年かかろうと貴様に復讐してみせるからな!必ず、必ず貴様を殺してやる!」
紫香楽は何も言わず杉野を見ていた。
『殺す』と言われた紫香楽に怯えはない――当然のことだ。何故ならば、絶対の名を持つ紫香楽は負けることも無ければ死ぬことも無い〝最強〟と呼ばれているのだ。
無論、杉野もその事を理解している。しかし、一度点いた復讐の炎はその命尽きるまで止まる事を知らない。
〝愚かな司書――僕を殺せる者など――三千世界を探したところで見つかりはしない〟
紫香楽が相手を見下す様に本棚の上で足を組むと、文字通り言葉が降ってきた。
その言葉を受けた杉野の頭は自然と下を向いていた。しかし、杉野の顔には〝絶望〟などは無く、薄らと冷やかな笑みを浮かべていた。
「…くっくっく…………ふはははは………あっはっはっはっ!」
いつしか、口元だけに存在した笑みは振動を発し、周りに居る全てに笑みを伝えていた。
〝何が可笑しいのだ――司書の精神などまるで理解できない〟
紫香楽は腕を組みながら文字通り言葉を投げつけた。
「…知っているぞ、アブソリュート!かつて貴様と同じ力を持つものが住む〝絶対の世界〟がとある輩に跡形も無く消されてしまった事を!絶対の女王である貴様も奴には敵わなかった事をな!」
杉野は怒鳴るように叫ぶ。そこには〝怒り〟以外の感情などなく、全てを破壊し尽くそうとする意思だけが強く篭っていた。
「絶対を白、虚無を黒とするならば、その両方を兼ねそろえた存在――白と黒の矛盾。そいつこそが貴様の敵だ。その力を得て私は貴様に復讐をする!それまで精々怯えながら暮らすがいい!」
杉野は叩きつけるように言葉を吐いた。杉野は石の様に動かない既に息絶えたあやめを床に丁寧に置き、接吻をすると図書館の窓ガラスを腰に下げていた拳銃で撃ちぬいた。
派手な高い音を立ててガラスが砕け、びゅうびゅうと激しい風が図書館に入り込んでくる。
「最高の知識を持つ私をなめるなよ…必ず貴様を殺す為に矛盾の、〝グレイ〟の力を得てやるからな!必ず…必ず、無意味に殺されたあやめの敵をとってやる!」
そういうと、杉野は割れた窓から身を投げ出した。
迷うことなく割れたガラスから飛び降りた杉野は、百二十三メートル下にある地上に叩きつけられる前に闇の中へと姿を消していた。
図書館の中に残ったのは、相甲斐と警察数名に紫香楽、そして石の様に動かないあやめの遺体だった。
〝僕を殺せる矛盾の力は――お前の手には入らない――あれは僕が始末する〟
紫香楽はあえてそこに居る警察に〝人殺し〟を宣告する言葉を投げつけた。
「い、一体なぜあやめ君を殺したのだ、お前さん!その上、また無意味に誰かを殺すというのか!」
相甲斐が声を上げると紫香楽は静かに言葉を投げた。
〝それは異名だ――さっきも言っただろう――それから――グレイを殺すと言ったのは――ただの私怨だ〟
相甲斐は酷く動揺した。
「〝絶対の境界線〟であるお前さんが、私怨だと?そやつに何の恨みがあるのだ」
大きな本棚の上から音も無く床に着地した紫香楽は、ゆっくりとした足取りで相甲斐の方へとやってきた。
〝グレイは――僕の世界を丸まる一つ消したのさ――絶対と呼ばれる最強の世界を――それもたった一人で――僕は仲間の敵討ちをしたい――ただそれだけだ〟
そう言葉を投げると、紫香楽は悲しそうな顔で首を横に振った。
〝ううん――そんなことがしたい訳じゃない――それに――グレイは誰にも殺せないはず――例え僕でもね〟
「絶対のお前さんが敵わない、とな?」
信じられないといわんばかりの表情で問い詰める。
〝世界・裏の三大勢力は――白き絶対のアブソリュート――黒き虚無のドッペルゲンガー――そして最後一つ――白と黒のコントラディクションだ――それら三つはじゃんけんのような関係さ――虚無は絶対に弱く――絶対は矛盾に弱く――矛盾は虚無に弱い〟
紫香楽はもう一度首を横に振った。
〝それさえも本当かどうか――グレイは矛盾の力を持っているが為――最強の僕に勝つが最弱のものに負けることもある――当然その逆もあり得る――もしかすると――初めからこの三角関係は――成り立っていないのかもね〟
紫香楽は視線を割れた窓の方に移す。
〝それに――コントラディクションの力を手にするのは――所詮人では無理なのさ――だけど――グレイは人にしか得られない〟
「一体どっちなのだ?え?矛盾しているじゃないか」
理解できなかった相甲斐は、さらに答えを吐かせようと問い詰める。
〝グレイはそういう奴なんだよ――ドッペルゲンガーみたいに綺麗に入れ替わるんじゃなくて――入れ替わった人は死んだけど生きてる――みたいに矛盾が出来るの――しかもその矛盾が意図的かどうかも分からない――僕にもグレイは理解出来ない〟
怒ったように言葉を投げつけた。紫香楽は視線を動かぬ女に移すと、小さく言葉を投げた。
〝まさかこの世界には……――グレイが居るのか?〟
その言葉を受けた相甲斐が尋ねる。
「グレイがこの世界に居るだと?わかるのか?」
無表情の紫香楽は視線を女から逸らさずに言葉を投げる。
〝はっきりわかるわけではない――ただ――グレイが居る世界では――ありえないことが起こり――矛盾が生じる――だから最強で絶対の存在が消えるという矛盾が――僕の世界で起きた――………でもグレイってさ――本当はとっても優しいんだよ――本当はあの世界――僕は大嫌いだったから〟
言葉を投げ終えた紫香楽は相甲斐の前で初めて穏やかで優しい微笑を浮かべた。
〝でも――グレイはとっても酷いから――杉野が会えば――殺されるかもね〟
その一言を聞いて相甲斐は背筋に寒気が走った。
ふぅ、と、警視長は再びため息をついた。
(やはり…早くあやつを――杉野を見つけて止めねば、殺されるやもしれん)
とはいえ、もう五年も前の話だ。とっくの昔に殺されていてもおかしくはない。普通に考えても、五年も消息不明という時点で生きている望みは低い。
資料を探す手を止め休憩をしていると、ばたばたと外が騒がしいことに気が付いた。
「む、なんだ?」
司書は基本的に五月蝿く騒ぐのを嫌う。大人しく本を読むのが好き、という司書がほとんどだ。そのため、珍しく騒がしいことが気になった私は資料室の扉の鍵を開け、たまたま通りかかったミィに尋ねる。
「おい、お前さん。何かあったのか?」
分厚い本を抱えて走るミィは、キッと厳しい顔をして答えた。
「誰かが科学世界のスキャン用に各地に設置していたコンピューター端末を破壊したの。科学世界の人たちから見ても、違和感が全くないように作られていた端末の位置を的確についてくるなんて――SIかもしれないの。今から破壊された端末の修理と調査に行くの。でもこれは司書の管轄だから、あなたには大人しくしていて欲しいの」
「うむ……?ミィよ、SIとはなんだ?」
ミィは首を横に傾げて答えた。
「うん?相甲斐は知らないの?……おぉ、そうだったの。相甲斐はまだ警視長だから世界際には深く関われないの。警視監になれば、もう少し深いところまで知られるの」
「うぅむ、SIとやらは世界際が絡んでおるのか。流石に私には教えられないことかの?」
そう尋ねると、小刻みに首を振って否定した。
「司書の代表である管制司書からは、そのことについて尋ねられた場合においてのみ情報を漏洩させて良い、と言われているの。だから、相甲斐には教えてあげる――SIは〝世界共通の敵〟なの。そうよ、かつては〝世界最高の天才〟と謳われ、今は〝世界共通の敵〟と蔑まれているあの〝グレイ〟が集めた組織なの。条約を結び、各世界同士協力し合っているのもSIに対抗するためなの」
「グレイが集めた組織だと?そんなものは初耳だ…!」
科学世界の一個人では、世界際の情報などまるで入ってこない、ということか。警視長と言う立場上、その場しのぎのために異名やワベクに何度か関わることもあったが、それさえも氷山の一角を見たに過ぎないとは。
「優秀な司書であるアンネ兄妹もSIにさらわれたことがあったの。だから、ミィたち司書は対策を練ろうとしている――でも、SIの構成メンバーがまるで分っていなくて、対処しようがないの」
「一世界の管理司書であるお前さんでもわからんのか?他の司書はどうなのだ、司書世界のリーダーである管制司書は?少なくともアンネ兄妹とやらは実際にSIの者達を見ておるのであろう?」
少女は肩を落として首を横に振った。
「グレイが作った組織、としかわからないの。しかも、グレイという天才は十七年前に亡くなっているの」
「亡くなっている、だと?」
「今グレイと名乗っている人は、多分かつて天才と呼ばれていたグレイの弟子の誰かなの。でも、誰だかわからないからグレイと呼んでいるの」
ミィはSIについて話し始める。
「SIに宣戦布告された人たちはごく一部を除いて全滅しているの。それでもどうにか情報を集めようとは思ったけど、生きている人達に話を聞こうにもある人は怯えて口がきけない、ある人はいつ会ったかもわからない、またある人はSIのリーダーであるグレイを崇拝しているの。仕方なく死霊術師にSIに殺された人の内、何人かの魂を呼び戻してもらったことがあったの。でも、SIに殺されたはずの人たちの魂が一つも見つからなかったの。だから、SIと言う組織のことはよく分からないの。アンネ兄妹も――あ、こんな事をしている場合じゃないの」
少女はそう言うと足早に去っていく。しかし、少女は角を曲がったかと思うとこちらに戻ってきた。
「一つだけ言っておく――SIには絶対に関わらないの」
そう言うと、少女はパタパタと走って行った。
私は仕事仲間であった杉野の行方を探していた。それと同時に、杉野の奴が言っておったグレイについても調べを進めていた。今までに知り合ったワベクの者や司書のミィから噂を聞くと、グレイと言う人物が実在することが分かった。
本名は、グレイ・パラドックス。性別は男。
そして、僅かではあるがグレイの特徴らしきものも知ることが出来た。
グレイという人物は――
・願いを何でも一つ叶える
・奇跡であろうと、不可能であろうと何でもこなす
・絶対の世界をたった一人で消滅させるほどの実力がある
――らしい。そして、ミィが言うには――
・グレイ・パラドックスは十七年前に死んでいて、本当は弟子が名乗っている
どの項目を聞いても、平和な世界に生まれた私からは作り話の様な気がして信じることが出来なかった。
しかし、今まさにグレイと思われる人物が関わったとされる事件が起きたのだ。
「うぅむ、グレイの奴が関わっておる、などと言われた――関わらざるを得ないではないか」
走り去ったミィの後を追おうかと考えたが、下手に関わって異世界の情報を得てしまうと私が紫香楽に始末されかねない。
ぽりぽりと頭をかきながら、私は資料室へと戻った。
諦めたわけではないが、無鉄砲に動くほど幼稚でもない。今は五年前の杉野が管理司書を止めるきっかけになったあやめ君の事件について調べ、ミィの奴が帰ってきたところで尋ねればよい。
大体の司書は条約に触れない範囲で何でも答えてくれる。
内側から鍵をかけながら、周りの静けさから大半の司書が出て行ったのだろう、と、推測を立てていた。
「キミも随分と物好きだね」
と、誰も居なはずのこの部屋で、背後から男の声が語りかけてきた。
「だ、誰だ!」
吃驚してどきりと跳ねる心臓を必死に抑えながら振り向き、人影を探る。
(おかしい――この部屋の前にはずっと私が居たというのになぜ部屋の中に人が!しかも、この中央図書館には警視長以上の警察か、司書しか入ってこられないはずだ――一体誰だ?)
棚と棚の間――光がほとんど射していないその場所に、銀色に輝く二つの瞳があった。
「ごきげんよう、警視長、相甲斐正則さん――こうして会うのは初めてだね」
光を反射して銀色に見える灰色の瞳が目視できなければ、そこに人が居ることに気付かなかっただろう。それほど男は闇と同化していた。
「自己紹介をしよう、オレの名前は〝グレイ・パラドックス〟――まあ、偽名だけどね。キミとキミのお友達が五年にわたり、血眼になって探している〝灰〟だ」
どきりと心臓が高鳴ると同時に、ぞくりと背筋に寒気が走った。
(こやつが、あのグレイだと?!)
杉野が紫香楽に復讐するために探し求めていたグレイ――それが今私の目の前に居る。
探してはいたものの、まさかグレイ自らこちらに接触してくるとは思っても居なかった。
どうにか有利な状況を作ろうと、私は相手に気付かれないように少しずつ手を動かし、唯一の武器である拳銃を手に取ろうとした。
「キミも噂は知っているのだろう?グレイは何でも願いを叶える、ってさ。まあ、これは変な話ではあるのだけれど。どうして〝世界共通の敵〟であるグレイが個人の願いを叶えているんだ、ってね。キミも疑問に思っているんじゃないか?もちろんキミが知りたいというならば、理由を話してあげてもいいけれど――」
時にダークブルーと呼ばれる深みのある灰色の瞳が細められると、ぎりり、と身体が軋む音がした。
「ぐっ!」
苦しさに自分の身体を窺うと、真っ黒な何かがグレイの方から伸びてきていて、自分の身体に巻きつききつく締め上げていた。
「――銃、なんて物騒なものは持たないで欲しいなあ」
ごとり、と無機質な音を立て、拳銃は床へと落下した。
更にもう一本するりと黒い何かが伸びてきて、拳銃を拾い上げ持ち帰る。
持ち帰った拳銃を左手に取ったグレイは、銃口を警視長に向ける。
長い袖が捲れて僅かに光が当たり、見えた爪は全てバラバラの色に染め上げられていた。親指から茜色、浅黄色、浅緑色、天色、菖蒲色。
「オレなら一方的に武器を向けようだなんて考えないよ?」
「くっ…、よくもその台詞が言えるものだな。今まさに向けているではないかっ」
苦しみを感じながらも強がりを言う。
とはいえ、グレイ相手に私一人で何が出来るというのだろうか。
私はただの人間だ――グレイと言うのは〝世界最強〟である〝絶対〟をも殺すほどの力がある。しかも、こやつはたった一人で数十億居た住人を皆殺しにするどころか、世界そのものを消滅させたというではないか。
圧倒的に不利な状況に、自分から出るものは冷や汗と震えた声だけだった。
「確かに、これは公平じゃないね」
そう呟くとグレイは黒い何かから私を解放し、こちらに向かって拳銃を投げた。
「い、一体何を考えておるのだ?」
放り投げられた拳銃を綺麗に受け取り、相手に向かって問いかける。
問いかけてから私は後悔をする。このまま何も問わずに、関わらずにいれば、こちらに対しての興味が失せ、命を見逃してくれるかもしれなかった、と。
「武器を取り戻したんだ――これで公平、だろ?」
グレイがわざとらしく大きな動きで左手を下から上へと振り上げると、その手の動きにワンテンポ遅れて白い影の様なものが三本目の前を光の速さにも匹敵するほどの勢いで横切った――実際は、グレイの手の動きと同じスピードだったが、私には異常に速く感じられた。
白い何かが床と棚に軽く触れると、バリバリと不快な音を立てて触れた部分がごっそり削り取られてしまっていた。
(な、なんだ、今のは!床が、棚が抉られて――)
グレイは灰色の瞳を細め、口を歪に歪ませる。
黒い何かから解放されていて私の身体は自由だというのに、指一本動かすことが出来なかった。
「安心してよ、オレが宣戦布告する相手はあくまで世界際の平和を破ろうとする奴だけだからさ。オレには目的があってね、特別に教えてあげようか?ねえ、キミはRPGとかやるかい?」
口を開けるものの、身体が強張って声さえ出なかった。得体の知れないものへの恐怖が私をその場に縛り付け続ける。
「RPGの王道設定といえば、〝魔王〟と〝英雄〟だよね。魔王に侵略された世界でどうにか魔王を倒そうと一人の勇者が立ち上がるんだ。初めはバラバラだった人や国が、彼の活躍によってどんどんまとまっていく。最終的には勇者が魔王を倒し、倒した彼は英雄になる。そして、同じ敵を倒した国々は同盟を組んで丸く収まるのさ。こういう世界ってさ、よーく考えると凄くいい世界だよね?」
灰色の瞳は私の瞳を捉えて離さない――ここで逸らすと二度と何も見ることが出来なくなりそうで、目を逸らすことが出来なかった。
「魔王という一つの敵に対して全ての人や国がまとまり、それを打倒そうとするんだよ。これは何も現実から離れている考えや話じゃない。魔法世界や錬金世界、それから図書世界に、かつてあった絶対の世界。そしてこの科学世界とその他無数にある全ての世界――その共通の巨大な敵」
まるで子供が作り話を話すような声調で喋る彼に、何故か私は僅かな怒りを感じた。
「どこかの世界が他の世界の侵攻を考えれば、共通の巨大な敵が侵攻を考えた世界を討つ。それを何度も繰り返していけば、世界同士の争いはなくなるんだよ。幾らほかの世界を侵攻しようと言っても、自分の命は惜しいからね」
神経を逆なでされるような声。
(それまでに何人の人が死ぬというのだ―――)
僅かな怒りからか恐怖が消え、身体の自由が戻った私は相手を怒鳴りつけていた。
「――お前さんはそれを平和だと言いたいのか?そんなものは平和などではない!恐怖で他人を縛ったところで誰も幸せになどなれん!」
「なら逆に問おうか――キミの言う〝平和〟ってなんだ?」
金属のように冷たい視線が問い詰める。
「平和という言葉は〝戦争や紛争が無い状態〟を指す。手段はどうであれ、戦争も紛争も無いこの状態は〝平和〟と呼べるものではないのか?それに、今すぐ――せめて形だけでも争いをなくして欲しいと思っている人だって居るんだよ。だからそう願っていた彼女の願いを叶えたまでだ――絶対の世界を殺すことでね」
「何も殺すことはないだろう、他にも手段はあったはずだ!」
「では、キミは絶対の世界の者に殺されてもいいと?」
自分が放つ激情に流された声と違い、グレイの放つ落ち着いた声に、私は少しばかり冷静さを取り戻そうとしていた。
「どういうことだ?」
「今から二十年前、絶対の世界は知識・力・物質・権力を求め、他の世界への〝集中侵攻〟を決定したんだよ。事実上、絶対に敵うのはオレだけだ。極端な話、オレ以外のすべての世界の人達が絶対の世界の王に従わざるを得ない世界になる。逆らえば死、従えば奴隷。そんな戦争も無いが自由も無い世界がよかった、っていうならオレは悪いことをしたね」
全く悪いと思っていないような軽い口調で述べる。
「善し悪しはともかく、キミみたいにオレを敵視してくれる人が大勢いなくちゃ意味が無いんだよ。じゃないとオレ達〝国際単位〟は成り立たない」
「〝国際単位〟?」
時間や長さの単位などの国際単位系、のことを言っているのだろうか?一体何の関係があるのだ?
闇に溶け込んだグレイは楽しそうに、尚且つ嬉しそうに答えた。
「ああ、本当に単位のことを言っているわけじゃないから。〝国際単位〟という名の組織、つまりは〝世界共通の敵〟さ。通称SIって言えば分かるかな――他の世界を侵略しようとする奴に対して宣戦布告し、相手が侵略を止めるか相手を皆殺しにするまで原則として武力行使を止めない組織。侵略しようとする奴の規模が個人でも数百名でもあるいは一世界でも、絶対に虐殺するのがオレ達SIさ。今まで全くの負けなしだからこそ、二十九名と言う少数の組織にも関わらず〝世界共通の敵〟と呼ばれているんだよ。とはいえ、オレ達の情報なんてほとんど知られていないだろうね。実際、管制司書でも構成メンバーの内リーダーであるオレくらいしか知らないしね」
〝国際単位〟――通称〝SI〟。ミィのやつが言っておった〝世界共通の敵〟であるグレイの作った組織。構成員は二十九名、その内リーダーであるグレイのことしかわかっていない。
そしてそのリーダーが今私の目の前に居る――しかし、一世界相手にたった二十九名で勝つほどの実力者達を束ねる彼に、成す術など無いに等しく。
「ああ――オレが科学世界に居るのはSIメンバーとしてじゃないから」
「お前さんの目的は何だ?一体何のためにここに居るのだ?」
何を考えているのか、はたまた何を求めているのか。
私は上に立つものとして、周りの者が何を考えているのか気にかけておる。だから、それなりに他人の気持ちには気付けていると自負している。
しかし、この男が何を考え、何を望んでいるのか。彼自身から目的を聞いてもそれが本当なのか嘘なのか分からなかった。
「この世界での生活が楽しいからここに居るんだよ。例えば、学校の部活動で遊んだり、雇主と冗談交わしたり、頼れる人に相談に乗ってもらったり、軽い喧嘩をしたり、家族で出かけたり、とかね。オレだってそういう何気ない日常に憧れと幸せを感じるんだよ、キミと同じ人間だから。だけど、最近オレの近辺をかぎまわる奴が居てね。何も知らないくせにとあるアニメの情報がどうだとか、その放送日はいつだとか、〝灰〟がなんだとか、ほんのちょっとだけ運が良いってだけで、オレのことかぎまわってくる奴がさあ――はっきり言って鬱陶しいんだよ」
とあるアニメの情報?灰?運が良い――――まさか!
「芽は小さいうちに摘み取っておかないと面倒だから、つい先ほど摘んでおいたよ。うっかりオレに繋がる情報をホイホイ他人に、ましてやただの一般人に話しちゃダメだろう?」
私は昨晩のことを思い返していた――黒髪の青年!彼にはアニメの情報収集を頼み、灰という者を探していると教えてしまっていた。そして、彼はグレイが言う通り運が良い。
「お前さん、青年に一体何をした!」
グレイは嘲笑しながら話す。
「それから、キミのお友達。あれがオレにちょっかいを出してきて不快なんだよ。少しでも姿を現そうものなら、蛇のようなしつこさで追い回してくる。それも五年も前からずーっとね。これじゃあSIの仕事も、趣味もままならない。だから――」
急に声のトーンが下がり、背筋が凍るような寒気に襲われた。
「――オレを邪魔する杉野には、いい加減消えて貰おうか」
「そ、そのようなこと、させるわけにはいかん!」
まずい。非常にまずい。この男は既に杉野のことを知っておる!どうにかしてあやつのことを救わなくては、と言う考えをあっさりと崩されてしまう!その上、私が頼んだばかりにあの青年を巻き込んでしまった!
次々と言い放たれる惨憺たる言葉に狼狽する。いくら知識の豊富な元・管理司書の杉野と言え、相手は世界共通の敵――グレイだ。運のいい青年は今回も持ち前の運の良さで生き延びてくれているのだろうか。
「杉野の奴には手を出させん!たとえ相手がお前さんでも、あやつには何もさせん!青年とてそうやすやすとやられるほど運が無いやつではない!持ち前の運の良さでお前さんの攻撃を耐えたに違いない!」
トラックにはねられた時も、ビルの屋上から落ちた時も、明らかに即死と思われるほどの事故だったにもかかわらず、青年はかすり傷一つ負ってはいなかった。
「さあ、どうだろね?まあ、その青年の運がどうであれ、杉野の知識がどうであれ、二人は逃げられないよ。なんたって、向こうからオレに近づいてくるんだから」
利用した、私は青年の運の良さを利用した。知らないことを知っているという不可解な体質を利用して、杉野とグレイへの手がかりを得ようとしていた。
ここまで杉野に執着するのは、あやつと仲が良かった、と言うのも理由の一つだ。だが、何よりあやめ君がなぜ殺されたのが知りたかった。
紫香楽は〝異名だ〟と言う。杉野は〝異名ではない〟と言う。
紫香楽とも杉野とも交流のある私には、どちらの言うことを信じればいいのか分からなかった。分からぬまま、あやめ君は殺されてしまった。そして、杉野と紫香楽は対立する羽目になっている。
何が真実なのか、私は知りたい。
「………なるほど、キミはそのことが知りたいんだ?」
灰色の瞳が消え、かすかな物音が聞こえる。どうやら資料を漁っているようだ。
気が付けば背筋が凍るような寒気が、敵意が消えた彼に何故だか少し安堵していた。
「ほら、これ受け取りな」
そう言ってグレイは一つの調査資料を放り投げてきた。私はそれを落とさないよう、気を付けながら受け止める。
「これは?」
「杉野深夜が科学世界の管理司書になって初めて起こった永久未解決事件さ。その事件を調べれば、キミの知りたいことは分かるよ。ただし――」
足音も無くこちらに歩み寄る。様々な形色のバッジが無数についた真っ黒な生地に黄金の装飾が施された裾も袖も長いコートを着ていて、マイクの付いたヘッドフォンを付けているのが確認できた――しかし、顔はほとんど見えなかった。
「――キミが杉野を助ければ、青年くんは助からない」
「なっ!」
吃驚し、うまく言葉が出てこない。
「逆に青年くんを助ければ、杉野は助からない。そう、真実を知ればどちらか一人しか助けることはできない。どっちを選ぶかはキミ次第だ――真実を知りどちらかを助けてもいいし、何も知らずどちらも助けなくてもいい。真実を知り、杉野を助けたいなら県内最大級の病院へ、青年くんを助けたければ物語の終止符へ行けばいい」
どちらを、助けるべきなのか。ぐるぐるとまわる頭でどうするべきか考えるが、考えれば考えるほど頭は混乱していった。
私はずっと杉野のことを探していて、彼が未だ生きていることが分かった。しかし、彼を探すために青年にアニメの話を持ちかけたがために、青年が命の危機に瀕していて―――
「お、お前さん!」
退屈そうにこちらを窺っていたグレイに、必死に声をかける。
「どちらを助けるか決めたのか?じゃあ、オレになんて構っていないで助けに行きなよ」
私はゆっくりと言葉を選んで答える。
「私が助けるのは、青年、だ。私は青年を利用して、お前さんや杉野の情報を得ようとしておった。その結果こうなったならば、私は青年を助ける」
「オッケイ、オッケイ、それで結構。それじゃあ杉野は――」
「だから!」
私はグレイの言葉をさえぎるために、大声をあげて割り込む。
「私は青年を助ける――だからお前さんが杉野のことを助けてくれ!頼む!」
私は土下座をするほどの勢いで相手に頼み込んだ。
「お前さんは願いを何でも一つ叶えてくれるのだろう?だったら頼む、杉野の奴を助けてくれ!」
相手の瞳をしっかりと見据えて私は頼んだ。すると、初めてグレイが場所を移動するわけでもないのに視線を逸らした。
「イーブンだな」
「……?」
「青年くんを助けたいなら渡したその事件を調べてみるといいさ。じゃあね―――」
「待て!おい、グレイ!」
反響空しく静まり返る資料室――そこには、自分しか居なかった。
「なんなのだ。得体のしれない、底のしれない不気味な奴だ!あやつは一体何者だ?何を考えておる?今のは願いを承諾したとみてよいのか?」
深まる謎を抱えながら私は受け取った資料の表題を見る。
10年7月28日と書かれていた。
「くっ、あやつの言ったことを信じろと?いや、青年と杉野の命が握られておるならば従うしか……」
私は資料の頁をゆっくりめくった。
紙の色が黄色っぽく変色した資料と、そこに挟まれている古い手紙。
00年7月28日(土)
午後14時56分――泡白山にて、男児が川に流されたとの通報有り。
男児の両親の話によると、一人で川の方に行ってしまった子供が、山頂付近で雨があったため水かさが急に増し、川に流されたとの事。男児は緑色の髪に白地に青の刺繍の水着を着用。右手の甲の親指近くを何度もひっかく癖があり、擦り傷があるとのこと。
両親の名と住所、電話番号等の連絡先を聞き、警察100名あまりで捜索開始。
しかし、日が暮れるまでの間の捜索もむなしく、発見できず。
00年7月29日(日)
日が昇るとともに捜索開始。男児が流されたと思う場所から下流に向かって捜索。
しかし、日没までの捜索もむなしく発見できず。
00年7月30日(月)
日が昇るとともに捜索再開。午前9時34分、男児の流された川の下流に湖があり、そこで男児の物と思われるサンダル(右片方)を発見。
同日午前9時12分。水底にて幼い男児の遺体を発見。髪は緑色で、右手の甲親指付近に擦り傷あり。また、遺体の着衣である水着に両親より伺った男児の名『いみとげんおう』という名札あり。着衣の名札及び身体的特徴より、川に流されて行方不明になっていた井水戸玄奥(五歳)と断定。
井水戸一家に連絡を入れようと電話をかけたが、何故か現在使われていないというアナウンスが流れた。電話番号を聞き間違えた可能性があったので、二名の警察が直接家を訪ねたところ、何故か辿り着けず。
上官に話すとお蔵入りとのこと。念のため、井水戸一家より伺った連絡先等を記しておく。
電話番号 080―○○○○―△△△△
郵便番号 △△△―××××
住所 某県オモテ通り裏一―一 一騎マンション三〇六号室
夫・井水戸正志 / 妻・井水戸奈那子