三章 白衣の医者とWorld Bent Critical
二〇二一年七月八日、土曜日――十四時十六分。
オレはベッドの上に座って頭を抱えていた。
一時間ほど前、アナザーが条約違反を犯して錬金術を使ったにもかかわらず、紫香楽はおろか管理司書から警告の一つすら来なかった。
店長は倒れた白衣の男を病院まで連れて行くことになり、結局オレと先輩はバイトを早々に切り上げることとなったのだ。
なので、オレはマンションに帰ってきたわけなのだが…………。
「それで井水戸くん。記憶を共有しているってどういうことなのかな?」
オレの右隣には嫌に楽しそうな先輩が座っている。反対側には嫌に悲しそうなアナザーが座っている。
〝記憶の共有〟
初めて入ったはずの調理室でどこに何があるかが分かった――アナザーが見ていた。
店長がボウルとピーラーを落とした事を知っていた――アナザーが見ていた。
管理司書と錬金術についてアナザーは詳しく知っている――その情報がオレの頭の中にもある。
つまり、
「アナザーが知っていることや知った事をオレの知識として得ることができる、みたいなんですよ。しかも、アナザーが考えていることも…、多少分かるみたいです」
昔から何でも分かると思っていたが、それがアナザーを介すことによって、ずるをして得ていたならばオレ自身はなんて無知なのだろうか。そう思うと酷く気分が落ち込んだ。
「って、言っても……信じられませんよね」
幾ら英雄部の副部長とは言え、思い込みが激しいとか、現実と空想の区別がついていないとか、そんな風に思われるだろう。
「ううん!私は信じるよ――信じる」
先輩はいつもと同じ、柔らかな微笑みを浮かべてそう断言した。
「こんな事信じてくれるのは、きっと先輩くらいでしょうね……。でも、これってずるいことですよね」
「どうして…?」
「だって、学生達は皆必死に勉強しているんですよ?あれになりたい、これになりたいっていう夢のために、無理やり頭の中に知識を蓄えているのに、それを他人から盗んで得るなんて。カンニングとかやり放題じゃないですか」
自分でもわかっている――先輩に対してこんな言い方もずるい。これじゃあ自分が間違っていないと肯定してもらいたいみたいじゃないか。それでも言わずにはいられなかった。
「でも、でもさ、井水戸くん」
孤月は井水戸との距離を詰めるようにして近づき、井水戸の右手を握った。
「アナザーくんと出会ったのは昨日なんでしょう?今まで学んできたことは井水戸くんが頑張って勉強したから身についてるんでしょう?」
先輩はいつもの様な微笑みをオレに向ける。その微笑を見ると、不安や悩みが安らぐような気がした。
(…高校に入ってからずっと先輩に世話になりっぱなしだな。オレと一つしか変わらないって言うのに、しっかりしてて、面倒見も良くて……その上美人だし……。それに比べてオレってかっこ悪い……?いや、いや、いや!これでも学校内じゃかなりモテる方だ――って、こんなこと考えている場合じゃないか。……アナザーと会ったのは昨日――)
そう、確かに出会ったのは昨日だ。けれど、昔から見たことも無いものや知らない言葉の意味を答えたことがよくあった。アナザーの姿を見ていないだけで、情報は得ていたということも十分にあり得る。
それに、アナザーの話を思い返しては、世界際条約に触れるのではないかと酷く気になっている。
アナザーは〝紫香楽〟という奴に言われてこの世界に〝来た〟のだ。ならばアナザーはこの世界以外の人という可能性が高い。当然アナザーは異世界のことを知っている。ならばアナザーを介して知識を得ることは、〝異世界の知識を自世界に持ち込む〟という条約違反になるのではないか。そうなれば紫香楽に始末されるのではないか。気にはなるが不思議と不安にはならなかった。
「話を聞いてもらえマスカ」
控えめな声を聞き、オレと先輩はアナザーの方を向いた。
「条約に違反するのは確かなのですが、特例というのもありマス」
「それが見逃される理由なのか」
そうでなければオレは始末されているだろう。ここでも〝運よく〟か、と嫌気が差した。
「我輩から君に言いたいのは一つだけデス」
悲しそうな目でオレのほうを見ながら言う。
「君は勘違いをしていマス」
「何を勘違いしているって言うんだ?」
アナザーは身を乗り出してオレにしがみついてきた。
「お、おい」
ぐすん、と鼻をすする音が聞こえてくる――泣いているのか?
どうしていいのか分からず、とりあえず空いている左手でアナザーの頭を撫でた。なんだか落ち着く――まるで自分が慰められているような気分だ。
いつまでも泣きながらしがみついている。離れる気も教える気も無いのだろうか。
「な、なぁ、アナザー?一体オレは何を勘違いしているか教えてくれないか?」
さすがにじれったくなってきたので、自分から訊いてみた。すると、ちょっとだけ頭を上げてこちらをのぞき見始めた。
「えっと…、教えてくれない、のか?」
もう一度催促するとアナザーは口を開いた。
「我輩は君なのデスヨ?」
「え?」
「我輩は君の世界デス。君にとっての〝もう一つの世界〟デス。だから、我輩が知っている事を君が知っているのは何もおかしいことじゃありまセン。我輩は君にとってのもう一つの世界デス」
アナザーは、目元をこすりながら続ける。
「結末への分かれ道にAとBの選択肢があった時、君がAを選んだとすれば、我輩はBを選んだ結末。君には存在し得たが選ばれなかった、歩まなかった人生が我輩デス。君自身が選んだ選択によって君が後悔しないために我輩が居るのデス」
後悔しないため、アナザーが居る?
じゃあ、オレが今まで後悔しなかったのはアナザーが居たからであり、今までに失敗や後悔することもあったということだろうか?
「違いマス」
考えを読んだかのようにアナザーが否定する。昔の記憶を見られるのではなく、リアルタイムで言われるとなんだか居心地が悪い。
「世界が影響するのはあくまで世界だけで、我輩が影響するのは時間と空間の二つだけデス。我輩はあくまで君にとって不都合な時間と空間を監視しているだけデス。実際に我輩が何かしたことはまだありまセン。君が今まで後悔しなかったのは……まぁ、なんデス?ものすごくポジティブだったのデショウ」
「そんな呆れたような顔で言うな!」
怒った様に声をあげると、驚いたアナザーはオレの上から飛びのいてベッドの掛布団の中へと潜り込んだ。
「もう、怖がらせちゃダメじゃない。大丈夫だよ、アナザーくん。井水戸くんは優しい人だからね。それに、お姉さんはアナザーくんに訊きたいことがあるんだけどなぁ?」
優しい先輩の声を聞き、アナザーは掛布団から顔をのぞかせた。
「ねぇ、アナザーくん。井水戸くんがアナザーくんの知識とか、記憶とか、考えとかが分かるのはどうしてなの?」
先輩が問いかけると、アナザーは嬉しそうに笑い、掛布団をぽいっとオレの顔に被せた。
「うわっ、前が見えねー」
半ば棒読みで言うと、嬉しそうなアナザーの声が聞こえた。
「えっへん!我輩を泣かすとこうなるのデス。反省すれば、どうして我輩の考えや知識がわかるかを教えてあげマス」
「まいりましたー、ごめんなさいー」
顔に被った掛布団を引っ張って視界を取り戻しながら、棒読み具合に言った。こういう反応を見ると、やっぱりこいつはただの子供なんだなぁ、と思った。
「いいデショウ。教えてあげマス」
満足したらしく、アナザーは上機嫌になっていた。
大体、考えが分かるならこの答えも訊かなくてもわかるはずだろう。だが、オレには全くわからない。本当に記憶を共有しているならば何でも分かるはずだというに、何だか矛盾している気もする。もしかすると、全ての記憶を共有しているのではないのかもしれない。
上機嫌のアナザーは、何の合図も無くオレと先輩の手の甲を思いっきりつねった。「いったぁい!」「いてっ!」と、それぞれ小さな悲鳴をあげる。
オレ達が何かを言う前にアナザーは言う。
「それと同じことデス」
当然、オレと先輩は目を丸くした。〝それ〟が何を指しているのかが分からないからだ。
「二人とも、手をつねられて痛かったデショウ?手という身体の一部から神経を通じて脳に痛みという情報が伝わったのデス。我輩は手足と同じで君の一部、ですから我輩からそこに何があって何の知識や視覚、聴覚等を得たかが脳である君に伝わる――どちらも同じことデス」
なんとなく理解はできる。
(でも、やっぱりこう言われるまでオレにはその事が全くわからなかったのはどうしてだろう?やっぱり何かカラクリがあるのか?)
再び考えを読んだかのようにアナザーが答える。
「君が我輩に意識を向けていないからデス。人の意識というのは曖昧で、例え怪我をしていたとしても、怪我をしたこと自体に気付かなければ痛みを感じることはありまセン」
「オレが意識してなかったから?だから会った後のナイフの位置とかボウルとピーラーのことは、はっきりと分かったのか」
しかし、テストの時などにうっかりカンニングをしていた可能性は十分にありえる。
「やっぱり、これはずるじゃないか?」
「ずるにはなりまセンヨ。知識は全部、君自身が覚えているのデスカラ」
「全部オレが?お前の記憶をオレが盗み見ているんじゃないのか?」
そうでなければ、今みたいにオレの知らない事をアナザーが言葉にすることは出来ないはずだ。
「ですから、我輩を含めて君なのデス。DIDの様に、記憶の共有がされていないだけだと思ってくだサイ。そして不意に共有される――そんな感じデス」
すると、興味津々と言う感じに孤月が聞く。
「DID、って一体なぁに?」
アナザーは孤月のほうを見る。
「解離性同一性障害、のことデス。一人の人の中に複数の同一性または人格がある、という自我の同一性が失われていることデス」
その話を聞いていると、自然とため息が出た。
「一人の人、っていうけどさ……オレとお前にはそれぞれ身体があるじゃないか。DIDとは全然違うだろう」
アナザーは口を尖らせたが、次の瞬間には何かを思いついたようにぱっと明るくなった。
「我輩は外付けハードディスク、デスネ!」
「オレはコンピューターかよ……………で?さっき言っていた紫香楽っていうのは結局誰なんだ?」
何処かで聞き覚えのある名前――アナザーは嬉しそうに答えようとした。すると、先輩は急に立ち上がり声をあげる。
「この話は、私は居ない方がいいんだよね?じゃあ、私はそろそろ自分の家に帰るよ」
そう言うと玄関まで走って行き、さっさと靴を履いて外へと飛び出して行ってしまった。
「あ、ちょっと先輩!…………帰っちまったか」
こういう反応をされると、なんだか悪い事をしてしまったと思ってしまう。
「やれやれ、女性を泣かせるとは酷い人デス」
ふぅ、とあきれたため息交じりにアナザーが言う。
「いや、泣いてないだろ!勝手に泣かせたことにするなよ!大体、紫香楽のことを先輩に話さないって言ったのはお前だろう!」
反論したが、全く気にしてない様子で話し始めた。
「紫香楽はですね、世界共通のルールなんデス。さっきお店で話した条約に〝罰と償いの名〟というのがありマシタネ?」
オレは、月曜日にあったら謝ろう、と考えながら、文句を言いつつアナザーの話に耳を傾ける。
「オレの言ったことはまた無視かよ!……で、その〝罰と償いの名〟っていうのが紫香楽のことなのか?」
「そうデスヨ。世界際的に紫香楽は〝絶対の境界線〟と呼ばれていマス」
「境界線?もしかして、そいつが条約を決めた奴なのか?」
「いいえ、決めたのは紫香楽じゃありま セン。その条約を実行するよう指名されたんデス」
アナザーはオレの膝の上にしっかりと座りなおした。
「実行?〝絶対の境界線〟と呼ばれている……境界線を監視しているのは紫香楽、なんだな?」
アナザーは肯定の意味で頷いた。
条約を実行、ということは恐らく異名や異名を引き入れた者を始末しているのが紫香楽なのだろう。人柄などは分からないが、一つの疑問が浮かんだ。
何故オレの一部であるアナザーが紫香楽に言われてこの世界に来たか。
普通に考えればおかしな話だ。オレの一部であるアナザーが他人の言う事を聞くわけが無い(と、思う)し、条約を実行している奴がわざわざ異なる世界の奴を送り込むなんて。
(というか、オレがここの世界のヤツなのに、その一部のアナザーが異なる世界の奴っていうのもおかしくないか?)
わからないままと言うのも悩まなくてはならない。そして、この事は一人で悩んでも解決しそうにもない。ならば聞いたほうがいいだろう、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。
「なぁ、アナザー。アナザーってさ、この世界の住人、なのか?」
そう尋ねるアナザーはくすくすと笑い出した。
「何がおかしいんだよ」
「いや、我輩はあくまで〝世界〟ですから、ネ?」
世界、だからなんなんだ?
結局どういうことかわからないじゃないか、と最初は思っていたが、よくよく言葉を思い返す。〝世界〟だ。世界は簡単に言えば〝時間と空間〟…。
「えっと?も、もしかして、アナザーが異なる世界に行くのは…あー…、物質や生物ではなく〝もうひとつの時間と空間〟だから問題が無い、とか…?いや、でも、いかなるモノも招き入れちゃだめだって……」
「正確に言えば、我輩はここの住人デス。しかし、我輩はアナザー・ワールド――もう一つの世界。世界がどこに居ても世界と言うのは境界線上必ず隣同士にありマス――交わることが無いのデス。ですので、我輩みたいな世界がどこに居ても、条約には何の影響も問題もありまセン」
そう言って無邪気に笑った。
「ん?世界が居る?お前みたいな奴が他にもいるのか?」
そういうとアナザーは何かを考えるように首を傾げた。
「いえ……、どの世界にもその世界の基となるものがあるのデスガ、それがたまに人とか猫とか生き物に化けて、色んな世界をふらふら遊ぶことがありマス。しかし、厳密に言えば生き物ではないので〝居る〟って言い方は変デスネ」
「へぇ…そうなのか。お前も、違うのか?」
人じゃないのか、とは訊けなかった。
「我輩は命を持った世界デス。君が居なくなれば我輩も消えマス」
オレが死ねばアナザーも死ぬ――その事実が今までで一番重いことのように感じた。
そんなオレの考えを読んでか、
「逆に言えば、君が消えない限り我輩は存在しマス。例え拳銃で撃たれてもデス」
と、笑って言った。
「拳銃って…痛いだろう?」
と、オレはどうでもいいようなところにしか突っ込むことが出来なかった。
しかし、アナザーはやっぱり嫌な顔一つせずに、
「銃じゃ世界は傷つけられまセン」
と、答えた。
「それに、黒体があるので放射線だって平気デス」
「黒体…」
そうオレは呟くと、アナザーの羽織っているマントを見た。
記憶上は全く聞いたことの無い言葉だったが、いつもの様に意味が分かる。
…エネルギーを喰う物質。熱とか、光とか、電気とか、放射線とか。衝撃は喰うが物質は喰わないらしい。銃弾を黒体に向けて打つと、黒体に当たった弾は貫通もせず跳ね返りもせず、当たったその場で地面にすとんと落ちる。銃弾が黒体に当たった時に発生する衝撃を喰ったからだ。
しかし、マントみたいに薄い黒体を包丁などで刺すと、黒体をあっさり通り抜け着ている人に刺さってしまう。分厚いゴムに卵をたたきつけてもゴムは痛まないが、刃物を押し当てるとゴムが切れるのと同じことだ。
アナザーを介して知識を得られることに対して、今はとても満足していた。初めは嫌悪したが、そういうことが出来てしまう以上仕方が無い、と割り切ったからだ。そう割り切ってしまえば、記憶の共有と言うのもなかなか悪いものではないように思えた。
もちろん、記憶が共有されていると言っても全部ではないらしいので、分からないことだってある。
「なぁ、紫香楽はどうしてお前にオレのとこに行けって言ったんだ?」
「直接〝君のところに行け〟と言われたわけではありまセンヨ。我輩が紫香楽から聞いたのは〝厄介な奴に虫が憑く〟と言うことだけデス」
と、台所にある小さめの冷蔵庫を見ながら答えた。そして、
「でも、紫香楽が〝厄介〟とか言うのは珍しいことなんデスヨ。だから来てみたのデスガ、どうやら来なくても良かったみたいデス」
と、ちょっとがっかりしたように肩を落とした。
「なんで来なくてもよかったんだよ。つーか、厄介な奴って?」
アナザーはにんまりと笑った。
「君ですよ、君。君が厄介なんデスヨ」
「オレ?」
会ったこともない、よくも知らない世界際条約の境界線に厄介な奴呼ばわり。いや、オレの一部であるアナザーが会っているなら、オレも会ったことになるのかもしれない。
しかし、どうしてオレが厄介なのか、どこが厄介なのか。紫香楽と言う奴に是非とも直接会って聞き出したかった。
(に、しても――なんか一日で色々ありすぎていまいち整理がつかないなぁ。魔法とか錬金術とかまである、なんて言うしさ。しかも、オレとこいつは互いの考えが分かります、なんてことにもなっているし。オレの知らない事はまだまだ沢山ある、ってことだよな?いや、もともとそんなに物知りってわけじゃないけどさ)
〝異名〟なんていう、異世界からの侵略者(で、いいのだろうか?)まで居るらしいし、しかもそれが目の前に居た。 オレ達が見たのはミミズみたいなやつだったが、魔法や錬金術なんてものが別の世界があるなら、そのうち本当に〝魔王さま〟なんていうのがやってきてもおかしくはないのかもしれない。
そう考えると、じっとしているのがとても無駄なことに思えた。
「なぁ、管理司書ってやつには誰でも会えるのか?」
そう口に出すと、明らかに驚いたと言う顔をした。
「会ってみたいのデスカ?君が管理司書に?会おうと思えば君なら顔パスで会えるはずデス」
「顔パスって…」
それはつまり、さっきアナザーが錬金術を使ったことによってオレがマークされているという事なのだろうか。それとも、それ以前からオレは管理司書に知られているのだろうか。いや、多分後者だろう――アナザーは司書に会ったことがあるはずだ。
「君の読み通り、我輩は司書さんとも仲がいいデス。ちなみに、司書さんは基本的にとってもフレンドリーですから、事前に連絡すれば会えマスヨ」
「そうか、フレンドリーなのは何よりだ。司書っていう奴は何でも知っているんだよな?どんな異名が居るかとか、見分け方とか、異世界についてとか聞きたいな、なんて思うんだけど」
するとアナザーは、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「それは答えてくれまセン。司書にはむやみに情報を漏洩させない義務があるのデスカラ」
笑われたことには少し腹が立ったが、返答を聞いてもっともだと思った。
「ほいほい情報を漏らせば、条約の意味がありマセン」
「はぁ…だよなぁ。そう上手くいかねぇか………」
――ん?上手くいかない?運のいいオレが?
「でも、どうしてそんなことを訊きたいのデス?」
「ん、いや、さっきアナザーが異名を倒していただろう?錬金術とかいうのは使えないけど、刃物とか鈍器でも倒せるなら異名退治、とか、やってみるのはどうかなって思ってさ」
思っていることを素直に伝えた。
〝物語の終止符〟に来た医者だって、多分異名の蟲に憑かれて辛い思いをしたはずだ。異名がどれくらい居るのかは分からないが、探せばもっとたくさんの人が異名に困っているのかもしれない。絶対の境界線が居ると言っても、さっきみたいになかなか来てくれない事だったあるのだろう。
正義の味方を目指すほど夢見がちではないが、だからこそ、近くで困っている人が居るなら手を差し伸べることくらいはできないかと考えた。
「異名が悪いかどうかはオレにはわからないけど、さっきの医者を見る限りいいやつとは思えない。だから、もし異名に困っている人が居たら助けたいなー、なんて……」
そこまで話してだんだんと恥ずかしくなってきた。オレの言っていることは、どう聞いても〝正義の味方〟に憧れているヤツの言うことじゃないか。
アナザーは嬉しそうに笑った。
「君ならそう言うと思いマシタ。確かにそれなら司書さんに会った方がよさそうデス。会いに行ってみマスカ?」
「おう!……そういえば聞いてなかったけど、管理司書ってやつはどこに居るんだ?もしかして〝変な魔方陣で異空間に行く〟とか、〝こことは全く別のファンタジーな世界に居ますー〟……とかじゃないよな?」
やっぱり異なる世界っていうだけあって、そういうものなのだろうか?
「そういう行き方もできマスガ、それは条約違反者がよくやる手口デス。正式な手続きを済ませれば、扉をくぐるよりも簡単デス。もちろん、ファンタジーと言えばファンタジーではありマスガ」
「……やっぱそういう行き方もあるんだ」
科学じゃいまだにタイムマシンとか空飛ぶ車とかが出来ないっていうのに、異世界、なんて言われてもどんな世界か全く想像もつかなかった。この目で見ていないので、どれくらいファンタジーなのかも見当もつかなかった。
小人とか妖精が居たらどうしよう――誤って踏み潰したりしないだろうか?
「別に異世界と言っても、ものによっては歩いて行けないわけじゃないデスヨ?生き物は常に世界を移り住んでいマス。しかし、前に居た世界の記憶や知識が無くなっているので、あたかも同じ世界に居るように感じるのデス。何度もいいますが、境目はあくまで線デス」
アナザーは机の上に置いてあった黒いマジックを手に取り、ふたを開けて床に直径四十㎝くらいの円を描いた。
「ああっ!おまっ、それ油性だぞ!」
「世界と世界の境界線を超えるなんて、この円の中に入るのと何ら変わりはありマセン。それが我輩たちには見えないから、このベッドからそこの玄関まで行くのと何ら変わりが無いのデス」
と、ベッドから玄関に向けて指をさした。
「そしてオレの言ったことはまた無視か!ったく…、誰が床の掃除をすると思っているんだ」
オレは目線をアナザーの指差す方へと動かしていった。
「あ、そうだ。さっき言っていた条約の特例ってどういうものなんだ?司書に会いに行く前に確認しておいたほうがいいと思うんだけど」
先輩がいた時に話していたことを思い出し、アナザーに尋ねる。
「君みたいに異なる世界を介さず異なる世界の力を得た人達が特例デス。紫香楽からは何もしないことになっていマス。そういう人達の事を同士は〝ワベク〟と呼んでいマス」
「ワベク?」
聞きなれない単語に思わず聞き返す。
「World Bent Criticalの略称デス。ワールドのワ、ベントのベ、クリティカルのクでワベクといいマス」
「って、言うか――異なる世界の力を得た人達?オレにもお前みたいに魔法とか、錬金術みたいなものが使える、ってことなのか?」
「確かにそう言った力が使えマス。もっとも、使えるのは君の一部である我輩だけデスケド」
「ああ……、そっか……。じゃあ、オレが持っている異世界の力ってのは一体何なんだ?」
「我輩のことデショウ。でも、貴方は厄介な人デスカラ」
十六年生きてきた中で、今日が一番驚くことが多い日かもしれない。アニメの話を警視長さんに聞いたが為にこんなにも考えるハメになるとは。
そういえば、アニメのことを警視長さんにまだ伝えられてなかったな、と考えている所で、
「三時過ぎデスヨ」
と、唐突にアナザーがきりだした。
アナザーが何を訴えているのか、今のオレには不思議と理解できた。
「そうだな、遅い昼ご飯を食べに行くか」
今朝とは違い、何の言い争いをすることも無くオレとアナザーは家を出た。
***
孤月は無我夢中で階段を駆け下りていく。一騎マンション三階から一階まで一気に駆け下りてもなお、走るのを止めなかった。
(や、やっぱり私は…私は…!)
街に溢れた周りの目など気にも留めず、オモテ通りを駈けていく。
(やっぱり言えないわ!井水戸くんを見逃した〝紫香楽〟だって、私を見逃すとは限らないもの!)
家に向かうでもなく、ただ街を走る。
(井水戸くんの力は――アナザー・ワールドは確かに〝ワベク〟だわ。それは多分間違いないのよ。でも、アナザーくんは明らかに紫香楽と知り合い。だから見逃されたのかもしれない)
孤月は裏通りへと入っていく。誰でもいいから相談したかった。相談するなら一人しか居ない――〝物語の終止符〟の店長だ。
そう思い、店の方に向かうため細い道からミトリ通り飛び出した時、丁度車が走ってきていた。
車一台がなんとか通れる程度の道幅――周りに逃げられるスペースなどなかった。
(あぁ!)
キキーッ、と、甲高いブレーキの音が響き渡る。しかし、どう考えても間に合わない――孤月は咄嗟に近くに落ちていた石を車の無い反対側の小道へと投げた。
ブレーキの間に合わなかった車は孤月が居た場所を通過し、二十メートル進んだところで停止した。しかし、孤月は車が通過したところには居らず、先程投げた石の傍で座り込んでいた。
孤月が居た場所と投げた石には、なぜか赤いペンキのような物で〝繋〟と書かれていた。
(い、いけない!私としたことがうっかり使ってしまうなんて!)
孤月は慌ててその場を後にしようとしたが、車から降りてきた人物の一言で立ち去る事を忘れてしまった。
「おや、君も〝ワベク〟かい」
(え?い、今なんて…?)
ほぼ無意識のうちに振り向いていた。別段慌てた様子も無く車から降りてきたのは、白衣を身に纏った背の高い金髪の男だった。
「そう気を張る必要は無い。私は見ての通り、ただの医者だ」
そう言いながら男は軽く両手を広げ、何も持っていない事をアピールした。
「そ、そうですか…。と、ところで…先程あなたはなんと言いましたか?」
と、孤月は警戒を解かずに丁寧な口調で尋ねた。
(確かめなくちゃ…この人が…〝敵〟か〝味方〟か…)
孤月は井水戸に言っていないことが一つだけあった。
それは、自分が異なる世界の力を使うことが出来るというものだ。
孤月も井水戸と同じく科学では証明できない力のことで悩んでいたが、井水戸も自分と同じ〝ワベク〟であることを今日になるまで知らなかった――そして、彼女は〝ワベク〟が特例により保護されていることも知らなかった。
医者を名乗る男は、孤月の足元にある赤い紋様の付いた石を注視する。
「…インカンティーション、君はまじない師か。想いが強ければ強いほど、奇跡を起こすことが出来る力だ。今君が行ったのは、まじないで紋様までの空間を無理やり繋げたのだろう。この短時間でよくそんなことが出来たな」
その男は表情も無く淡々と喋った。
「そ、そんなことをどうして…見ただけで…分かるんですか…!」
ずばり言い当てられ、私は酷く焦っていた。
(こ、これだけ詳しいってことは――やっぱり紫香楽の関係者?まさか、私を始末しに…!)
すると男は右手で何かを引っ張るような動きをする。とたんに孤月の足元にあった石が男のほうへ飛び、左手の中にきれいに納まった。どう考えても科学では成しえないことだ。
「見ての通り、私も〝ワベク〟だ。同士のことは良く知っている」
「私をどうするつもりですか」
孤月は男を、きっ、と睨んだ。
「どうもしない。ただ安心しただけだ」
と、無表情のまま答える。
(安心したって…いったいどういうこと?)
少しの間をおいてから、再び喋りだした。
「…ここら辺りで私の同僚が〝異名〟というものに襲われたと聞いてね。慌てて来たところ事故を起こした、など………笑えんだろう」
孤月は、同僚、と言う言葉を気に留め、改めて男の格好に注目した。
(あ…、昼間に来た男の人…あの人も白衣を…)
あの人がこの人と同じ病院の医者だったのかもしれない。
「あ、あの人なら…病院に…」
「おや、君は同僚を知っているのか」
そういうと、男はこちらに近づいてきた。すぐ近くまで来ると男は立ち止まり、懐を右手で探ると一枚の名刺を出した。
「同僚が世話になったようだな、私はこういう者だ」
そう言って、孤月に手渡す。
「えっと…スギノ医院――院長、杉野深夜…さん…」
スギノ医院と言えば、某県内でもっとも設備が整っており、有名な医者も多い大きな病院である。杉野は見た目でいえば30代前半といったところだろう。それであれだけ大きな病院の院長とはすごい医者なのだろうか?と孤月は思った。
「よければ同僚が搬送された病院を教えてもらえないか?」
見舞いに行きたいのだ、と続けた。
「は、はい。えっとまず…」
私は店長が連れて行った県立病院までの道筋を思い出し、説明しようとした。しかし、
「あそこか」
と杉野さんが呟いたため、説明し損ねてしまった。
「え?あの…?」
「いや、私はサイキッカー、念動力者でね。ある程度表層で意識している事が分かるのだよ。……不快に思ったなら失礼」
と、淡々と述べた。
(…この人はまた…異なる世界の力を使ったの?)
この様子なら、相当自分の力について詳しく知っているようだった。
(紫香楽に殺されたくない、とか思わなかったの?異なる世界の力を使えば、紫香楽が来ると思わなかったの?)
私はかつて、異なる世界の力を持っていた人が殺されたことを知っている。自分の目の前とか、身近な人がそうだったわけではない。ただ、人伝に話を聞いたのだ。
それから私はずっと怖かった。いつか自分も殺されてしまうのではないか、と。こんな力を持ったばかりに、世界から排除されてしまうのではないか。
何はともあれ、初めて自分と同じ境遇にいる〝ワベク〟に出会えたのだ。
(…そうよ、井水戸くんみたいに紫香楽と繋がりがある人じゃないわ、きっと!)
そう思うと初対面だろうがなんだろうが、関係ないように思えた。
「あ、あの!よければ、話を聞いてもらえませんか…!」
孤月は声を上げていた。
すると杉野は孤月から少し目を逸らし、数秒してからもう一度孤月と視線を合わせた。
「話を聞くのは構わないが、先に同僚の見舞いを済ませてもいいか?」
「は、はい!もちろんです!ありがとうございます!」
杉野は車の方へと戻ると、助手席の扉を開け、
「乗りたまえ。移動中にも少しくらいは話が出来るだろう」
と言った。
今まで異なる世界の力が使えるために始末されないかとずっと怯えながら、誰にも言えずに過ごしてきたのだ。
普通、初対面の人に、車に乗れ、何て言われても乗らないだろう。
しかし、私は杉野さんを疑うことなく車に乗り込んだ。
私には分かるんだ――対面する人の〝感情〟が。
杉野さんからは〝親しみ〟や〝慈しみ〟の感情しか感じられなかった。
扉が閉まり、車が走り出す。
その様子を盗み見る白い影があったことに、私は気付かなかった。
話は大きく動く――――