二章 異名と世界際条約
憎いほど天気がよく、九時半だというのに体感的には相当暑く感じる。
駐車場前を横切りオモテ通りまで来たところで、ぐぅ、と自分のお腹がなって気が付く。
「…そういえばお前、朝飯食べてないな」
「君も食べていまセンネ」
「オレはバイト先で食うからいいんだけど、お前の分もついでに出してもらうかな。お腹空いているだろ?」
多分自腹になるだろうけど、そんなに高いものじゃないしいいだろう――などと思いながらも念のため、黒い財布を取り出し中身を確認しておく。
五千円札一枚に千円札二枚、五百円玉一枚に百円玉二枚、五十円玉一枚それから十円玉二枚と五円玉一枚、最後に一円玉二枚。
(…飯代はちゃんとあるし、何とかなりそうだな)
財布の中身の確認を終えて少年の方に視線を向けると、少年は目を輝かせながら街中をきょろきょろと見回していた。
(…なんだか――始めて遊園地に来た幼稚園児みたいだな)
思わず口元が緩んだ。
こうやって一緒に歩いていると、弟と一緒に出かけている気分になったのだ。オレには姉も妹もいるのに男兄弟が居ないので嬉しい気持ちが沸いてきた。ほんのちょっとだけ。
ちょっぴり楽しい気分を味わいながら歩くことおよそ十分。華やかなオモテ通りから裏道へと入り、僅か十数メートルしかないミトリ通りに入った。
オレのバイト先はここの通りにある〝物語の終止符〟という、ちょっと変わった名前の古い喫茶店?占屋?人生相談室?のようなお店だ。万屋というほど色んな事はしていないし、専門店というには色々な事をしている。色々なことに対して、中途半端に首を突っ込んでいる感じだ。
少し色あせた扉をあけると、からん、と扉に付けられていた鐘が鳴った。
「いらっしゃいませー、って、井水戸くんじゃない。おはよう」
店の中には薄い桃色のセミロングの髪をふわふわとウェーブさせ、桃色のワンピースを着た少女がいた。少女は目を瞑り、にこりと笑って挨拶をする。
「おはようございます、先輩。今日は随分早いですね」
と、オレも笑顔で挨拶を返す。
可愛いこの人は孤月流夜さんといって、この店で働く高校の先輩だ。歳はオレより一つ上で高校三年生。ちなみに二月十四日生まれのO型、身長百六十二㎝体重四十六㎏のDカップ(どうして情報を知っているか、と訊かれても、分かるから、としか答えられない)。
「うん。早く目が覚めちゃって、来ちゃった」
にこりと目を瞑って微笑む姿がなんとも可愛い。
ちなみに、オレがここのバイトを見つけたのも先輩のおかげだ。
去年の四月に高校の部活(英雄部という、魔王を倒すだの、魔法が使えるだの、自分は神だの、そんなことを言いあって遊ぶ部活動なのだが、どうしてこんな部活があるのかは分からない。でも、運が良いとか、分からないことが分かるという何の根拠もない、世間から見ればただの妄想話も話せそうなので入った)で知り合い、バイトを探していると言ったら、「すっごく怪しいけど、頼りになるここの店でぴったりの仕事を紹介してくれるから」と案内してくれたのだ。
そして、ここの店長がオレに勧めた仕事がこの店で働くことだった。
オレの服の裾を掴みながら、後ろからそーっと少年が顔を出した。
「あれれ?井水戸くんって、弟、居たんだね?」
「居ませんよ。オレにいるのは姉と妹ですから」
「ふぅん?じゃあ、その子は井水戸くんのお友達、かな?」
孤月は少し屈んで少年に目線を合わせる。少年は孤月の方をみるとにこりと笑った。
「あ、でも可愛い子だね。君の名前は何て言うのか、お姉ちゃんに教えてくれないかな?」
「もう一つの世界デス」
「えっと、もうひとつ…?井水戸くん、この子は一体…」
不安そうな顔でこっちをみてくる。そんな風に見られてもこっちも困っているんですってば。
「先輩、そこらへん今から聞くところなんですよ」
「あ、そうなんだ。もしかして、迷子かな?」
人の家に行き成り上がりこんできた迷子、なんて、とても笑えたモンじゃない。しかし、こいつは不法侵入者だ、とは言えなかった。
「あー、どうですかね。…とりあえず、朝ご飯頂いてもいいですか?この子の分も」
「うん、わかった。店長に作ってもらうね」
元気な返事をすると、孤月はカウンターの方へと走っていった。距離的には二メートル弱、走るほどの距離でもないだろう。
カウンターから奥の調理場のほうをのぞいて「店長、朝ご飯二人分お願いしまーす」と、これまた元気な声で言った。すると、カウンターの奥から、頭から靴の先まで真っ黒な服を着て真っ黒な革製の手袋をはめた二メートル近くもある男が出てきた。
手には、ホカホカのお子様ランチを二人分持っている。
「店長、オレまでお子様ランチですか」
思わず引きつった顔で言う。しかし、どう見てもそうだろう。フードの隙間から僅かに見える口が口角を吊り上げにやりと笑ったのだから。
真っ黒な長身の男――店長はお子様ランチをカウンターテーブルに置く。
「こっちにきて食べるといいさぁ」
かなり低く、心臓に響くような声。「死神だー」などとふざけて本人が言えば、小さな子供は信じてしまいそうなほど威圧感のある声と姿である。そして、英雄部のみんなも悪乗りして本当のことのように振る舞うのだ。
お腹も空いているのでカウンターに座るが、流石にこの歳になってお子様ランチは。子供用の小さなフォークを手にして、お子様ランチに手をつけようかどうか迷い、フォークをお子様ランチのうえで左右に動かした。
オレの隣に座ったアナザーは、迷うことなく「いただきマス」と挨拶をしてから食べ始めた。
それを見て仕方がないと、オレも挨拶をしてから可愛いサイズのハンバーグにフォークを刺した。ハンバーグを口に入れようとしたところで、店長が少年を見て呟いた。
「前々からラッキーな井水戸だけど、まさかこんな子まで連れてくるとはねぇ」
「なんですか、その言い方」
ラッキーと言われるのが嫌で、口をとがらせながら言う。
「いやぁ、僕はホンモノを見るのは初めてだからさぁ。嬉しくって、嬉しくって、たまらないんだよ」
店内には怪しげな水晶や髑髏などが飾られている。店長ははっきり言ってしまえば、オカルトマニアなのだろう。
「その言い方は、我輩の偽者にあった事があると言っているように聞こえマスガ?」
タルタルソースの付いた(少年からすれば)大きなエビフライを美味しそうにかじりながら少年はしゃべる。やはりとても子供とは思えない落ち着きぶりだ。だいたいの子供なら、まず店長の見た目で逃げ出している。
「いやぁ、コスプレしている人を初めて見たからねぇ。テレビではたまぁに見るよ」
そして、店長は重度のアニメおたくでもある。
この店は英雄部のみんなで利用することがとても多い。なんといっても、英雄部の女副部長がここで働いているのだから。
「…我輩はコスプレではありまセン」
むすっとして店長をにらむ。しかし、迫力なんてものは髪の毛先ほどもない。
そんな会話をしている間に、先輩がオレの分のエプロンを持ってきてくれた。腰につけるタイプのものだ。
「ありがとうございます、先輩」
笑顔でお礼を言いながら、エプロンを受け取る。
「ふふ、どういたしまして。ね、井水戸くん、早いうちにこの子のこと聞いた方がいいんじゃない?きっと親御さんも心配しているよ」
「…そうですね」
オレは視線を先輩から少年の方へと向けた。しかし、あんな会い方をしたのだ。聞くに聞き辛い。そんな風に一人あーだこーだと考えていると、少年のほうから切り出してきた。
「ところで、君は我輩に何を聞きたいのデスカ?」
「えっと、とりあえず…」
何から聞くべきか。名前は一応聞いた。しかし、店長と先輩を見るとそこらへんの説明もよろしく、と訴えているように思えたので、
「もう一回、名前を教えてもらえないかな…」
と、控えめに訊いた。もしかしたら先輩とか、大のアニメ好きな店長が知っているかもしれない――このキャラクターの名を。
「我輩は〝もう一つの世界〟と言いマス。正式な名前は〝アナザー・ワールド〟、アナザーと呼ばれてい マス」
「アナザーくん、ね。ねぇ、アナザーくんはどうして井水戸くんと一緒にいるのかな?」
何故か先輩が質問し始めた。いや、質問すること自体はかまわないのだが、変な返答されたらどうしようかと冷や冷やする。
「迷子ではありまセン。我輩が彼と一緒にいるのは、今は彼がいないと我輩は他の人に認識して貰えないからデス」
二人が話しているうちに、オレはこっそり店長に話しかける。
「店長、あの、…ああいう設定のキャラって何か居ます?」
「………………六」
「えっ?…ム……ですか?」
予想外の答えに面食らってしまった。
「六と呼ばれる世界に住んでいる子だね。元々はどこにでも居るような普通の子供だったのだけど、不慮の事故にあって死んでしまうのさ。でも、まだ小さな子だからどうしても家族に会いたくてね――家族を探すのだけど、行方が分からなくてずっと彷徨うんだよ」
「あの、アニメの話、ですよね?」
あまりにも真剣に、哀愁を帯びた声で言うので実話を話されているかのような錯覚に陥りそうになり、非現実の話である事を確認した。
「そうだよぉ、確か〝遊びの世界〟というタイトルのお話だったかねぇ。そのお話の中では、あの子は〝絶対〟の手助けによって自分の家族に会えるんだけど、どういうわけか家族の許にはきちんと子供が居て、自分達の子が死んだなどという質の悪い冗談は止めてくれって言われるお話だね」
店長は視線をアナザーへと移してから続けた。
「その時、あの子は気付くんだ――自分の存在を名乗っている奴が、奪っている奴が居るってねぇ。そして自分の存在を名乗る奴を探し始めるんだよ。色んな世界を回って、自分の敵を倒して、自分の存在を奪った奴を探すんだ」
「…アナザーの存在を奪ったのは――誰なんですか?」
気が付けば自然と口から言葉が出ていた。店長はこちらを向くと、ニヤリと笑って答えた。
「〝灰〟と言う奴さ」
一瞬だけ、身体が緊張する。〝灰〟と言えば警視長さんが探していると言ったモノじゃないか。まさか人名だったとは、微塵も考えていなかった。
「本当は〝グレイ〟って言うんだけどねぇ。白と黒を両方持っているから〝灰〟って呼ばれているのさ。極めて謎の多い人物なんだけど、〝グレイは願いを何でも叶えてくれる〟っていう噂があるんだよねぇ」
遊びの世界――これが警視長さんの知りたかったアニメのタイトルなのは間違いない。やっぱりこのアニメは警視長さんの言っていた〝灰〟に関係があるようだ。
「奇跡だって起こすし不可能さえも可能にしてしまうんだってさぁ。グレイに会えたら僕もお願いしたいことがあるんだよねぇ」
しかし、推測だけではどうにもならないので、しっかり情報を集めて警視長さんに詳細を聞こう。灰について散々話している店長の言葉を遮り尋ねた。
「そのアニメって毎週金曜日に放送していますか?」
店長は質問に答えてはくれたが、なんとも理解しがたいものだった。
「放送日時は毎日毎時毎分毎秒だよ」
「え?」
毎日毎時毎分毎秒?〝ずっと〟ってことになるのだが、店長はふざけているのだろうか。
わけがわからなくて自然と眉間にしわが寄った。そんなオレの表情を見て、店長が驚いたという顔をした――気がした。実際はフードで口元しか見えない。
しかし店長は何事も無かったかのように、
「もう十時だねぇ、二人ともしっかりと働いてぇ。この子は裏で預かっておくからさぁ」
と言うと、アナザーを連れてカウンターの奥の調理場へと連れて行ってしまった。
「何なんだよ。つーか、迷子かもしんねぇのに警察に連れて行った方がいいだろう……?」
納得できなくて文句をこぼしたが、時間は時間なので仕事を始めることにした。
店の表からは働く二人の声が聞こえてくる。
その裏に当たる調理場には店長と少年がいた。店長はどうも少年のことを警戒しているようだ。当の少年は調理場をきょろきょろと物珍しそうに、しかし、じっくりと眺めている。まるで、どこに何があるかを把握するように。
大きな食器棚の前に行くと、引き出しを開けていく。一段目には箸、二段目にはフォーク、三段目にナイフ、四段目にスプーンが入っていた。
「一体、井水戸に何をしたんだ」
人とは思えないような、恐怖心を誘う悪魔のような声で店長は尋ねた。
「店長はとっても怖い人デスネ」
「怖いなどと思っていないだろう」
少年の態度に、店長はいらいらとしている態度をそのまま声に出してぶつけた。
一通り調理場を見終えた少年は、店長と向き合う形になる位置に立った。
「我輩のすることなど一つしかありまセン」
その声は、とても子供の放つものだとは思えないほど、冷たく静かで、最期の宣告を告げる〝死〟のような声だった。
ぞっと背筋が凍るほどの寒気がしてその場から動けなくなる。ここの一室だけ、重力が何十倍にでもなったのかと錯覚するくらい体が重くなる。
動けなくなった店長の近くに少年は近づいていく。一歩、また一歩。
「……っ!」
蛇に睨まれた蛙のように身動きができず、冷や汗を全身にかき、呼吸さえもままならなくなっていく。
少年は店長の前まで来ると微笑みながら右手を伸ばす――店長の心臓の真上へと。
「―あ」
あと数㎝、と言うところまで手が伸びた時に不意に少年が声を漏らした。
すると、緊張が全て解けたかのように恐怖が消え、店長はその場に座り込む。その拍子に調理台の上においてあったボウルとピーラーが派手な音をたてて床に落ちた。
「君じゃありまセンネ」
少年は温かみのある声で謝罪の意味を含む言葉を吐いた。
こんな事があればその場から逃げ出す人がほとんどだろう。しかし、店長はそんなことはせず、自分の左胸をおさえていた。
「あんな事を言っていましたので君かと思いマシタ」
アニメの放送日とか灰がどうとかデス、と続けて言う。
「…アナザー…、彼は…〝異名〟…では、なく…〝本物〟、なの、か……?」
落ち着かない呼吸で言葉を吐く。胸をおさえる手は微かに震えている。
少年――アナザーは店長の横に立つと、右手で頭をなで始めた。
アナザーの手には太い鉄の輪が付けられ、そこから鎖が黒いマントの中へと伸びていた。中指と薬指に指輪がはめられている。そして、手の甲の親指の近くのところに、何度も引っかいたようなすり傷があった。
「本物デス。だけど、今の彼には理解して貰えていまセン」
そういうと、がっかりしているような、愉快で笑っているような表情になった。
「…なる、ほど……〝ワベク〟かぁ。どうりで井水戸がアニメのことを知らないわけだぁ」
にぃ、とアナザーは笑った。
からん、と鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ」
鐘が鳴ったら何であろうと、とりあえず笑顔でいらっしゃいませと挨拶するのがこの店の決まりである。業者だろうが、一般客だろうが、常連客だろうが、犯罪者だろうが、もちろん開いた扉の先に誰もいなくても――扉が開いていなくても。
入ってきた客は白衣を着た背の低い男だった。
この店には常連客というものがよく来る。というか、九十%以上は常連客だ。この白衣を着た男を見たのは、オレがここで働き出してから初めてだったので少し驚いた。
「お客さん、カウンター席の方へどうぞ」
初めて来たお客さんは、〝絶対にカウンター席に座らせる〟というのもここの決まりとなっている。カウンター席に案内すれば、後は店長が対応しているのだ。その決まりに則って、オレは白衣を着た男をカウンター席へと案内しようとした。
すると、白衣を着た男はカウンターの方ではなく、一直線にオレの前に来てオレの左手を掴んだ。
「―っ!あ、あの、お客さ――?!」
掴まれた腕が思った以上に痛く、白衣を着た男の顔を面と向かって見て思わず絶句した。
(――な、なんだこれ――目が――無い?!)
男の顔には瞼はある。視神経もある。しかし、眼球というものが丸々無かった。
「イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ…!」
ぎりぎりとオレの左腕を締め上げ、延々と痛いとつぶやき続ける男。少しずつこちらに歩み寄りながら。
ぽとり、と男の顔から何かが落ちた。恐怖を感じながらも注意深く男の顔を見ると、目の辺りからまた何かが落ちた。恐る恐る目の中をのぞくと、本来眼球があるはずのそこから僅かずつ、でも確かにそれは出てくる。白い、小さい、虫が。
「うぎゃあぁああぁぁぁああ!」
男は叫び声をあげると、空いている左手でオレの顔を思いっきり殴ろうとしてきた。
オレは咄嗟に身体を後ろに倒しその反動で右足を振り上げ、男の左手ごとこめかみを思いっきり蹴りつけた。ごつん、と鈍い音を立てて白衣を着た男は壁に激突する。その衝撃で掴まれていた左手が自由になった。
「い、井水戸くん!」
冷や水とお手拭を準備していた先輩が騒ぎを聞いて近くまで寄ってきた。
「な、なに?どうしたの、急に…」
先輩は男の顔を見ていない。だからいきなりオレが客を殴り倒したと思っているのだろう。先程まで掴まれていた左手首が酷く痛い。手首に視線を落とすと、先輩も手首を見た。
「ど、どうしたの?血が出てるけど」
どうも白衣の男が手を離すときに爪で引っかいたらしい。手首に二センチほどの傷があり、そこから血がゆっくり滲み出ていた。
「行き成りこの人に手首を掴まれて、それで――」
途中で言葉を切った。
(――目が無くてそこから白い虫が出ていた、なんて言っても信じたりはしないよな?)
説明に迷っていると、調理場からアナザーが出てきて、カウンターテーブルを軽々と乗り越えすぐ目の前まで来た。
「あ、アナザーくんどうしたの…?」
先輩の問いかけにはまったく耳も傾けずに、オレの左手を掴んできた。そして、間髪いれずに二センチほどの傷口に口を覆いかぶせてきた。
「何やってんだ、アナザー!」
流石にこの行動には驚き、声を上げた。が、アナザーは傷口から口を離さず、血を吸っている。どこぞの吸血鬼だ!と突っ込んでやりたかったが、ずきずきとしていた傷口の痛みが少し和らいだ気がして、言葉を吐くのを思いとどまった。
少し遅れて店長がやってくる。
「店長、この人が――」
せめて店長には倒れている白衣の男の事を、と思い口を開く。すると、アナザーは傷口から口を離した。その頃には、傷口の痛みはきれいに治まっていた。
何も言わないままアナザーの方を見ると、アナザーは、ぺっ、と床に何かを吐いた。
「きゃあああ!」
吐き出されたそれを見て、先輩は泣きそうな悲鳴をあげる。
「な、な、なにこれぇ~~、気持ち悪い~~~!」
吐き出されたそれは、蒼い半透明の身体をくねらせ、口と思われるところから緑色の液体を吐き出す糸のように細いミミズ、のようなものだった。
アナザーはこれを吐き出した。と、言うことは――
オレは手首の傷を抑えながら、背筋に起こる異常な寒気を感じていた。
(ま、まさか――あれがオレの中に入っていたのか?)
長さは四センチくらいだ。しかも、糸の様に細い。もしかしたら、血管の中に潜ることができるのかもしれない。
先程感じた傷の痛みは、このミミズもどきが血管の中で暴れていたからかもしれない――そう思うと寒気がとまらなかった。
「これは〝異名〟デス」
とめどなく緑の液体を吐き出すそれを見て、アナザーが静かに言った。
「い、異名って…なんだよ、それ」
ナントカの異名を持つ、とか言うのではないのだろう。未だに収まらない寒気と戦いながら訊いた。
アナザーは視線をミミズもどきからオレに向けてから話し始めた。
「〝異名〟というのはこれ自体の呼称ではありまセン。……君の世界がなんと呼ばれているか知っていマスカ?世界と言うのはそれこそ無限に存在しマス。錬金世界、王国世界、閉鎖世界、妄想世界、魔法世界、念動世界、それから呪いや妖怪を主とする世界もありマス。…しかし、本来世界の間には境界線があって通れなくなっていマス」
突拍子も無い話に頭が付いていかないかと思ったが、聞いてみれば意外とそういう世界があると納得できてしまい、自分の順応のよさに驚いた。多分、普段部活でこういう話をよくするからだろう。
しかし、納得できるというよりは漫画や小説のこの先の展開をこうなるだろう予想してみると、それがずばり当たった――そんな時の感覚に似ている。自分は何故か、やっぱりそうかと納得しているのだ。
「それで…異名って言うのは?」
「〝異なる世界の住人〟または〝異なる世界の主たる力の保持者〟のことデス――このみみずくんは前者デスネ」
いつのまにか半渇きになっているミミズもどきを指差した。
「こ、異なる世界の住人?力の保持者?そんなのってありなのかよ…」
「別に珍しいものではありまセン――傍から見れば君も異なる世界の住人で力の保持者ですカラ。それに、あくまで世界の境目は線であり、赤ん坊でも身体を少し動かすことでその境目を容易に超えることができるのデス」
そう言って、その場で左右に軽く身体を揺らした。
「さっきは通れないって言ったじゃねーか」
「物理的に通れないのではなくて、力や知識といったものを持って通ることが出来まセン。境界線は、法があるからパスポートが無いと通れないのと同じで、通るのに許可が要り、その境界線を監視している者が居マス。……君は〝世界〟の意味を知っていマスカ?」
首を少し横に傾け尋ねてくる。
(世界の意味、なんて言われても…)
考え込んでいると、
「世は〝過去・現在・未来〟を意味し、界は〝東・西・南・北〟を意味する――簡単に言えば時間と空間だねぇ。もちろん世界には世の中とか、地球上のすべての国とか、宇宙とか、主観的にみて手の届く範囲のことって言う意味もあるのだけどねぇ?」
と、店長が答えた。
「時間と空間。それが一体どうしたんだよ」
オレは改めてアナザーの方を見た。
そういえば、こいつの正式な名前は〝アナザー・ワールド〟、もう一つの世界って言っていたような。
アナザーはオレの目をじっと見て答える。
「我輩は目に見える世界の一つデス。我輩は〝紫香楽〟に言われてこの世界に来マシタ――異名を倒すために」
〝紫香楽〟という言葉を聞いたとき、何だかすごく懐かしいような寂しいような嬉しいようなそれでいて憎いような愛しいような酷く表現しがたい気持ちになった。
複雑な心境、っていうのはこういう状態なのだろうか。
「紫香楽って一体誰だよ。異名を倒すってなんだよ」
質問ばかりしている自分が嫌になる。どうしてこんなにも無知なんだ?と、自問自答したくなるくらいに。冷静に考えれば知っている方がおかしいのだが、知らないということがオレには酷く歯痒かった。
そんなオレのことを知ってか知らずか、アナザーは嫌な顔一つしないでわかりやすく説明してくれている。
「世界の間にも繋がりと言うのがありマス。世界際と言いますが国際と似たような意味で捉えて頂けるとわかりやすいと思いマス。各世界にも代表が居マス―この国で例えるなら総理大臣デスネ―その人達の間でいくつかの取り決めがされているのデス」
アナザーは人差し指を立てた。
「世界際条約第一、世界の代表者の許可なしに、その世界への侵入を禁じる」
中指を立てた。
「第二、自世界へ戻る際に侵入先の世界で得た知識および力、物質等を全て破棄する」
薬指を立てた。
「第三、異なる世界の知識および力、物質から生命に至る全てのものを自世界に引き入れてはならない」
小指を立てた。
「第四、自分が存在する世界とは異なる世界の力を使ってはならない」
最後に親指を立てた。
「第五、以上四つを破りし者は罰と償いの名において制裁を下す――つまり、異名も異名を引き入れた人も始末するということデス。これが異名を倒さなくてはならない理由になりマス」
「それって、異世界と関わるなってことなのか?」
「関わるな、とは言いまセン。あくまで世界際条約は互いに干渉しすぎるのを防ぐためのものですカラ。…紫香楽は――」
アナザーはそこで口を閉ざしてしまった。何かを考えているようで、少しの間をおいてから孤月の方を見た。
「う、うん?どうしたの?」
先輩はアナザーと目が合うと、びくっと身体を震わせた。
普通に考えればこういう反応をとっても全くおかしくないのだが、オレはその事を昔から知っていて思い出したかのような納得感が心の底にあった。
〝紫香楽〟というのも、やはりどこかで聞いたことがある。日本史で出てくる紫香楽宮のことではなく、誰かの名前としてどこかで聞いた気がするのだが、どうしても思い出せない。
思い出せはしないが、これはいつものような〝知らない事を知っている〟時に起こる感覚だ。
「悪いのですが、君には席を外していただきマス」
アナザーは孤月をまっすぐと見据えてはっきりと言った。
すると、店長が意地悪な笑みを浮かべながらアナザーに抗議した。
「いいじゃないか、彼女だって異名を目撃した当事者だろう?それともアナザーは紫香楽に怒られるのが怖いのかい?」
アナザーは顔色ひとつ、表情一つ変えずに喋る。
「我輩に紫香楽は関係ありまセン」
「紫香楽に言われてきたのだろう?」
店長はすかさず言い返す。
そんな店長の言葉など心の端にも置かずにアナザーは続けた。
「ただ、世界的には紫香楽の事を関係者以外に話すのは禁止になっていますので、我輩が話したが為に口封じ目的で彼女が管理司書に殺される可能性も否めまセン」
平然とさらりと淡々と、殺される、などというおそろい単語を口にした。
(先輩が…こ、ろされる?管理司書?なんの、ことだ…――いや、知って、いる?)
その言葉を聞くと、店長の意地悪な笑みがますます深くなった。
「だったら、直接管理司書に話しに行けばいいじゃない――〝孤月は協力者です〟って」
すると、アナザーは肩を落としてため息をついた。
「そうするならば彼にも来て貰わなくてはいけないデショウ?」
「そうだねぇ?興味を持たれても困るもんね?」
すごく挑発的な言い方だな、と思った。
こうやってみていると、店長とアナザーは知り合いなのではないかという疑問が浮かぶ。まるで、昔からの馴染みで―でも決して仲が良いわけではないが犬猿の仲でもない―あ、店長が一方的にアナザーに敵対している感じだ。
先輩の方を見ると、寂しそうな顔をしてうつむいていた。
『私…ここに居るのはよくないなのかな……』
「アナザーは…、先輩の身を案じて言っているんだと思いますよ」
そう声をかけると、酷く驚いたような顔でオレの方を見てきた。
「え?え?あ、あれ?私…声に出てた、かな?」
と、まるで、自分は何も言ってない、と言う風な態度をとった。しかしすぐに、
「ご、ごめんね。…なんだか私、…迷惑、かけてるみたいで…」
と、いつもの先輩らしい態度で謝罪の言葉を口にした。
「どちらかって言うと、アナザーの方が迷惑をかけていますよ。気にする必要なんてどこにもありませんよ、先輩」
孤月と井水戸をアナザーと店長は何も言わずじっと見つめていた。
孤月が元気を取り戻したところでアナザーは店長に切り出した。
「この人をどうにかしないといけまセンネ、店長」
そう言って、未だに店の入口で伸びている白衣を着た背の低い男を指差した。そう言われて、はっとなったのは井水戸のほうだった。
「そうだ、店長、この人――目が無いんですよ!」
先輩も聞いてはいたが、アナザーがあれだけ色々話したのだ。先輩に話しても今なら信じてくれるだろう。
それを聞くと店長は徐に白衣の男を仰向けにさせた。
「うんうん、確かに目が無いねぇ。あぁ、孤月は見ない方がいいよ」
覗き込もうとしていた先輩をやんわりと止めると、お手拭を目元にかぶせて見えないようにした。白衣の男の近くには小さな白い虫が数匹落ちている。アナザーはそれを一匹素手で掴みあげ、掌の上に置いた。
「これなら問題ありまセン」
何かを確信し、落ちている虫を全て拾い集めて店の扉を開けると外に出た。
「あ、扉は閉めないでくだサイ」
そういうと、拾った小さな虫を店の前の道路に固めて置き、店の中に入ってきた。
「悪いのですが、スプーンかナイフを持ってきてくれまセンカ?」
「わ、わかった」
虫を裂くなら仕方がないと思い、オレは調理場まで急いで取りに行った。調理場に入ると、ここに入ったのが、今日が初めてである事に違和感を覚えた。
(前にも入った気がするんだけど…また…か…?)
そう思いながらも歩は止めず、大きな食器棚のところまで来た。
(スプーンかナイフ――どっちがいいんだ?)
少しだけ考えて、ナイフを持っていくことにした。虫を裂くのならナイフの方が切りやすいだろう。オレは三段目の引き出しを迷うことなく開けてナイフを一本取り出す――そして不意に疑問に思った。
(あれ?どうしてアナザーが〝虫を裂く〟って思ったんだ?〝スプーンかナイフを持ってきてくれ〟としか言われてないのに。それに、なんでここにナイフがあるって思ったんだ――調理場に入るのは初めてだったのに。でも、なんだろう…三段目にはナイフ、四段目にはスプーンが入っている)
知らないはずなのに、分かる。それもいつも以上にはっきりと。
念のためオレは四段目の引き出しを開けてみた。そこにはスプーンが入っている。初めて見たのに、なぜかその中を前にも見たような気がした。
(今までは〝見たことある〟じゃなくて〝知っている〟だった…これはデジャヴか?でも〝虫を裂く〟って思ったのは…?)
ナイフを手に、調理台の傍を引き返すように歩き出した途端、調理台に置かれていたボウルとピーラーが目に入る。
(これ、さっき店長が床に落とした―――――)
―――落とした?
思わずオレは頭を振った。
(さっき〟っていつのことだ!オレはずっと表で働いていたじゃないか。大体落としてないだろう!)
いつもとは違う妙な感覚にとらわれながらも、調理場を後にした。
カウンターまで来ると、アナザーがこっちを見ながら待っていた。
「ほら、ナイフ」
「ありがとうございマス」
ナイフを受け取ったアナザーはにこりと笑うとまた扉から外へと出て行き、道路に置いた虫のところに行った。ちょうど道路から店内をのぞける位置にしゃがみこむ。
「その人から離れてもらえマスカ」
そうこちらに向かって言うと、オレ達三人が離れるのをじっと待つ。三人が男から離れるとアナザーはナイフを見ながら呟いた。
「ナイフ一本で人の命が助かるなら安いものだと思ってくだサイ」
顔を上げ店長に向かって笑いかけると、店長が微かにちっと舌打ちしたのが聞こえた。
アナザーはナイフで小さな虫を真っ二つに裂いた。
すると、店内に居てもわかるぐらい、猛烈に甘ったるい臭いが立ち込めた。
「うううううううううう!」
その臭いに反応するかのように白衣の男が呻きだし、苦しそうに体がびくびくと痙攣する。
「うううううううううううう――――ゲボォッ」
十数秒呻いたかと思えば、大きく身体を震わせて吐瀉物を撒き散らした。げぇげぇと、十秒ほど吐き出すと、その場にぐったりとして動かなくなった。
逆に、動き出したものがあった――男が吐いた吐瀉物だ。
目を凝らしてみると、それは先程目から出てきていた小さな白い虫の大群だった。
何万匹もいるのではないかと言うほどの量の小さな虫が、扉の外へと這い出て行く。目指す先には真っ二つにされた小さな虫の屍骸がある。
言葉もなく呆然と見ていたオレと先輩に、店長が口を開く。
「これは憑き物の一種でねぇ――俗に神食いって言うのだよ。神は精神の事を指すのだけど、体内に寄生してホルモンや内分泌系のバランスを狂わし、その人を意のままに操ってしまう恐ろしい寄生虫なのだよ」
「そ、それがどうして…この人に?」
恐る恐る孤月が尋ねる。店長はにんまりと笑うと、話を続けた。
「この寄生虫はさぁ、とある人に飼われてる虫でさぁ、飼い主に命令されないと人に憑くことはまず無いんだよねぇ。この男の知り合いに〝虫の飼い主〟が居るんだろうねぇ?」
「紫香楽ではありまセン」
と、すぐさまアナザーが付け加えた。
店内に居た虫は全て外にある真っ二つにされた小さな虫の屍骸のところに集まっている。
アナザーは手に持っているナイフでその虫の回りを切り取るように地面に当てながらなぞった。それを三周ほどすると、見て分かるくらいにナイフが磨り減っていた。
「さて、準備は整いマシタネ。では――」
アナザーは磨り減ったナイフを自らの目の前に突き立てた。
「――生は正、死は偽となり尾喰い蛇は築かれる。生命の消滅を汝の命をもって対価と成す。些細な貢は魔王の炎火――地獄の業火を捧げマショウ」
と、詠うように唱えた。すると、突き立てたナイフと地面の間からごう!と赤黒い炎が燃え上がり、真っ直ぐに虫へと向かった。しかし、炎は途中で方向を変え、アナザーがあらかじめナイフで虫の回りを囲った円の上を走り、たちまち虫を取り囲んだ。
円を尾喰い蛇と見立てて対価を見出し、僅かな捧げ物――これは錬金術だ。
(…なんで、なんでこんなにしっくり来るのに、噛み合わないんだ?)
アナザーが使った物が〝異世界の力〟であることはすぐに分かり、それも納得できた――だが、何故自分がそんな事を知っているのかが分からない。
というか、さっきアナザーは「異世界の力は使ってはいけないという条約がある」と話していた。なら、これはまずいんじゃないか?
「あ、アナザー!異なる世界の力ってのは、使っちゃいけないんだろ?」
「ばれなきゃ平気デス」
まったく気にしていないという態度でアナザーは答えた。
その態度に疑問を持つどころか、オレが異なる世界の力を使ったわけではないのに「確かに自分は紫香楽に絶対に捕まらない」という確信があった。
(待て待て、異なる世界の力を使ったのはアナザーなのに――どうしてオレが紫香楽に見つかる云々の話を考えているんだよ?)
その間に、虫たちを取り囲んでいた炎は一気に燃え上がり、虫たちを一匹残らず焼き尽くしていた。道路には僅かに溶けたナイフの残骸と黒くすすけた地面が残るだけだった。
――あぁ、でも…?
「〝管理司書〟が監視しているから気付かれるじゃないか?」
と、自然と呟いていた。
「え、え、え?な、何?どうして炎が上がったの?…ど、どういうことなの?」
と、あたふたしている先輩の言葉も遠くにしか聞こえなかった。
(…管理司書って一体何だ――どこで知った?オレが覚えている限り、どこで知ったかなんて分からない……けれど――虫を裂く、スプーンとフォークの位置、ボウルとピーラーは店長が落とした物だと思った。………待てよ?よく考えれば、これらは全部……!もしオレの推測が正しいなら――――)
井水戸は店長に歩み寄り、焦ったように尋ねる。
「店長!さっき店長は裏でボウルとピーラーを床に落としませんでしたか?」
「んん~?落としたけれど、どうかしたかい?」
「――その様子をアナザーが見ていましたか?」
その一言を聞いて、店長の表情が曇った――様な気がした。間違いない。オレは確信した。
(この感覚が異常なほど強く感じたのはアナザーと会ってからだ!)
表情の曇った店長のことなどお構い無しに、オレはアナザーの方へと行こうとした。
が、それは阻止されてしまった。店長に左腕を掴まれたのだ。
「店長?あの―――」
「井水戸、そう焦るな。もう少し、ゆっくりと時間をかけて――」
「無駄デスネ。錬金術を使いましたので少なくとも管理司書は気付いていマス」
店内に戻ってきたアナザーが、店長の話をさえぎる。
「それに、この事は今に始まったことではありまセン」
そう言われると、店長は唇をかみ締めた。
「アナザー、お前は管理司書や錬金術のことを詳しく知っているんだよな?」
聞かなくても返事は分かっている――知っている。だけど、一応こういうことは言葉にして聞いておこうと思った。
「知っていマス」
にっこりと笑って答えるアナザー。
オレは少し目を閉じ、管理司書がどんな人だったか思い出してみる。
実際には会ったことが無い人物――だが、オレの脳裏にはしっかりと姿が浮かんでいた。
水玉の眼鏡に亜麻色のショートボブ、どこか幼さの残る少女の姿。
【管理司書――世界の知識と歴史を監視する図書館の管理人。何処で誰が何をしたかを知り、条約違反者を見つけ出す者。最高の知識の保持者にして、最弱の世界に住まう者。知識の世界が存在するのは後ろ盾として紫香楽が居るからである。最弱の管理司書が居なければ世界の平衡が成り立たないのも事実であり、故に誰一人手を出せないようにしているのである。彼らが最弱であるのは、知識しか持つことが出来ないためである。他の世界の知識を持っていても、条約によりそれを活かすことが出来ないのである】
目を開け、アナザーの方を見据えてさっきからずっと考えていた事を纏めて言葉に出す。
「もしかして――オレはお前と記憶を共有しているのか?」