一章 青年とアニメの登場人物
「やっぱりこんなの変だ!」
ろくに周りも見えない路地を一人の青年が呟きながら歩く。
ただいま時刻は二十二時十四分二十二秒。
かつて商店街として繁栄していたその通りは、今となってはただただシャッターがあるばかりの寂れた場所となり、不良の溜まり場として存在していた。真面目な学生たちはまずこの通りのことを口にせず、通ろうなどと考えることもない。
しかし、成績優秀で態度良好、親切で頼りがいがある至って普通の学生である黒い短髪の青年はその通りをあえて通っていた。
「そこの曲がり角の先に半分欠けた万町屋八――たぶん八百屋の看板がある!」
宣言すると曲がり角の方に走り出し、角の先を勢いよく覗き込んだ。
角から凡そ四メートル先。“万町屋八――”と微かに読めるが、大方錆び付いて半分ほど朽ち果てた看板があった。看板をズバリあてた黒い髪の青年は「やったー」と喜ぶどころか、肩を落として大きなため息を吐いた。
訂正しよう――黒い短髪の青年は決して普通ではない。
彼が覚えている限りで千百九回目だ。
黒い短髪の青年はこの寂れた通りを何度も何度も通っているわけではなく、今日初めてここに来たのだ。しかし、青年は初めて来た場所にも関わらずそこに何があるかが分かってしまうのだ。
そんな初めて来たにも関わらず分かる、知らないはずのことを知っている、といったことが今ので千百九回目。知り合いに話せば「前に通ったんじゃないか」と言われてしまうが、黒い短髪の青年は何を聞かれても答えられる気がした。
例えば。
今黒い短髪の青年が着ている白いカッターシャツ。これがどんな場所でどんな人によって作られ、誰によって運ばれてきたのか。
今黒い短髪の青年が踏締めているアスファルト。元々どこの土や水が使われているのか。
今黒い短髪の青年が言い当てた八百屋の看板。この看板を作ったのは誰か。
青年からすればどれもこれも分かるような気がして仕方が無かった。
しかし、この青年が普通ではないのは、知らない事を知っているだけではない。
青年は落ち込んだように俯きながら来た道を引き返す。実際は落ち込んでいるわけではなく、顔を見られたくないのだ。めったに人が通らない場所ではあるが、通らないだけであり不良学生たちはたむろしている。そんな学生たちに顔を見られたくなかった。
家に帰るために元・電気屋の角を曲がると、十五メートル先に十数名の学生達が煙草を吸いながらたむろしていた。
(おいおい、未成年がタバコかよ。警察に補導されても知らねーぞ…)
やや長い前髪の隙間から視線だけを学生たちに向け、様子を盗み見る。青年と同い年か少し下――恐らく高校生だろう。
(問題でも起こせば、何か変わるかもしれない、よな………)
黒い髪の青年は態とその高校生達の中に突っ込む道筋を選んだ。当然、距離はあっという間に縮まり、高校生たちもこちらに注意を向けてくる。
「あ?なんだよ、おまえ」
手前に居た高校生がこちらを威嚇してきた。
(……弱い犬ほどよく吠える、かな)
黒い短髪の青年は何も言わず、歩も止めず突き進む。
「誰だっつってんだろーか!」
「てめーきいてんのか!」
すぐ目の前まで歩いていき、可笑しなものに気が付く。高校生たちの足元に白い何かが入っている小さな袋があったのだ。
(麻薬かよ………いつものように警察に突き出しても問題なさそうだな……いや――)
――一目見てそれが化学式C17H21NO4、分子量303.53、無色無臭の柱状結晶。麻薬の一種であるコカインだと分かった青年は、どう考えても普通とは言い難い。だからと言って、彼が麻薬などの違法薬物にかかわっているというわけではない。
ただ“分かる”のだ。
歩みを止めて黒い短髪の青年は小さな袋を一つ拾い上げる。
(――これを使えば流石にオレも………運に見放されるかも……)
袋を拾い上げたことに激高した高校生が乱暴に青年の胸ぐらを掴んだ。
「てめー、なに泥棒しようとしてんだよ!返しやがれ!」
がつんと頭に強い衝撃を受けた。こめかみの辺りがじんじんと熱く痛い――殴られたようだ。
「返しやがれ!返しやがれ!」
唾を飛ばしながら叫び、高校生は更にもう一発殴ろうと右腕を振りかざし殴りつける。
しかし、どしゃ、と鈍い音を立てて地面にうつ伏せに倒れ込んだのは殴りかかった高校生だった。
「?」
何が起こったのか分からず、倒れ込んだ高校生は目を丸くする。
簡単に言えば、見え見えの攻撃を青年が躱すと同時に相手の勢いをそのまま利用し、カウンターで相手を転ばしただけなのだ。
その動きを見ていた他の高校生達が青年を囲む。
「いい気になってんじゃねぇぞ!」
「よくもダチやってくれたな!」
青年は相変わらず顔を上げず、視線だけを動かして相手を覗く。
(…はぁ…何で最近の奴ってこんなに血の気が多いんだよ………オレはちょっとアンラッキーを楽しみたいだけなのに)
取り囲む高校生の威嚇に怯みもせず、青年は小さな袋を開けた。
「返さねぇっつーお前が悪いんだよ!俺らに逆らうからよぉ!」
高校生の一人が徐にナイフを取り出した。僅かな月明かりを受けて刃がギラリと光り、青年の目に入る。長い間闇を彷徨い光に餓えた廃人の如く、ナイフが放つ僅かな光に魅入られ“刺されてしまいたい”という欲望が青年を襲う。
(……!不良高校生に刺されて死亡――アンラッキーというに相応しいじゃないか!)
果たして、オレが踏み出したのが先か、声が響いたのが先か。
「お前ら!そこで何をしている!」
数名の大人達が紺色の服を着て、懐中電灯を手にこちらを照らしている――警察だ。
「げっ!サツだ!逃げるぞ!」
「やべぇ、ズラかれ!」
不良高校生達は一斉に走り出す――しかし青年は動かない。すぐさま警察官達が近くまで駆け寄ってきた。
(…これはタイミングがよかったかもしれないな)
青年は麻薬の入った小さな袋を開けて手に持っている。現行犯逮捕をされ、言い逃れの余地は無い――もとより青年に逃げる気などは無いが。
三名の警察が青年の傍を走り抜け、逃げた不良高校生達を追いかけた。二名の警察は、道路に無造作に置かれている開いた袋や中身のある袋を回収し始めた。
最後にこちらに来た警察が、青年が手に持っている袋を乱暴に奪い取った。
「まったく…またお前さんか」
歳は五十間近の熟練警察官、といったところだろう。
(うわぁ、またこの人かよ………)
この警察官とは顔見知りだった青年は、相変わらず顔は上げずに視線だけを動かして相手の様子を窺った。
「相変わらずだんまりか。せめて顔くらいあげたらどうだ」
そう言って警察官は青年の頭をやや乱雑に撫でた。
青年は顔を見られたくなかった。顔を覚えられたくないわけではない。顔だけならば、青年はここら辺りで喧嘩の常習犯として非常に有名だ。
「………警視長さん、他の人が居るからここは嫌なんですけど」
青年は漸く口を開く。熟練警察官――警視長はその言葉を聞いて他の警察官に「保護した青年を署に連れて行く」と伝えた。
「行くぞ、青年」
青年の背中を二回ほど軽く叩いた。
「……保護じゃなくて補導の間違いじゃないんですか」
促されて歩き出した青年は不満そうに突っかかる。すると、警視長は大きな声で笑った。
「はっはっはっ!お前さんが一体何をしたんだ?え?拳銃でも所持しているのか?それとも誰かに怪我でもさせたのか?ん?」
青年の背中をばしばしと叩きながら陽気な声で尋ねてくる。
「…痛い、痛いです。さっき麻薬をやろうとしていたでしょ…もう忘れたんですか」
「やろうとした!はっ!お前さんは開いた袋を持っていただけだろう。なんだ、それとも薬に手を出したくなるような嫌なことでもあったか、青年」
あまりに大きな声に耳を塞ぎたくなったが、真面目にオレの話を聞いてくれるのもこの人くらいなので辛抱するしかない。
「何でもかんでも上手くいき過ぎなんですよ――オレはそれが嫌です!」
周りはそんなオレを“運が良い”というが、オレからすれば“怖い”ことである。
立て続けに自分にとって良いことが起こると不安になったりしないだろうか?“一年分の運を使った気がする”とか“この後不慮の事故に遭わないだろうか”とか“大切な人の訃報を聞いたりしないだろうか”とか。誰でも一度は思ったことがあるはずだ。
それに、“運が良い”ということは滅多に起こらないからそう思うわけで、頻繁に起こると何の有難味も無く、むしろ呪われているんじゃないかと思えてくる。
本当に絶望を知っている人にこんなことを話したら、どれだけ贅沢な悩みだ!と、怒鳴られてしまうだろう。
「ふんふん、なるほどな。しかしな、青年よ――お前さんは本当に失敗をしなかったか?」
「……オレが気付いてないだけで多くの失敗をしている、そう言いたいんでしょ」
聞き飽きた、と言わんばかりの態度で答える。
確かに失敗というものに自身が気付いていない可能性はある。だからといって、十六年間生きてきてどんなに小さな後悔の一つもしないのは妙な話ではないだろうか。
三年前の夏。中学二年生の時にオレはこの警視長さんと廃墟で出会った。
五歳の時にとある事故に遭ってから、母親はオレに対してどこか距離を置き、父親はオレから事故のことを忘れさせようと必死になっている。その為、まともに話せる大人というのが警視長さんに会うまで誰も居なかったのだ。
勿論、話せなかったのは日常会話ではなく、こういう運が良いとか知らないことを知っているとか、非科学的な事をだ。
「ふうむ、もう十時過ぎか。そうだ青年、晩飯を奢ってやろう!育ち盛りはよく食わなきゃいかんからな!」
一際大きく背を叩かれ、危うく転びそうになった。
「――っ!あ、危ないだろ!」
思わず顔を上げ、警視長を睨み付けた。
「…相変わらずだな――その瞳も」
警視長は真面目な声で言う。
「……なんでっ………いつもこういう時だけっ……」
青年が普通ではないところ――それは、特定条件の時、左眼が白に右眼が黒に染まる。
****
程なくして、青年と警視長は六人ほどが十分座れる個室に居た。青年の瞳は、元の茶色に戻っている。
「今日は私の奢りだ!どんどん頼んでじゃんじゃん食べろ!」
警視長は愉快そうに声を上げる。オレは思わず手にした割り箸を折れるほど握りしめた。
「…何で晩飯食うところが居酒屋なんだよ!オレは未成年だぞ!」
青年と警視長が座っているこの個室は警視長行きつけの居酒屋なのだ。
「はっはっはっ!お前さんは酒を飲むなよ!ああ、そうだ!こいつにはオレンジジュースをだしてやってくれ!」
「麦茶でいいって!おい、警視長さんってば!」
オレの言うことなどまるで気にしてない様子の警視長さんは適当につまみも頼み始めた。十分もすれば沢山の料理が並べられ、当然オレンジジュースも一緒に並べられた。
(何でオレンジ……そこまでガキじゃないっつーの!)
不貞腐れながらも運ばれてきたものは仕方ないと割り切る。残してしまうとお店の人に悪いので、つまみを食べながらオレンジジュースを飲んだ。
しばらくの間、互いに何も言わずに食べていたが、麦茶を頼むついでに話を切り出してみることにした。
「そういえばさっき、警視長さんはあそこで何をしていたんですか」
麻薬という犯罪は確かに在ったが、あの時の警察官達の反応はそれを全く想定していないように思えた。何かの事件の捜査なら詳しい内容は教えてはくれない、と考えていたが警視長さんはあっさりと口を割った。
「ちょいと“灰”を探しておったのさ」
「…灰?」
さすがに燃えカスのことではないのは分かった。
(…何かの組織名か、さっきの麻薬のことか――それとも隠語の類か?……迷子のペットの名前とかだったりして……)
しかし、例えオレが言葉の意味を理解できなかったとしても、大事なことならこんなにあっさりという訳がない。知恵熱が出そうなほどオレが考え込んでいると、「そうだ!」と、何かを思い出したように警視長さんが身を乗り出してきた。
「青年、お前さんはとあるアニメのことを知っているか?ん?」
「とあるアニメ?」
顔が近寄って来たことを出来るだけ気にしないようにした。
「そうだ。最近流行のものがあるらしくてな。そのアニメはオープニングもエンディングも無いもので…放送日も分かっていないのだ」
オレはため息を吐いて答える。
「放送局に問い合わせればいいでしょう」
「タイトルも分からんのだ…だがな、一つだけ分かることがある」
警視長は更に身を乗り出す。
「評価ってやつだ。そのアニメは誰に聞いても“面白くて素晴らしいもの”だと答えるのだ」
「はぁ…誰に聞いても、ですか……」
興味がないという態度で答えるが、それでも警視長さんは話を続ける。
「いつどの局で放送されているかもわからん代物がどうして面白いと言われているか気にならんか?ん?」
警視長さんの話を聞き流しながら、たれのたっぷりついた焼き鳥を頬張った。
「興味ないですね」
どうでもいい、という態度で答える。
そもそも、どうしてオレにこんな話をするのだろうか。格別アニメに詳しいわけでも好きなわけでもないというのに。いや、もしかしてこのタイミングで言うということは――
「む…そ、そうか?………しかし――」
警視長はごほん、と態とらしく咳払いをすると、
「もし、そのアニメについて何か分かれば知らせて欲しいのだが…」
と、比較的小さな声で告げた。
――このタイミングで言うということは、さっきの“灰”と関係があるのかもしれない。
(と、なれば…)
自分の口がにんまりと笑うのが分かった。
「――いいですよ。その代わり“灰”について詳しく教えてもらいますから」
態々タダで受けてやる必要はない。情報提供者にはそれなりの賞金なり報酬なりを渡してもらわなくては。情報には情報を頂こうじゃないか。
すると警視長は「うーん」と呻き腕を組んで考え始めた。
(…なんだよ、灰っていうのがそんなに詳しく言えない事なのか?だったら灰ってこと自体言わなきゃよかったのに……)
これは無理かな、と半ば諦めかけていると、警視長は腕組みを止めて指先で机をトントンと二回叩いた。
「よし、わかった。お前さんがアニメについて何か情報提供してくれれば〝灰〟について教えようじゃないか!」
警視長は胸を張ってそう言うと、にかっと白い歯を見せて笑った。
****
某県オモテ通り裏一丁目一番地 一騎マンション
一人暮らしにはぴったりの築十年それほど古くないマンション三階六部屋あるうちの階段から最も離れた一室三〇六号室。キッチンも寝床もトイレもお風呂も生活に必要なすべてを一つの箱の中に詰め込んだような部屋。その部屋の住人である黒い短髪、茶色い瞳、白い半そでのカッターシャツ、片裾に金色の装飾がある黒いジーンズ姿の青年は、部屋のベッドに座り時計を見てため息を吐いた。
「あー、くそう。警視長さんとだらだら晩飯食っていたら番組終わっちまった…」
毎週金曜日二十三時から始まる深夜番組。時間も時間なため、結構エッチな話もしていて丁度そういうのに興味があってしまう年頃の青年は毎週欠かさずに見ていた。先週までは。
「うぅ…話まで付き合わずに食うだけ食ってさっさと帰ればよかった……」
はぁ、と再びため息を吐いて項垂れた。
結局、あれから一時間以上居酒屋に居た。
「あ、そうだ。携帯のメアド教えて下さいよ。アニメのことで何か分かれば知らせますから」
「む?電話ではだめなのか?」
オレはため息を吐いて答える。
「電話じゃ真夜中に知らせられないでしょう。メールなら警視長さんの都合のいい時に見えますし、オレも時間気にせずに報告できますから――何よりオレは電話がキライです」
「お前さん、もしや電話帳に誰一人登録されておらんのではないか?」
「登録していますよ――店長と先輩と実家の電話番号くらいなら……。それに、オレの携帯はパケット定額のやつで通話料は高いやつなんです。それなのに通話していたら、オレの生活が圧迫されるのでメールでお願いします」
素直に答えると、警視長さんは大きな声で笑った。
「はっはっはっ!そういうことなら仕方が無いな!携帯の請求が払えないのは困るからな。はっはっはっ!」
つい先ほどの会話を思い出し、登録されたメールアドレスを眺めていた。そして、携帯の右上に表示された十一時五十八分という時刻に再びため息を吐いた。
「見たい番組を見逃すはずはないんだけどなぁ…いや、さすがに運も尽きたのか?」
青年はやること成すことなんでも上手くいく。
たまたま拾った財布を交番に届けたら持ち主が期間を過ぎても見つからず、財布に入っていた数十万を手に入れ、学校なんかでやる読書感想文・画等のコンクール等は毎回入賞するし、特待生なんてことで高校にも無料で入れてしまった。ほかにも、欲しかった激レアなアイテムを手に入れたり、安く買えた物が掘り出し物だったり、幸運の象徴と言われるめちゃくちゃでかい白蛇を見たこともある。
いやいや、流石にこれだけ全てが上手くいくんだから、これから先不運な事故にあって死ぬんじゃない?とか、青年は考えたので中学二年の夏、中学校近くの廃墟の屋上から飛び降りてみたことがあった。流石にこれは死ぬだろうと思ったんだけど、どういうわけか二十メートル下のコンクリートにたたきつけられたはずなのに怪我一つしてなくて、流石に怖くなり廃墟の中を走って家まで帰ろうとしていたら、偶然そこに居た麻薬密輸組織に鉢合わせして、拳銃を持っていたから――あ、ここでオレは撃たれて死ぬんだ――なんて思っていたらうっかり足元にあった空き缶を蹴ってしまい、それがたまたま銃を持っていた男の手に当たって銃口が逸れ、建物内にワイヤーで固定され積まれていた鉄骨の、これまた綺麗にワイヤーを焼き切り、麻薬密売組織は全員仲良く鉄骨の下敷きになり、騒音がしたため外で待機していた警察官たちが突入してきて、青年は組織の一員、なんて怪しまれるわけでもなくあっさり感謝と表彰された、なんてことがあったのだ。
そして、そこで出会ったのが他でもない、さっきの警視長さんなのだ。
名前は教えていないし聞いていない。“飛び降りた”なんてことがあったため、名前を言えば両親に連絡が入り、迷惑がかかってしまうから名乗らなかった。
そんなオレでも警視長さんは親身になって話を聞いてくれた。
それ以来、困ったことは大体相談したり、警視長さんに頼まれて聞き込みのお手伝いをしたり、今日みたいに晩飯を奢ってもらったり、(オレとしては不本意ながら)運の良さを利用して情報収集をしているのだ。
そんな交流があるので、警察を目指さないか、と言われていたり言われていなかったり。
【二十三時五十九分五十九秒の一瞬後――0時0分0秒になる一瞬前】
「実は野球とかの中継が長引いて今から放送とかじゃねーのかな」
そう思った青年は頭を上げるとベッドから立ち上がりテレビの電源を入れた。見たい番組は青年のテレビの一チャンネルで放送している。現在表示されているチャンネルは十。青年のテレビは一から十二までなので、十、十一、十二、一と回した方が早い。
かちかちとチャンネルを回していく。十一チャンネル――通販番組をしている、興味ない。次、十二チャンネル――教育関連だがもともと勉学はできる。次、砂嵐。
「――ん?」
何で砂嵐なんだ?
オレには一瞬理解が出来なかった。十二の次は一になるのだが、今はまだ0時前。放送終了になるにはまだまだ時間がある。
「…?放送事故でも起こっているのか?」
自分が使っている物が壊れるなんてことは経験したことが無い。ならば考えられるのは放送元に原因があるということだけだ。
チャンネルを変えようとして見慣れない数字を見た。
「…せんひゃくじゅういちちゃんねる?」
テレビの右上に〝1111〟と表示されていた。そんな四桁のチャンネルなんて、今まで聞いたことが無い。
時計の針が二十三時五十九分五十九秒から0時0分0秒に変わる――その瞬間、テレビ画面の砂嵐が消え真っ白な画面へと変わった。
【――針はまだ、0時を指さない】
「…あ、映った…のか?」
〝君の世界がなんと呼ばれているか知っているかい?〟
真っ白な背景に真っ黒な文字が浮かんだ。
「アニメか?深夜アニメってことはエロいかグロいか、かな」
先ほどの警視長さんの話を思い出す。
そのアニメはオープニングもエンディングもないもので、放送局も分からないらしい。放送局――1111チャンネル、聞いたことが無いチャンネルだ。
「それだけでこのアニメが警視長さんの言っていたアニメって言い切れないか…。そんな上手いこと情報を掴めたらオレに頼んだりしないよなぁ……警視長さんに言われて気になっていたけど――?」
よーく自分が言った言葉を思い返す。
オレはアニメのことが気になっていた――つまり、見たいと思っていた?
「――てことは…、もしかしてオレが警視長さんの言っていたアニメが気になっていたから、だからそのアニメが?」
今、オレのために放送しているのか?
精神科の先生なんかにそんなことを言えば、偏執病ですね、と言われてしまう。しかし、オレにとっては気になった番組があれば、それが運よく放送されるなんてことも日常茶飯事だ。
表示されていた文字が消え、新たな文字が映し出される。
〝世界を変えたければ世界を知らねばならない。――しかし、世界を知れば世界は変えられない〟
矛盾とともに、画面中央にひょっこりとデフォルメされた二頭身のキャラクターが映し出された。
キャラクターは緑色やや長めの髪をつんつんと流れるように立たせ、頭には真っ黒な生地によくゲームで見かける+の真ん中に●をかぶせたような標的を狙う時のマークの付いたヘアバンドを付け、これまた真っ黒な生地で足元まで隠れるフードつきのマントを着ているのだがフードが肩にかからずフードを脱ごうとした時に一時停止したみたいに宙に浮いている。
【――針は未だ、0時を指さない】
「これが警視長さんの言っていたアニメか?なんか、普通のアニメみたいなんだけど」
どうしてこんなアニメの情報を集めていたんだろう?これが本当に〝灰〟と関係があるのだろうか?
二頭身のキャラクターの頭上に吹き出しが現れた。
〝君の正面の後ろデス〟
「いや、どこだよ」
いかん、思わず突っ込みを入れてしまった。なんでアニメに突っ込みを入れているんだ。これじゃ製作者の思うツボじゃないか。
吹き出しの内容が合わる。
〝位置がよくありまセン 移動しマス〟
キャラクターが横を向き、移動し始める。
白い背景から街並みへと変わっていく。何となく見たことのある場所のような気がしたが、ドット画のようではっきりとわからない。
〝君の部屋は 一体 何階デスカ〟
「随分妙な場所の訊き方だな。〝何階〟ってマンションとかアパート限定じゃねーか」
口に出して突っ込む。誰かに見られていれば変な奴だと思われるが、問題ない。この部屋には青年しかいない。
すると、吹き出しの文字が変わった。
〝君はマンションに 住んでいるデショウ〟
どういう設定のアニメかまったくわからない。しかし、このデフォルメされたキャラクターは誰かの家を訪ねるつもりなのだろう。そして、その訪ねる誰かの家というのが視聴者の家にしたいと製作者は思っているのだろう。
そう勝手に解釈し、青年はうんうんと頷く。
〝マンション マンション … 残念 鍵がかかっていマス〟
「そりゃそうだろ。泥棒とか空き巣とか、その手の犯罪は未だになくならねぇんだし、用心に超したことは――」
【――針は未だ、0時を指さない】
思わず頭を抱えた。
(――何を必死にアニメに声を出して突っ込んでいるんだ、オレは!)
吹き出しの文字が変わった。
〝鍵を開けてくれまセンカ〟
「――そういやオレも鍵をかけていたな。だからって誰が開けるんだよ、なぁ?」
画面に向かって言った為、キャラクターに向かって話すような形になった。
すると、再び吹き出しの文字が変わった。
〝開けてくれて 助かりマシタ〟
何となくだが不安になったので玄関を確認する。大丈夫だ、鍵は閉まっている。
「なんだよ、驚かすなよ」
一人テレビ画面に向かってぶつぶつ呟く。どう見ても怪しい。どう見ても可笑しい。
再び下を向き、頭を抱えた。
(だから何をこんなに必死になっているんだ!…アニメの放送日時とチャンネルは分かったんだし、別のチャンネルに変えてしまおう!)
そう考え顔を上げると画面が目に入り、驚いた。
〝君の正面の後ろデス〟
吹き出しにはそう映し出されていた。
いや、別に文字に驚いたわけじゃないんだ。背景のドット画がだんだんとアニメーションらしい綺麗な絵に変わっていたからだ。ぼやけてよく分からなかった背景がだんだん理解できてきた。
えーと、ここでこのアニメの原作について話しておこう。このアニメの原作は一冊の絵本であり、その絵本は幼児向けであるにもかかわらずどの頁を開いても文字は漢字で読み仮名はない。大まかな話の流れは「アナザーと呼ばれる少年が異世界へ行って敵を倒す」というものなのだが、この物語の主人公はアナザーじゃない。アナザーは異世界で一人の人と出会い、出会ったその人こそがこの物語の主人公、という言葉ではちょっとばかり分かりにくい構成になっている。
じゃあ、ここで問題だ。アナザーは一体誰と会ったでしょう。
当然答えはバラバラだ。そもそも原作の絵本を見たものが居ないのだから、答えがあっている方がおかしい。しかし、 オレは〝知っている〟。アナザーが一体誰と会ったのか。
背景が読み取れるようになった。アニメーション映像ではなく実写の映像にまで。酷く見覚えがある場所だ。キャラクターが右を向いてそのまま歩く。キャラクターが移動するとその陰に隠れていた者が見えた。黒い短髪、白い左目黒い右目、白い半そでのカッターシャツ、片裾に金色の装飾がある黒いジーンズ姿の――
キャラクターがその者の後ろに移動していた。相変わらずキャラクターは吹き出しを頭上に掲げている。
〝君の正面の後ろデス〟
こっちを見て笑っている。
こういうのは、あれを見ているのに近い――と、いうよりあれを見ている以外に考えられなかった。誰の家にでも一つはあるはずの、洗面台とかに堂々と付いている〝あれ〟――どう考えても〝鏡〟だ。
オレは咄嗟に後ろを振り向いていた。いやいやいや、いるわけがない!そんなことがあってたまるか!
後ろを見てほっとする――誰も居ない。
「なんだよ、ただのホラーアニメじゃねーか」
そしてオレは正面を向き、マンション中に響く叫び声をあげる羽目になった。
アナザーが出会った人。
それは、一人暮らしにはぴったりの築十年それほど古くないマンション三階六部屋ある内の階段から最も離れた一室三〇六号室。キッチンも寝床もトイレもお風呂も生活に必要な全てを一つの箱の中に詰め込んだような部屋。その部屋の住人である黒い短髪、白い左目黒い右目、白い半袖のカッターシャツ、片裾に金色の装飾がある黒いジーンズ姿の青年こと、オレ――井水戸玄奥だ。
針は漸く0時を指した。
****
二〇二一年七月八日土曜日。天気は星が見えているから多分晴れ。現在時刻は0時を回ったばかり。瞳は既に日本人らしい茶色に戻っている。
今日一日の始まりは、まずマンションの住人に謝ることからだ。
「えーと、本当に何でもないんで、すいませんでしたー!」
頭を下げて謝るオレ。三階建て計十八部屋(内空き部屋五つ)の住人二十四人が目の前の通路に来ていた。
「でもでもぉ、すぅごく大きな叫び声だったわよぉ?」
おっとりとして優しそうな、丁度真下に住んでいる若い奥さんが尋ねてくる。腕には一歳位の子供が抱きかかえられている。
「本当に何でもないですから」
オレは思わず苦笑いをする。ここに居る二十四人全員が〝迷惑している〟という顔ではなく〝本気で心配している〟という気遣いの眼差しでいるからだ。
「そう?ならいいのだけどぉ…、もしも何かあったらすぐに大人にいうのよぉ?」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい」
なぜこんなに必死に謝っているかというと、奥さんが言っていたように凄まじい叫び声をあげたからだ。
住人が皆それぞれ住んでいる階へと戻っていくのを確認してから部屋に入り、扉の鍵をかけベッドの所まで猛ダッシュした。
「そんなに慌てると転びマスヨ」
子供とは思えない落ち着いた声で言い、こっちをにこにこしながら見てくる少年にオレは思わず早口で、
「誰のせいで慌てていると思っているんだ!つーか、お前は一体どこから入ってきた!あれか、ここのマンションの新しい住人の子供か!それとも新手の泥棒か!それとも宇宙人か何かか!とにかく身分を明かせ!」
と、叫んだ。
すると少年はしゅんと肩をすくめた。よく見ると涙目になっている――なんだこの罪悪感。元々子供が好きなオレの良心が痛む。しかし、そんなことを言っている場合ではない。
何故ならこの少年は、緑色やや長めの髪をつんつんと流れるように立たせ、頭には真っ黒な生地によくゲームで見かける+の真ん中に●をかぶせたような標的を狙う時のマークの付いたヘアバンドを付け、これまた真っ黒な生地で足元まで隠れるフード付きのマントを着ているのだがフードが肩にかからずフードを脱ごうとして一時停止したみたいに宙に浮いている、というコスプレをしているのだ。
そう――さっき見たアニメのキャラクターの格好だ。
この少年は、オレが一度後ろを向いて何も居なかった為にほっとして前を向いたその時、オレの目の前にちょこんと座っていた。一体いつの間にどこから入ってきたのやら。
「……とりあえず、警察を呼んで親御さんに引き取ってもらうか」
そうオレが言うと、少年は拗ねたような顔でこちらを見てこう言った。
「君の迷惑になることはしまセン」
普通に考えれば、見ず知らずの子供が家に居るだけで迷惑だ。
「…はぁ、とりあえず、名前は?」
「もう一つの世界デス」
お父さん、お母さん、こういう時オレはどう反応すればいいんでしょうか。ノッてやるべきでしょうか。
「もう一つの…、そのキャラクターの名前か?」
「ごっこ遊びをしているわけじゃありまセン。君はそういうのが好みデスカ?」
首を少し横に傾けて聞いてくる。
「いや、嫌いじゃないけど…って――そうじゃねぇよ!どう見ても今やっているアニメのコスプレだろうが!」
そう言ってオレはテレビを指差した。
しかし、テレビにはオレが毎週欠かさず見ているちょっとエッチな話をしている番組が映っていた。
「って、あ、あれ?チャンネル変えたっけ?」
妙にあせった。まるで、隠していたエロ本を母親に見つけられたような気分だ。
少年は目を輝かせてその番組を食い入る様に見ている。あ、やばい。こんな〝エッチな話大暴露大会〟みたいな番組を健全な少年に見せるのは非常にまずい。
咄嗟にオレはテレビの電源ボタンを押していた。
「…残念デス」
「と、とにかく、アニメのコスプレだろう。その格好は」
「逆デス」
「逆?」
少年は腰に手を当てて胸を張り、自慢げに答える。
「あのアニメは我輩を基に描かれているのデス。ですから、似ているのは仕方が無い事なのデス」
…我輩、か。この少年はずっと〝ですます口調〟だ。このキャラクターは丁寧な言葉遣いのキャラクターという位置づけなのだろうか?言い方も妙に芝居掛かっている。
「我輩の正式な名前は〝アナザー・ワールド〟といいマス。日本語では〝もう一つの世界〟という意味で、同士は我輩のことをアナザーと呼びマス」
「アナザー、ねぇ」
どこかで聞いた気がしたが、急激な眠気に襲われてうまく思考が回らない。でも寝たらまずい、この不法侵入者をどうにかしなくては、………………。
しかし、三十時間ぶっ続けで起きていた時みたいに、異常な睡魔が襲ってきた。
(……めちゃくちゃ……眠い、な…ん…、――――、―――)
五秒もしないうちにオレの視界は真っ暗になり、意識を手放していた。
****
二〇二一年七月八日、土曜日――午前九時四分。
その日の朝はあまりにも暑くて、苦しいと思うほどだった。寝苦しさに目を覚ましたオレはぼーっとしながら壁に掛けているカレンダーを確認する。
「…うぅ、土曜日かよ。…学校休みだから十時からバイトかぁ」
オレは今、マンションの近くにある明日希高校という、日本内でも有名な高校に通っている。
某県オモテ通りにある高校に通う為に、中学を卒業し親元を離れて一人ここで生活しているのもその為だ。実家から通うと、往復で二時間弱かかってしまう。親元を離れ一人で生活するために月曜から金曜までは高校が終わってから二十二時までの四時間、土曜日は学校が無いため十時から二十二時までの十二時間働いている。
月曜から金曜は四時間のため休み無しなのだが、土曜日は十二時間のうち半分近くは休み時間だ。正規の雇用と変わらない保険や補償もついていたのでその場で雇ってもらった。
「もう九時過ぎだし、いい加減起きて準備しねーと…」
伸びをしながら上半身を起こして異常に気付く。苦しいと思っていたのは何も暑さだけではなかったのだ。自分のお腹辺りに何かが丸まって乗っていたのだ。
どうやらオレが見ているのは人の背中らしい。恐る恐る手を伸ばし、指先でちょんちょんとつついてみた。嫌がる様にもそもそと動く。
「…うぅん…?」
眠そうな声を上げて、むくり、とそれは起き上がった。日に当たると髪の色は濃い緑というよりは、抹茶アイスのように緑に白を混ぜたような色をしていた。
「お、お前…、昨日の!」
起き上がった奴の顔を見てこれが誰なのか一瞬で理解した――昨日の不法侵入者だ。
(あー、もう!何でこれを放っておいて寝てしまったんだ!)
後悔が波のように襲ってくる。
頭を掻き毟りながらどうにか冷静な思考を搾り出す――とにかく、バイトへ行くついでに警視長さんの所に寄って、この少年を迷子として預けよう。ついでにアニメの事を話して〝灰〟とやらについて詳しく聞こうじゃないか。
「って、言うか――オレって今、普通に後悔しているよな?もしかしなくても生まれて初めての後悔?!めちゃくちゃ運のいい何をやっても上手くいくオレが、生まれて初めて後悔か!」
「おはようございマス。寝起きで悪いのデスガ、話を聞いて貰えマスカ?君は昨日我輩を放っておいて寝てしまうのデスカラ」
しかし、少年はオレの言っていることには一切触れず、華麗なスルーを決め込んだ。それも無邪気な笑みを浮かべて。
「………えーと、無視?子供に相手にされないとすごくむなしいんだけど……」
「君が寝てしまうのも、仕方のないことではありマスガ」
「あぁ、そう……そっか、やっぱり無視か……」
がっくりと肩を落としたオレは、のろのろと起き上がって箪笥の方へと歩み寄る。
「とりあえず、えーと、アナザー……で、いいのか?話は警察に聞いてもらっていいか?オレはこれからバイトがあるし、お前の両親だって心配しているはずだから早く家に帰った方がいいぞ」
箪笥の引き出しを開け、着替えの衣服を取り出しながら後ろに居る少年に話しかける。
着替えと言っても服はいつもカッターシャツに金色の装飾の入った黒いジーンズだ。この服は何着も持っているが、仕事の制服用に同じものをそろえているだけだ。
「あいにく我輩は、君が近くに居ないとここの人達に認識してもらえマセン」
相当なりきっているのだろうか。怒鳴りつけてでも追い出そう――などという酷い考えが頭に浮かんだ。
「詳しい説明には時間がかかりマス。なので、君のバイト先まで我輩もついていきマス」
着替えを済まし、オレは少年の方に向き直った。少年もオレの方を面と向かってみていた。
ぶつかった視線に居た堪れなくなった。彼の左目―オレから見れば右だが―は日本人らしい茶色だったのだが、反対の瞳の色が白だった。死んだ魚の目みたいなものではなく、プレシャスオパールの一つであるホワイトオパールみたいに七色の輝きのある、その目自体が光を放っているかのような、そんな澄んだ綺麗な瞳だった。
――この瞳、オレの瞳に似ている!
「――わかった。その代わりさ、お前の住んでいる家とか、両親の連絡先とか、どうやってオレの部屋に入ったとか、オレの質問することには全部答えてもらうぞ?」
その瞳を見たのはほんの数秒だ。少年が綺麗にたたんで床に置いていた真っ黒なマントを拾うために屈んだからだ。よく見れば靴が玄関に置かれている。
はぁ、と小さくため息を吐き、少年を連れて外へと出た。