王女は二度と妹の身代わりにはならない
王女は「君なら大丈夫」を信じない
「ティルシェなら大丈夫だろう」
婚約者のローディンがそう言った瞬間、第一王女ティルシェは、またかと思った。
王宮の小会議室には、父である国王と母、第二王女セレフィナ、それからローディンがいる。机の上には、北方へ派遣される王族使節団の名簿が置かれていた。
本来、一番上に書かれているのはセレフィナの名前だった。
だが、その名前には線が引かれている。
代わりに書き加えられていたのは、ティルシェの名だった。
「理由を聞いてもよろしいですか」
ティルシェが父へ尋ねると、答えたのはセレフィナだった。
「昨日から頭が痛いの。長旅をしたら、もっと悪くなるかもしれないでしょう?」
妹は十八歳。昨夜まで王宮の舞踏会に出ており、ローディンとも二曲踊っていたと聞いている。
「医師には診てもらったの?」
「まだよ。でも、自分の体のことだもの。具合が悪いかどうかくらい分かるわ」
「では、診察を受けてから決めればいいでしょう」
ティルシェがそう返すと、ローディンが眉を寄せた。
「そこまでしなくてもいいじゃないか。セレフィナ殿下が辛いとおっしゃっているんだ」
彼はティルシェの婚約者だった。
二年前、ティルシェが十九歳のときに婚約した。カシュナ侯爵家の嫡男で、現在二十三歳。王立騎士団に所属しており、家柄も年齢も釣り合うという理由で決まった政略婚だった。
恋愛から始まった関係ではない。それでも結婚する以上、互いに尊重できる関係にはなりたいとティルシェは考えていた。
だから婚約してから二年間、彼の仕事の話を聞き、侯爵家の行事にも出席し、将来の生活についても少しずつ話してきた。
そのローディンが、今はティルシェではなくセレフィナの隣に座っている。
「今回の派遣には、あなたも同行する予定だったでしょう」
ティルシェが尋ねると、ローディンは頷いた。
「セレフィナ殿下が行かれるなら、護衛として同行する予定だった」
「私が代わるなら?」
「騎士団の別任務がある。私は王都へ残る」
迷いのない返事だった。
ティルシェは名簿へ視線を落とした。
北方の霜の谷では、一か月ほど前から魔獣が増えている。現地には王家が管理する古い祭壇がある。外郭までは王宮保管の祭壇鍵で入れるが、中枢区画を開き、結界の核となる魔石や術式を操作できるのは王家の血を引く者だけだった。そのため異常の調査と修復には王族本人の派遣が必要だった。
父王は国を離れられない。
王太子である弟は南方諸国との会談中。
そこで、これまで地方公務の経験が少なかったセレフィナが派遣されることになった。
その決定が、頭痛一つでティルシェへ変更されようとしている。
「お姉様なら慣れているでしょう?」
セレフィナが言った。
「北方にも何度か行ったことがあるし、魔術にも詳しいもの。私が行くより、きっと皆も安心よ」
悪意はないのだろう。
それが余計に疲れた。
「ティルシェ」
母が優しく呼びかける。
「今回だけお願いできない?」
今回だけ。
ティルシェはその言葉を、これまで何度聞いただろう。
◇
最初は十二歳の春だった。
神殿の奉納式で、セレフィナが人前へ出るのを怖がった。
「お姉様が一緒ならできる」
そう言われ、ティルシェは妹の分まで役目を引き受けた。
十三歳の冬には、外国の王妃を迎える茶会があった。
セレフィナは外国語を間違えたら恥ずかしいと言った。
「ティルシェは語学が得意でしょう?」
母に頼まれ、ティルシェが代わった。
十四歳の夏は孤児院への慰問。
暑い場所へ行くと具合が悪くなるかもしれないとセレフィナが泣いた。
十五歳の秋は収穫祭。
前日に遊びへ出かけたセレフィナが足首を痛めた。
十六歳になるころには、誰も理由を詳しく聞かなくなっていた。
セレフィナが嫌がる。
ティルシェが代わる。
それが王宮では普通になった。
ティルシェ自身も、長い間それをおかしいと思わなかった。
姉なのだから。
第一王女なのだから。
自分の方が得意なのだから。
できる者がやればいい。
そう考えていた。
十八歳のとき、東部で川が氾濫した。
被災地へ王族が向かうことになり、当初はセレフィナが派遣される予定だった。ところが出発の二日前、妹は母へ訴えた。
「泥だらけの場所へ行ったら病気になるかもしれないわ」
結局、ティルシェが行った。
現地では食料が足りず、負傷者を収容する場所もなかった。
ティルシェは十日間滞在し、近隣領地から穀物を買い付け、王族用に用意されていた屋敷を負傷者へ開放した。自分は役所の小部屋で眠った。
帰還したとき、父は言った。
「よくやった。やはりお前に任せて正解だった」
母も褒めた。
「ティルシェなら安心だもの」
その夜、セレフィナの誕生日を祝う舞踏会が開かれた。
長旅で熱を出したティルシェは出席しなかった。
翌朝、妹が新しいドレスを着て楽しそうに踊っていたと侍女から聞いた。
そのころから、少しずつ疑問を持つようになった。
なぜ、自分ができるということが、他の人間がやらなくていい理由になるのだろう。
ローディンと婚約したのは、その翌年だった。
最初のころ、彼はティルシェの働きぶりを褒めていた。
「君は本当に何でもできるんだな」
褒め言葉だと思った。
地方行政の報告書を読んでいれば、仕事熱心だと言われた。外国使節との会談を終えれば、さすが第一王女だと笑ってくれた。
だからティルシェも、悪い人ではないと思っていた。
変わったのは、ローディンがセレフィナと親しくなってからだった。
妹は彼によく相談をした。
外国語が苦手。
公務が怖い。
父に叱られた。
舞踏会で知らない男性に話しかけられた。
ローディンはそのたびに親身になった。
「セレフィナ殿下は繊細なんだ。君とは違う」
初めてそう言われたとき、ティルシェは聞き返した。
「私とは違う?」
「君は強いだろう。少しくらい大変でも、自分で何とかできる」
ローディンは笑っていた。
悪気はなかった。
それから、同じ言葉が増えた。
「君なら一人で大丈夫だろう」
「セレフィナ殿下には誰かがついていないと」
「姉なんだから、少しくらい譲ってあげればいい」
ティルシェは何度か反論した。
そのたびにローディンは不思議そうな顔をした。
「何が不満なんだ? 私は君の能力を信頼しているんだぞ」
信頼。
便利な言葉だった。
信頼しているから、助けなくていい。
信頼しているから、心配しなくていい。
信頼しているから、他の人を優先してもいい。
ティルシェが何を感じているかだけは、一度も聞かれなかった。
◇
「ティルシェ?」
父の声で、意識が現在へ戻った。
全員が返事を待っている。
「今回だけ、代わってやってくれないか」
父も同じことを言った。
ティルシェは名簿を閉じた。
「分かりました」
セレフィナがほっとした顔をする。
母も笑った。
ローディンは当然だというように頷いた。
「ただし」
ティルシェが続けると、三人の表情が止まった。
「これを最後にしてください」
「何を?」
母が尋ねる。
「セレフィナに割り当てられた公務を、本人が嫌がったという理由だけで私へ回すことです」
「嫌がったわけではないわ」
セレフィナがすぐに反論した。
「具合が悪いのよ」
「でしたら医師の診断を受けて」
「まだ言うの?」
「王族の公務を変更するのだから、確認するのは当然でしょう」
セレフィナの目に涙が浮かんだ。
ローディンがすぐに口を開く。
「もういいだろう。君はなぜ、妹をそこまで追い詰めるんだ」
ティルシェは彼を見た。
「追い詰めている?」
「見れば分かるだろう。泣いているじゃないか」
「私が北方へ行くことについて、あなたは何も思わないの?」
ローディンは質問の意味が分からないようだった。
「仕事だろう?」
「そうね」
「君なら問題ない。北方にも慣れているし、魔術の知識もある」
「では、セレフィナも自分の仕事をするべきでは?」
「だから体調が悪いと言っている」
話は戻る。
ティルシェはそれ以上言わなかった。
「陛下。北方派遣をお受けします」
父へ向き直る。
「その代わり、帰還後に私とセレフィナの公務分担を正式に定めてください。今後は代理を当然としないことも約束していただきたいです」
父はしばらく黙った。
「分かった」
「ありがとうございます」
ティルシェは席を立った。
ローディンが追ってくる。
廊下へ出たところで腕を掴まれそうになり、ティルシェは一歩離れた。
「何?」
「怒っているのか」
「少し疲れています」
「セレフィナ殿下に当たるなよ」
ティルシェは彼の顔を見た。
「私がいつ当たったの?」
「さっきの言い方だ。医師に診てもらえだの、自分の公務をしろだの」
「事実でしょう」
「君は正しいことを言えば何を言ってもいいと思っているところがある」
胸の奥が冷えた。
ローディンは続ける。
「もう少し優しくしてやれないのか。あの方は君ほど強くないんだ」
「私が強いなら、傷つかないと思っているの?」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味?」
ローディンは答えに詰まった。
ティルシェは返事を待った。
だが彼が口にしたのは、やはり同じ言葉だった。
「とにかく、君なら大丈夫だろう」
ティルシェは何も言わず、その場を離れた。
◇
北方派遣が決まったのは九月上旬だった。ティルシェが王都を出発したのは、その五日後だった。
ローディンは見送りに来なかった。
騎士団の任務があると聞いていた。
代わりにセレフィナが門まで来た。
「お姉様、気をつけてね」
「ありがとう」
「お土産はいらないわ。北方には可愛いものがなさそうだもの」
ティルシェは妹を見た。
冗談なのだろう。
「行ってきます」
それだけ答え、馬車へ乗った。
霜の谷までは十二日かかった。
北へ進むほど道は悪くなり、最後の二日は雪だった。
現地の状況は、王都で聞いていたより悪かった。
三つの村がすでに避難している。
魔獣は夜だけでなく昼間にも現れ、畑や家畜小屋を荒らしていた。
「すべて谷の東側から出ています」
現地の騎士団長が地図を広げる。
赤い印は一か所へ集中していた。
古い王家の祭壇。
翌朝、ティルシェは護衛と魔術師を連れて向かった。
祭壇の外郭扉は、王宮から持参した正規の祭壇鍵で開いた。その先にはもう一枚、古い石扉がある。こちらには王家の血に反応する術式が残っていた。ティルシェが手を触れると青白い光が走り、中枢区画への扉が開く。
その奥には、結界の核となる巨大な魔石があった。
本来あるべき台座から、わずかに外れている。
「自然に動いたとは思えません」
魔術師が床と外郭側の固定機構を調べた。
「中枢区画へ入った形跡はありません。ですが、外郭から魔力を抜くために固定機構へ細工をした者がいます。そのせいで核石の均衡が崩れ、台座からずれたのでしょう」
魔石は谷の魔力を安定させるためのものだった。
位置がずれたことで地脈が乱れ、山中の魔獣が住処を追われている。
「元へ戻せば?」
「人の力では動きません。古代術式を使う必要があります」
その日から調査が始まった。
一週間で終わると思っていた。
一か月かかった。
古代文字の記録を集め、王都の魔術院へ照会し、祭壇内部の術式を一つずつ調べる。
その間にも被害は続いた。
ティルシェは避難所へ足を運んだ。
家を失った老人。
家畜をすべて失った家族。
魔獣に腕を噛まれた少年。
誰も、王女が来ただけで喜んではくれない。
必要なのは食料と薬と安全な家だった。
ティルシェは王都へ追加の物資を求めた。
返事を待つ間、近隣領地から穀物を買い付けた。
王族用の宿舎は負傷者へ譲った。
自分は役所の二階にある小さな部屋で寝た。
二か月目。
王都からセレフィナの手紙が届いた。
『お姉様のおかげで、こちらは平和です。ローディン様が冬至祭の警備責任者になったので、私も準備をお手伝いしています。広場の噴水を光らせるそうです。とても楽しみです』
ティルシェは一度読み、便箋を畳んだ。
ローディンからの手紙はなかった。
婚約者が危険な地域に二か月いる。
それでも彼は何も送ってこない。
忙しいのだろう。
そう考えようとした。
十二月初旬、滞在は三か月目に入った。
ようやく魔石を戻す方法が分かった。
必要なのは王族の魔力と、四つの補助魔石。
補助魔石は王都の宝物庫に保管されている。
ティルシェはすぐに使用許可を求めた。
十日後、返事が届いた。
『冬至祭で使用予定のため、祭り終了後に発送する』
意味が分からなかった。
補助魔石は王家が管理する古代術式用の魔道具で、平時には王宮宝物庫が保管している。王命があれば結界修復などへ優先使用される一方、異常のない年には冬至祭の王家儀礼で魔力供給源として使う慣例があった。
今年もすでに祭礼使用の許可が下り、広場の噴水を光らせる演出へ組み込まれていた。
しかし、祭りは十日ほど後。
その間にも魔獣は出る。
同封されていた母の手紙を読んで、さらに言葉を失った。
『今年はセレフィナが初めて冬至祭の主催を手伝っています。あの子がとても楽しみにしているので、できれば祭りが終わるまで待ってあげてちょうだい』
ティルシェは手紙を机へ置いた。
窓の外では雪が降っている。
昨日、避難所で七歳の子どもが高熱を出した。
薬はあと五日分しかない。
ティルシェは父へ手紙を書いた。
『祭りが終わるまで待てません。補助魔石がなければ結界を修復できず、被害が拡大します。三日以内に発送してください。冬至祭の演出と領民の安全を比較する理由はありません』
書き終えたあと、もう一枚の便箋を出した。
宛名はローディン。
短い手紙だった。
『補助魔石が冬至祭に使用されるため、こちらへの発送が遅れています。あなたは警備責任者と聞きました。事情をご存じなら、祭りでの使用を止めるよう進言してください』
ローディンからの返事は、その六日後に来た。冬至祭までは、もう数日しかなかった。
『祭りはすでに準備が進んでいる。今から変更すれば多くの者が困る。君の方はこれまで三か月対処できたのだから、あと数日くらい何とかなるだろう。君なら大丈夫だと信じている』
ティルシェは最後まで読んだ。
それから、もう一度読んだ。
怒りは湧かなかった。
代わりに、はっきり分かった。
この人とは結婚できない。
婚約して二年。
彼の良いところを探そうとしてきた。
政略婚なのだから、最初から愛情がなくてもいいと思っていた。
時間をかけて家族になればいい。
互いに支え合えるようになればいい。
そう考えていた。
けれどローディンが望んでいるのは、支え合う関係ではない。
ティルシェが一人で立ち続けることだ。
自分はセレフィナを助ける。
ティルシェは強いから放っておく。
それで結婚後も問題ないと思っている。
もし子どもが生まれたら。
もしティルシェが病気になったら。
もし本当に助けてほしい日が来たら。
そのときも彼は言うのだろう。
君なら大丈夫。
ティルシェは手紙を折り畳んだ。
「大丈夫ではないわ」
誰もいない部屋で、初めて口にした。
◇
冬至祭を待たず、父王の命令で補助魔石は十二月半ばに発送された。
冬至祭では代用品が使われたらしい。
ティルシェは気にしなかった。
祭壇の固定機構に人為的な細工があった件も、現地から王宮へ報告していた。王宮側では外郭鍵の貸与記録を調べたが、該当する申請は「北方遺跡の事前調査」とだけ記され、具体的な調査地に霜の谷の名がなかった。貸与期限内に正規の鍵が返却されていたこともあり、その時点では祭壇への侵入と結びつける証拠がなく、調査はそこで止まっていた。
補助魔石が霜の谷へ届いたのは年明け前で、結界修復にはそこからさらに二週間かかった。
古代術式を起動すると、巨大な魔石がゆっくり台座へ戻った。
谷を満たしていた不安定な魔力が静まっていく。
数日後には魔獣の数が減った。
一月後半から二月にかけて、避難していた村人たちを順に帰還させた。ティルシェは最後の村の生活基盤が戻ったことを確認し、二月下旬に霜の谷を発った。
十二日間の帰路を経て王都へ着いたのは三月上旬。九月に王都を出てから、ほぼ半年が経っていた。
王都へ到着した日は、よく晴れていた。
王宮前の広場には人が集まっている。
ティルシェの帰還を迎えるためではなかった。
セレフィナが主催する春の慈善祭だった。
壇上には妹がいる。
その隣にはローディンがいた。
彼は騎士服を着て、セレフィナをエスコートしている。
ティルシェの馬車が広場を通っても、二人は気づかなかった。
侍女だけが慌てて迎えに来た。
「殿下。本日お戻りでしたか」
「昨日、到着予定を送ったはずですが」
「申し訳ございません。慈善祭の準備で連絡が……」
「分かりました」
ティルシェは自室へ戻った。
半年ぶりの部屋は、出発した日とほとんど変わっていない。
湯を使い、旅装を着替える。
鏡を見ると少し痩せていた。
髪も以前より短い。北方で邪魔になり、現地で侍女に短く切ってもらった。
夕方、父が訪ねてきた。
「戻っていたのか」
「はい」
「なぜ祭りへ来なかった?」
「帰還したばかりですので」
「そうか。北方の件はよくやった。報告は受けている」
「ありがとうございます」
「しばらく休め」
父が立ち上がろうとする。
「陛下」
ティルシェは呼び止めた。
「出発前のお約束を覚えていらっしゃいますか」
父の動きが止まった。
「公務分担の話か」
「はい」
「今まで通りでは駄目なのか?」
「駄目です」
すぐに答えた。
「私は今後、セレフィナの代理をいたしません」
「姉妹なのだから、助け合うこともあるだろう」
「助け合うのでしたら、私の公務をセレフィナが代わったことは何度ありますか?」
父は黙った。
「一度もありません」
「ティルシェ」
「私は王女として必要な仕事をします。ですが、妹が嫌がったからという理由で、その仕事まで引き受けることはしません」
父は長く息を吐いた。
「分かった。宰相と調整する」
「ありがとうございます」
「それだけか?」
「もう一つあります」
ティルシェは机の引き出しから一通の書類を出した。
北方を発つ前に、自分で作ったものだった。
「ローディン・カシュナとの婚約を解消したいです」
父が目を見開いた。
◇
翌日、ローディンがティルシェの部屋へ来た。
婚約解消の話を聞いたらしい。
「どういうことだ」
挨拶もなく言われた。
ティルシェは侍女に茶を頼み、向かいの椅子を示した。
「座ってください」
「そんな場合じゃない。なぜ婚約を解消するんだ」
「結婚できないと思ったからです」
「理由になっていない」
「十分な理由でしょう」
ローディンは苛立ったように椅子へ座った。
「北方へ行かせたことを怒っているのか?」
「それだけではありません」
「なら何だ」
ティルシェは彼の顔を見た。
「私は北方に半年いました」
「知っている」
「あなたから手紙が来たのは一度だけです」
「君から質問が来たから返しただろう」
「そうですね」
「何が問題なんだ? 君は仕事で行っていた。遊びではない」
やはり分からないらしい。
「私が危険な場所にいても、心配ではなかった?」
「君なら大丈夫だと思っていた」
迷いなく答えた。
ティルシェは少し笑った。
「やっぱり、それなのね」
「何がだ」
「あなたは私にずっと同じことを言います。君なら大丈夫。君は強い。君なら一人でできる」
「褒めているんだぞ」
「私は一度も嬉しいと言っていません」
ローディンが黙った。
「あなたはセレフィナが困れば助ける。怖いと言えば付き添う。泣けば庇う。でも私が困っても、私なら大丈夫で終わる」
「セレフィナ殿下は君とは違う」
「知っています」
「なら――」
「だからといって、私が何も感じない人間になるわけではありません」
ティルシェは遮った。
「私はあなたに妹と同じ扱いをしてほしいのではない。婚約者として、私がどう思っているかを一度くらい聞いてほしかった」
「聞いているじゃないか」
「今、婚約を解消すると言ったからでしょう」
ローディンの顔が強張る。
「私は二年間、何度も言いました。セレフィナの代理ばかりするのは嫌だと。あなたが妹ばかり庇うのも嫌だと。そのたびに、あなたは私なら大丈夫だと言った」
「そんなことで婚約を壊すのか」
「そんなこと、なのね」
その一言で、最後の迷いも消えた。
「婚約は解消します」
「待て。私は認めない」
「婚約は王家と侯爵家の契約です。陛下とカシュナ侯爵にはすでに申し入れました」
「父上に?」
「はい」
ローディンは立ち上がった。
「勝手に話を進めるな!」
「あなたも私に相談せず、セレフィナのために何度も私の予定を変えようとしたでしょう」
「それとこれは違う」
「私には同じです」
扉の外で侍女が待っている。
ティルシェは呼び鈴へ手を伸ばした。
「話は終わりです」
「ティルシェ」
「今までありがとうございました」
ローディンは何か言おうとした。
けれど侍女が入ってくると、それ以上は言えなかった。
◇
婚約解消は一週間後に成立した。
カシュナ侯爵は何度も謝罪した。
「息子が殿下のお気持ちを理解できていなかったこと、父としてお詫び申し上げます」
「侯爵が謝ることではありません」
ティルシェはそう答えた。
ローディン本人は最後まで納得していなかった。
「一時の感情だ」
「北方で疲れているだけだ」
「少し時間を置けば考え直す」
周囲にそう話していると聞いた。
ティルシェは放っておいた。
同じころ、公務分担も正式に決まった。
ティルシェは北方復興と古代結界研究を担当する。
セレフィナには外国使節の歓迎、慈善院の監督、地方祭への出席などが割り当てられた。
最初の月。
セレフィナは三度、母へ泣きついた。
母は一度だけティルシェのところへ来た。
「明日の使節歓迎を代わってあげられない?」
「できません」
「午後から北方復興会議でしょう? 午前中なら空いているじゃない」
「準備があります」
「あなたなら準備しなくてもできるでしょう」
ティルシェは母を見た。
母も自分で気づいたらしい。
「あ……」
「今の言葉です」
「ごめんなさい」
母は珍しくすぐに謝った。
「癖になっているのね」
「十二歳のころから続いていますから」
母の顔が曇った。
ティルシェはそれ以上責めなかった。
「セレフィナにやらせてください。失敗してもいいんです」
「でも王女なのよ」
「私も何度も失敗しました」
「あなたが?」
「最初から全部できたと思っていたのですか?」
母は答えなかった。
翌日、セレフィナは自分で使節を迎えた。
外国語を二度間違えた。
席順も一か所間違えた。
それでも式は終わった。
誰も怒らなかった。
次の地方祭にも自分で行った。
暑いと文句を言いながらも、最後まで役目を果たした。
できないのではない。
これまで、やらなくても済んでいただけだった。
◇
夏の初め。
王宮の財務官がティルシェへ相談に来た。
「セレフィナ殿下が監督されている慈善院についてです」
慈善院監督役には、年度予算の範囲内で仕入れ先を承認し契約書へ署名する権限がある。ただし価格比較と財務官の確認を受けることが規則だった。
提出された帳簿には、不自然な支出があった。
食料費。
薬代。
建物の修繕費。
どれも相場より高い。
「同じ商会ですね」
「はい。カシュナ侯爵家の関連商会です」
ティルシェは顔を上げた。
「ローディンが関わっている?」
「はい。セレフィナ殿下の補佐役ではありませんが、取引先を紹介した者として推薦人欄に署名しています。さらに、財務官の事前確認を受ける前に契約を進めるよう商会側へ連絡した記録があります」
調査はすぐに始まった。
セレフィナは最初、何も知らないと言った。
「ローディン様が、この商会なら安心だって」
「価格は確認した?」
「していないわ」
「なぜ?」
「ローディン様を信用していたから」
ティルシェは帳簿を妹の前へ置いた。
「同じ薬が、王立病院の二倍の値段です」
「そんな……」
「この食料も。修繕費も」
セレフィナの顔から血の気が引いた。
「私、知らなかった」
「そうでしょうね」
「信じてくれるの?」
「あなたが金を受け取ったとは思っていない。でも、確認せず署名した責任はあります」
セレフィナは泣きそうになった。
「お姉様、どうしたらいい?」
以前なら、ティルシェが全部調べただろう。
必要な書類を集め、妹に代わって父へ説明したかもしれない。
「自分が署名した書類を全部確認して」
「全部?」
「全部です。それから、ローディンに何を説明されて契約したのか書き出して。分からないところがあれば、財務官に聞いて」
「お姉様が一緒にやってくれないの?」
「質問には答える。でも、あなたの仕事はあなたがしてください」
セレフィナはしばらく俯いていた。
やがて小さく頷いた。
「分かった」
調査を進めるうちに、さらに大きな問題が見つかった。
カシュナ家の関連商会は慈善院から金を抜いていただけではない。
霜の谷の古代祭壇にも関わっていた。
昨年の夏、商会の人間が祭壇の外郭へ入り、核石の固定機構に細工をしていた。
目的は、固定機構を通じて核石の魔力を抜き取り、魔力を蓄えた媒体を国外へ売ることだった。
鍵は王宮で管理されているはずの祭壇外郭へ、商会はどうやって入ったのか。
その答えもすぐに出た。
祭壇の外郭へ入るには、王宮が管理する正規の祭壇鍵が必要だった。商会が手に入れたのは、北方遺跡の事前調査を名目に正式な手続きを経て一時貸与された外郭鍵だった。
ただし、王家管理の鍵を民間へ貸与するには、調査目的と派遣先を確認したうえで、王宮警備を担当する騎士団の保証人が必要になる。
その保証人欄に、ローディンの署名があった。
申請書に霜の谷の名はなく、調査対象も曖昧だった。それでもローディンは、実家の関連商会が提出した申請だからという理由で内容を精査せず、保証人になっていた。
商会は貸与期間中に鍵型を不正に取り、複製を作成した。その複製で後日祭壇の外郭へ侵入し、中枢区画には入れないまま、外側から核石の固定機構を壊して魔力の一部を抜き取ろうとしたのだった。
ティルシェは報告書を読み、しばらく動けなかった。
半年間。
自分が北方で対処していた被害。
避難した村人。
怪我をした子ども。
失われた家畜。
人為的な細工だったことは現地ですでに分かっていた。だが、誰が、何のために行ったのかが、ようやく分かった。
ローディンが関わる商会の利益のために起きたものだった。
◇
ローディンは王宮へ呼び出された。
父王、宰相、カシュナ侯爵、ティルシェ、セレフィナが立ち会った。
「私は知らなかった!」
ローディンは最初からそう主張した。
「商会が祭壇の核石を狙っているなんて聞いていません。遺跡調査に必要だと言われたから、外郭鍵の貸与申請で保証人になっただけです。複製を作るなど知りませんでした」
宰相が書類を示す。
「王家管理の祭壇外郭鍵を民間商会へ貸し出す申請に、内容も確かめず保証人として署名したと?」
「信用できる商会でした」
「あなたの実家の関連商会だったから、信用して確認を省いたのか?」
「それだけではありません」
「では、調査目的の確認は?」
ローディンが黙る。
「提出された計画書には、調査地として霜の谷の名すらありません。王家管理物の貸与保証人には、目的と行き先を照合する義務があります」
「部下が確認していると思っていました」
「署名者はあなたです」
部屋が静かになった。
ティルシェはローディンを見た。
彼はずっと、自分なら大丈夫だと言った。
自分自身についても、同じだったのかもしれない。
細かく確認しなくても大丈夫。
誰かがやる。
問題が起きても何とかなる。
「慈善院の契約については?」
父が尋ねる。
「適正価格だと聞いていました」
「誰に?」
「商会の責任者です」
「自分で確認しなかったのか」
「そこまで私がする必要はないでしょう!」
ローディンが声を上げた。
「私は騎士です。商人ではない。専門家が大丈夫だと言ったから信じた。それの何が悪いんです」
ティルシェは目を閉じた。
昨年九月、小会議室で自分へ言われた言葉を思い出す。
君なら大丈夫。
セレフィナ殿下が辛いと言っているのだから、それで十分だろう。
確かめようとしない。
自分に都合のいい言葉だけ信じる。
ずっと同じだった。
セレフィナが立ち上がった。
「ローディン様」
「セレフィナ殿下。あなたからも説明してください。私はあなたの慈善活動を手伝っただけだと」
「私も責任を問われています」
「あなたは悪くない!」
「違います」
セレフィナの声は震えていた。
「私も書類を読まずに署名しました。だから、お父様から処分を受けます」
ローディンが目を見開いた。
「なぜ認めるんです!」
「私がしたことだからです」
ティルシェは妹を見た。
セレフィナは泣いていなかった。
「お姉様に言われました。自分の仕事は自分でしなさいって」
「今はそんな話をしている場合ではない!」
「今だからです」
セレフィナはローディンを見た。
「私はずっと、お姉様に代わってもらっていました。嫌なら泣けばよかった。失敗しそうなら逃げればよかった。でも、それでは駄目だった」
「セレフィナ殿下……」
「ローディン様も、自分でしてください」
ローディンは何も言えなかった。
◇
調査と裁判には三か月かかった。
カシュナ家の関連商会は解体された。
商会長は王家の財産を盗もうとした罪で投獄。
カシュナ侯爵は不正そのものには関わっていなかったが、関連商会の監督責任を取り、当主の座を弟へ譲った。
ローディンは爵位継承権を失った。
騎士団からも除名された。
王家管理の祭壇鍵について、保証人として負う確認義務を怠り、不正な複製を許す端緒を作ったうえ、結果として多数の領民を危険にさらした責任は重かった。
慈善院の不正契約についても、彼の署名が複数残っていた。
横領金を直接受け取った証拠はなかった。
だから投獄はされなかった。
その代わり、王都で公職に就く資格を失い、実家の遠い領地で働くことになった。
セレフィナも無傷では済まなかった。
慈善院監督職を解任。
半年間の公的行事参加停止。
自由に使える王家予算も減額された。
処分を告げられた夜、妹がティルシェの部屋へ来た。
「入ってもいい?」
以前のように勝手に扉を開けなかった。
「どうぞ」
セレフィナは向かいへ座った。
「私、お姉様に謝らないといけない」
ティルシェは黙って聞いた。
「北方へ行きたくなかったの、頭が痛かったからじゃない」
「知っていたわ」
「ローディン様と離れたくなかったから」
「そう」
「お姉様なら代わってくれると思った」
セレフィナは膝の上で手を握った。
「今までずっとそうだったから」
「ええ」
「ごめんなさい」
ティルシェはすぐに「いいのよ」とは言わなかった。
簡単に許せば、また同じになる気がした。
「今すぐ、全部なかったことにはできないわ」
「うん」
「でも、謝ってくれたことは受け取ります」
セレフィナは目を赤くした。
「私、これからどうしたらいい?」
「それを私に決めさせるの?」
妹がはっとする。
ティルシェは少しだけ笑った。
「自分で考えて」
「……そうだね」
「分からないことは聞いていい。でも決めるのはあなたよ」
「うん」
それが、姉妹の関係をやり直す最初の日になった。
◇
冬が終わるころ、ティルシェは北方の復興計画を正式な王立事業にした。
古代祭壇の調査結果をまとめ、他地域の結界にも応用できるよう王立魔術院と共同研究を始める。
忙しかった。
けれど以前とは違った。
自分で選んだ仕事だった。
誰かの代わりではない。
春の初め、霜の谷で見つかった術式について西方のヴェルグラード公爵家から問い合わせが届いた。
公爵領にも古い結界があり、ティルシェの研究を応用したいという。
手紙には具体的な質問が十七項目も並んでいた。
ティルシェは面白くなり、三日かけて返事を書いた。
一か月後。
王立魔術院で開かれた研究会に、ヴェルグラード公爵家の嫡男が参加した。
そこでティルシェは、エルディナス・ヴェルグラードと初めて会った。
二十五歳。
黒に近い緑色の髪と灰青色の瞳を持つ、背の高い男性だった。父である公爵が病気になってから三年、領地の実務をほとんど任されているという。
研究会が終わると、彼はティルシェへ近づいた。
「第一王女殿下。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「質問ですか?」
「はい」
「十七項目の続き?」
エルディナスが少し驚いた。
「数えていらしたのですか」
「当然でしょう」
「申し訳ありません。多すぎました」
「いいえ。面白かったです」
ティルシェが答えると、彼は初めて笑った。
「では、十八個目を聞いても?」
「どうぞ」
二人はそのまま魔術院の応接室へ移った。
質問は具体的だった。
北方では四つ使った補助魔石を、西方では三つに減らせないか。
結界維持のために必要な魔力量は。
冬季に地脈が弱まる場合の対処は。
ティルシェが答えると、エルディナスは必ず理由まで聞いた。
分からないことは分からないと言った。
知ったふりをしない。
「殿下の報告書を読みました」
話の途中で彼が言った。
「三百八十二頁あるもの?」
「はい」
「全部?」
「全部です」
「珍しい人ね」
「必要な情報でしたから」
「王宮でも全部読んだ人は少ないわ」
「もったいない」
エルディナスは本気でそう思っているようだった。
「現地の記録が細かい。特に避難所の魔力灯についての記述が参考になりました」
ティルシェは少し驚いた。
結界術そのものではない。
避難所で、子どもや老人が夜に転ばないよう設置した簡易魔力灯の記録だった。
「そこまで読んだのね」
「現場で必要だったものが書かれているので」
その言葉が嬉しかった。
ティルシェは王女だから褒められることに慣れている。
けれど、自分が実際にした仕事を読んだ上で評価されることは多くなかった。
気づけば二時間近く話していた。
「申し訳ありません」
エルディナスが時計を見る。
「長く引き止めました」
「私も話していたでしょう」
「それでも」
「嫌なら途中で終わらせています」
ティルシェが言うと、彼は少し黙った。
「では、次も質問していいですか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
それが二人の最初の会話だった。
◇
エルディナスは月に一度ほど王都へ来るようになった。
共同研究のためだった。
最初の数回は、本当に研究の話しかしなかった。
五度目の訪問で、初めて食事に誘われた。
「会議のあと、お時間はありますか」
「あります」
「よければ夕食をご一緒しませんか」
ティルシェは少し考えた。
エルディナスは何も付け足さない。
返事を待っている。
「二人で?」
「はい。嫌でしたら研究員たちも誘います」
「嫌ではないわ」
「では二人で?」
「ええ」
食事中も、仕事の話が半分だった。
残り半分は互いの領地や家族の話だった。
エルディナスには十歳下の弟がいる。
弟が幼いころ、何でも世話を焼こうとして嫌われた時期があったらしい。
「『自分でできる』と言われまして」
「それで?」
「やめました」
「すぐに?」
「嫌だと言われたので」
ティルシェは手を止めた。
「それだけ?」
「それ以上、何が必要ですか」
「……そうね」
簡単なことだった。
嫌だと言われたらやめる。
ティルシェが何年も求めて、得られなかったものだった。
その日から、エルディナスを見る目が少し変わった。
◇
夏。
ティルシェは西方の結界を視察するため、ヴェルグラード公爵領へ向かった。
エルディナスが同行した。
彼は有能だった。
宿泊地には先に必要な資料が届いている。
移動時間に無理がない。
現地の担当者は質問への答えを準備している。
ティルシェが追加で見たいと言った村にも、その日のうちに連絡が入った。
「いつ準備したの?」
「殿下が来ると決まった日に」
「私が何を見たいか分からなかったでしょう」
「これまでの質問から予想しました」
「外れたら?」
「使わなければいいだけです」
無駄になる可能性まで考えて準備していた。
しかも、その準備を理由にティルシェの行動を制限しない。
「午後は予定が空いています」
視察三日目、エルディナスが言った。
「休んでもいいですし、別の場所をご覧になっても構いません」
「あなたなら何を見る?」
「北の水門です」
「では行きたいわ」
「分かりました」
「最初から連れていくつもりだった?」
「いいえ。休みたいと言われれば宿へ戻るつもりでした」
「本当に?」
「殿下は私を何だと思っているのです」
「準備のいい人」
「否定できません」
ティルシェは笑った。
ローディンも、ティルシェができることをよく知っていた。
だから任せた。
エルディナスも、ティルシェができることを知っている。
けれど彼は、できるかどうかと、やりたいかどうかを別に聞く。
その違いは大きかった。
◇
視察の最終日。
山間部の結界塔で事故が起きた。
古い術式の一部が破損し、魔力が漏れ始めた。
ティルシェは現場へ向かった。
「私も行きます」
エルディナスが言う。
「危険よ」
「知っています」
「あなたは魔術師ではないでしょう」
「現地の地形と避難路は私の方が知っています」
確かにそうだった。
二人は騎士と魔術師を連れ、塔へ向かった。
内部では魔力の流れが乱れている。
ティルシェが術式を調べる間、エルディナスは周辺住民の避難を指示した。
誰をどの道へ動かすか。
家畜をどこへ集めるか。
怪我人をどこへ運ぶか。
判断が早い。
ティルシェが結界を一時停止させるころには、塔の周辺から住民は全員離れていた。
「補助陣を作ります」
ティルシェは魔術師へ指示した。
作業は夜まで続いた。
最後の術式を固定したところで、足元が揺れた。
壁の一部が崩れる。
「ティルシェ!」
初めて名前で呼ばれた。
エルディナスが腕を引き、落ちてきた石から庇う。
二人とも床へ倒れた。
「怪我は?」
彼は自分の腕から血を流していた。
「あなたの方が怪我しているじゃない!」
「これくらいは大丈夫です」
「その言葉、嫌い」
ティルシェが言うと、エルディナスが動きを止めた。
「……すみません」
「大丈夫かどうかは私が見るわ」
傷は深くなかった。
布を巻き、止血する。
エルディナスは黙って任せていた。
「痛い?」
「少し」
「最初からそう言えばいいの」
「はい」
ティルシェは思わず笑った。
「素直ね」
「嫌だと言われたので」
こんな状況なのに、胸が温かくなった。
結界はその夜のうちに安定した。
塔を出たときには夜が明け始めていた。
エルディナスは疲れているはずなのに、ティルシェの歩調に合わせている。
「先に行っていいのよ」
「一緒に戻ります」
「私なら歩けるわ」
「知っています」
彼はそこで一度言葉を切った。
「できることと、一人でやらせていいことは別でしょう」
ティルシェは足を止めた。
「今、何て?」
「何か変でしたか」
「いいえ」
ティルシェは首を振った。
「何でもないわ」
けれど、その言葉を忘れなかった。
◇
王都へ戻ってからも、エルディナスとの交流は続いた。
手紙が増えた。
研究の話だけではなくなった。
『領地で今年最初の葡萄が採れました。以前、酸味が強いものが好きだとおっしゃっていたので送ってもよろしいですか』
『よろしいです。ただし一箱で十分です』
返事を書いた。
届いたのは本当に一箱だけだった。
以前のティルシェなら、それが普通だと思っただろう。
今は、約束通り一箱しか送らなかったことが少し嬉しい。
秋の終わり。
エルディナスが王都へ来た。
研究会のあと、王宮の庭を歩いた。
「一つ、お話があります」
彼が言った。
「研究?」
「違います」
いつもより緊張している。
「聞きます」
「私は、あなたを好いています」
ティルシェは立ち止まった。
エルディナスも止まる。
「いつから?」
「はっきり自覚したのは、西方へ来ていただいたころです」
「結界塔の前?」
「前です」
「では、どうして今まで言わなかったの?」
「あなたが自分の仕事と生活を立て直している最中に、私の気持ちまで背負わせたくなかったので」
「それだけ?」
「それに、急かしたくありませんでした」
ティルシェは彼を見た。
「返事は?」
「今はいりません」
「またそれね」
「何がですか」
「私の返事を待つ」
エルディナスは不思議そうだった。
「待つものでは?」
「そうね」
ティルシェは笑った。
「でも、今回は今答えるわ」
彼の表情が変わる。
「私も、あなたが好きです」
「……本当に?」
「なぜ疑うの?」
「予想より早かったので」
「有能なのに、そこは予想を外すのね」
エルディナスが珍しく言葉を失った。
ティルシェは楽しくなった。
「ただし、すぐ結婚の話はしないで」
「分かりました」
「もう考えていた?」
沈黙。
「考えていたのね」
「少し」
「どのくらい?」
「公爵邸のどの部屋をあなたの執務室にするか」
「かなり先まで考えているじゃない!」
「口にしなかったので許してください」
「勝手に部屋を決めないで」
「決めていません。候補を三つ考えただけです」
「それも早いわ」
ティルシェは笑った。
エルディナスも笑う。
恋愛とは、もっと苦しいものだと思っていた。
相手に合わせるもの。
我慢するもの。
自分が強ければ、相手を支え続けるもの。
違った。
言っていい。
嫌なら嫌だと。
嬉しければ嬉しいと。
まだ待ってほしいとも言える。
それを聞いてくれる人もいる。
◇
二人が交際を始めたことは、すぐに父王へ報告された。
エルディナスが自分で報告した。
「まだ結婚すると決めたわけではありません」
ティルシェが念を押すと、彼は頷いた。
「承知しています」
「なら、なぜそんなに緊張しているの?」
「陛下がこちらを睨んでいるので」
父は確かに睨んでいた。
「娘を泣かせたら許さんぞ」
「はい」
「ティルシェが嫌だと言ったことはするな」
「はい」
ティルシェは父を見た。
父も少し変わった。
「お父様がそれを言うの?」
「……反省している」
父は咳払いをした。
「だから言っている」
エルディナスは真面目に頷いた。
「承知しました」
その夜、母とセレフィナも交えて食事をした。
セレフィナは以前より落ち着いていた。
公務停止が解けたあと、今度は自分から地方の慈善院へ行くようになった。
帳簿も必ず確認する。
「お姉様」
食事のあと、妹が小声で言った。
「公爵令息、お姉様のこと見すぎじゃない?」
「そう?」
「さっきからずっとよ」
ティルシェが向かいを見る。
エルディナスと目が合った。
彼は逸らさなかった。
「見ていたでしょう」
「はい」
「なぜ?」
「好きなので」
セレフィナが吹き出した。
「すごい」
「何が?」
「ローディン様とは全然違う」
その名前が出ても、ティルシェの胸はもう動かなかった。
「比べなくていいわ」
「そうだね」
セレフィナは素直に頷いた。
◇
ローディンが王都へ戻ってきたのは、それから半年後だった。
実家の手続きのためらしい。
ティルシェは王宮の廊下で偶然会った。
以前の騎士服ではない。
地味な上着を着ていた。
「殿下」
ローディンが頭を下げる。
「久しぶりです」
「ええ」
通り過ぎようとすると、呼び止められた。
「少しだけ、お時間をいただけませんか」
ティルシェは時計を見た。
「十分なら」
「ありがとうございます」
中庭へ移動した。
ローディンはしばらく何も言わなかった。
「公爵令息と交際されていると聞きました」
「はい」
「結婚するのですか」
「まだ決めていません」
実際には、そろそろ考えてもいいと思っている。
それをローディンへ話す必要はない。
「私は」
ローディンが言った。
「ずっと、あなたなら大丈夫だと思っていました」
「そうですね」
「北方のことも。公務のことも。何があっても自分で解決できる人だと」
ティルシェは黙って聞いた。
「それが、あなたを放っておいていい理由にはならなかった」
以前の彼なら言わなかった言葉だった。
「今さらですが、分かりました」
「そうですか」
「謝っても、許してはもらえないでしょうか」
「謝罪は受け取ります」
ローディンが顔を上げた。
「では――」
「でも、元には戻りません」
彼の表情が止まる。
「私はあなたを恨んでいません。けれど、もう一度婚約したいとも思いません」
「私が変わっても?」
「変わったなら、それはあなたのこれからのために使ってください」
ローディンは何も言えなかった。
ティルシェは時計を見る。
「十分です」
「ティルシェ」
昔の呼び方だった。
「最後に一つだけ」
「何でしょう」
「私は、あなたを失ってから、どれだけ助けられていたか分かりました」
ティルシェは少し考えた。
「私はあなたを助けていたつもりはありません」
「え?」
「婚約者だから、一緒にやろうとしていただけです。でもあなたは、一緒にやる必要がないと思っていた」
ローディンは俯いた。
「そうですね」
「では、失礼します」
今度は呼び止められなかった。
廊下へ戻ると、少し先にエルディナスがいた。
「待っていたの?」
「会議が終わったので」
「いつから?」
「今来たところです」
「本当に?」
「半分くらいは」
ティルシェは笑った。
「聞いていた?」
「聞こうと思えば聞けましたが、離れていました」
「なぜ?」
「あなたが一人で話すと決めたように見えたので」
ティルシェは彼の隣へ並んだ。
「終わったわ」
「はい」
「何を話したか聞かないの?」
「話したければ聞きます」
「では、あとで話す」
「分かりました」
それで終わった。
ティルシェはその簡単さが好きだった。
◇
エルディナスが正式に求婚したのは、交際を始めて一年後だった。
場所は霜の谷だった。
二人で結界の定期点検に来ていた。
修復された祭壇の周辺には、小さな研究所が建っている。
夕方、仕事を終えて外へ出ると、山の雪が夕日に照らされていた。
「ティルシェ」
「何?」
「今日は仕事ではないお願いがあります」
「何かしら」
エルディナスは緊張していた。
ティルシェにはもう分かった。
「聞きます」
「私と結婚してください」
彼は指輪の箱を出した。
「あなたが王女だからでも、研究者だからでもありません。その全部を含めて、あなたと暮らしたい」
ティルシェは黙って聞いた。
「仕事は続けてください。王都へ行くのも北方へ来るのも止めません。公爵家の仕事については、できることを相談したいです。私が勝手に決めたら怒ってください」
「もう怒ったことがあるでしょう」
「何度か」
「学習した?」
「かなり」
「本当に?」
「最近は視察の日程を組む前にも、必ずあなたの希望を確認しています」
ティルシェは笑った。
「そうね」
「返事を急かすつもりは――」
「はい」
エルディナスが止まった。
「今、何と?」
「結婚します」
「……もう一度言ってもらえますか」
「嫌です」
「なぜ」
「一度で聞いて」
「聞きました。ただ、確認を」
「私の返事を疑うの?」
「そう言われると困ります」
彼は珍しく慌てた。
ティルシェは手を差し出す。
「指輪を」
「はい」
指輪はぴったりだった。
「サイズ、いつ測ったの?」
「以前、手袋を贈っていいか聞いたときに」
「そのためだったの?」
「半分は」
「用意がいいわね」
「一年待ちましたから」
エルディナスはティルシェの手を包んだ。
強く握らない。
「これからも一つだけ、約束して」
「何でも」
「私ができるからという理由で、私に全部やらせないで」
彼はすぐに答えた。
「もちろんです」
「あなたもね。自分ができるからって、一人で全部やらないで」
今度は少し間があった。
「努力します」
「そこは即答じゃないの?」
「守れない約束はしたくないので」
「正直ね」
「あなたに教わりました」
ティルシェは笑った。
◇
結婚式は翌年の春に行われた。
セレフィナは花嫁の支度を手伝った。
「お姉様、髪飾りはこっちの方がいいと思う」
「重くない?」
「少し重い」
「なら軽い方」
「即決ね」
「一日つけるのは私だもの」
セレフィナが笑った。
「昔のお姉様なら、私がこっちがいいって言ったら選んでくれたかも」
「そうかもしれないわね」
「ごめん」
「今のは謝らなくていいの」
「難しい」
「少しずつでいいでしょう」
妹との関係は、以前とは違う。
何でも話す姉妹ではない。
毎日一緒にいるわけでもない。
それでも、今の方が楽だった。
互いの境界がある。
嫌なら嫌と言える。
助けてほしければ頼む。
断られても、相手を責めない。
母も控室へ来た。
「きれいよ、ティルシェ」
「ありがとうございます」
「幸せになってね」
「なります」
母は少し驚き、それから笑った。
「そうね。あなたなら自分で決めるわね」
「はい」
今度の「あなたなら」は嫌ではなかった。
何をしても大丈夫だという意味ではない。
自分の人生を選べると認められた言葉だった。
祭壇の前ではエルディナスが待っていた。
ティルシェが隣へ立つ。
「綺麗です」
「ありがとう」
「本当に」
「一度で聞こえたわ」
「一度では足りません」
「今日はよく喋るのね」
「緊張しています」
「あなたが?」
「かなり」
司祭が咳払いをする。
二人は黙った。
誓約の言葉を交わす。
ティルシェは自分の意思で「はい」と答えた。
誰かに頼まれたからではない。
王女だからでもない。
姉だからでもない。
自分で選んだ。
祝宴が始まると、エルディナスは本当にティルシェのそばを離れなかった。
「少し近すぎない?」
「夫なので」
「昨日までと何が違うの?」
「正式に夫です」
「それを理由に何でも許されると思わないでね」
「もちろんです」
返事だけは早い。
「疲れていませんか」
「まだ大丈夫」
「食事は?」
「食べたわ」
「水は?」
「飲んだ」
「靴は痛くないですか」
「エルディナス」
「はい」
「過保護」
「知っています」
「少し減らして」
「努力します」
「またそれ?」
「ゼロにはできないので」
ティルシェは呆れて笑った。
少し離れたところでは、セレフィナが外国使節と話している。
言葉を一度間違えた。
顔を赤くしたが、自分で言い直した。
誰かの方を見て助けを求めることはなかった。
父と母もそれを見ている。
ローディンはこの場にはいない。
爵位継承権も騎士の地位も失い、遠い領地で働いている。
彼がどう暮らしているのか、ティルシェは詳しく知らない。
知ろうとも思わなかった。
彼が失ったものは大きい。
婚約。
将来の爵位。
騎士としての立場。
王都で築いていた信用。
だが、それはティルシェが奪ったものではない。
自分で確認せず、自分に都合のいいことだけを信じ、責任を誰かへ任せ続けた結果だった。
ティルシェはもう、彼の後始末をしない。
「ティルシェ」
エルディナスに呼ばれ、振り向く。
「踊りませんか」
「一曲だけ」
「二曲」
「一曲」
「一曲踊って、休んでからもう一曲」
「それなら考える」
「ありがとうございます」
差し出された手を取る。
音楽が始まった。
ティルシェは長い間、強いと言われてきた。
何でもできる。
一人で大丈夫。
だから助けなくていい。
だから我慢できる。
そんな意味で使われる「強い」が嫌いだった。
本当に強いというのは、何でも一人で背負うことではない。
嫌なことを嫌だと言うこと。
助けてほしいときに助けを求めること。
できても、やりたくないなら断ること。
そして、自分の選択を他人に渡さないこと。
それを知るまで、ずいぶん時間がかかった。
「何を考えているのですか」
踊りながらエルディナスが尋ねる。
「昔のこと」
「嫌なことですか」
「少し。でも、もう大丈夫」
言ってから、ティルシェは笑った。
「今の大丈夫は、本当よ」
「では信じます」
「簡単ね」
「あなたがそう言ったので」
それでいい。
ティルシェは彼の手を握る。
これから先、困ることはきっとある。
意見が合わない日もある。
エルディナスの過保護に腹を立てることもあるだろう。
それでも、そのたびに話せばいい。
勝手に決めず、勝手に諦めず、相手の返事を聞けばいい。
春の光が広間へ差し込んでいる。
ティルシェは誰かの身代わりではない。
便利な第一王女でもない。
何をされても大丈夫な強い女でもない。
ティルシェはティルシェだった。
そして、その自分を選んだ男と、これからの人生を歩いていく。
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