白猫は最後に笑う
――終わりよければすべてよし、なんて、誰かが言ってたっけ。
『白猫は最後に笑う』/未来屋 環
――がたん
車体が大きく揺れ、はっと微睡みから醒める。
手からこぼれ落ちそうになったスマホを慌てて握り直し、僕はほっと息を吐いた。
電車とはこんなにも揺れるものだっただろうか――思い返せば福岡に転勤してきてから、乗るものといえば地下鉄かバスくらいだ。
長距離移動をするのも随分と久し振りだった。
ふと前方に視線を移すと、そこには珍しい『乗客』が座っている。
彼か彼女か一見してわからないその『乗客』は、ぴんと背を伸ばしこちらを見つめていた。
僕の背後から射す陽の光を、紫色の瞳がきらりと跳ね返す。
その輝きに思わず見惚れていると、『乗客』はおもむろに口を開き――透き通った声を発した。
「にゃあ」
通勤通学が或る程度落ち着いた時間とはいえ、何故かこの車両には『乗客』と僕しかいない。
元は白かったであろうその全身は土か埃で薄汚れており、まだらな灰色に沈んでいる。
――あぁ、『みく』は元気だろうか。
実家に置いてきた『彼女』のことを思い出しながら、僕は自然と手を差し出していた。
『乗客』はぴくり、としっぽを揺らしたあと、逡巡してから床にとっ、と軽やかに降り立つ。
そして僕が差し出した手にゆっくり近付いたあと――すり、と掌に頭をこすりつけた。
ふわりとした毛の感触とほのかな熱が、冷えきった僕の心をじわりとあたためる。
僕はそのまま『乗客』の頭を優しく撫で、相手もされるがままでいた。
『――間もなく門司、門司です』
響いた車内アナウンスで我に返る。
このままこの電車に乗っていていいのだろうか。
そんなことを考えていたら、下半身に尿意が忍び寄ってきた。
――仕方ない、ひとまず次で降りよう。
僕は名残惜しさを感じつつ『乗客』から手を放し、通勤リュックを抱え直して立ち上がる。
そのままドアの方に向かうと背後から「にゃあ」と声がした。
振り返ると『乗客』が僕のあとをついてきている。
もしかして一緒に降りるつもりだろうか。
まぁ彼もしくは彼女が電車に乗っていること自体イレギュラーなのだから、仮に降りたところで問題はないだろう。
結果、僕たちは揃って門司駅で電車を降りた。
『乗客』を置いて早足でトイレへ向かい、用を足し一息つく。
控えめな水流で手を洗いながらこのあとのことを考えると、また足が重くなった。
――僕はどこに行けばいいのだろう。
ため息交じりにトイレから出た僕を、もはや聴き慣れた「にゃあ」という声が迎える。
そこにはまさかというべきかやはりというべきか、白く小さな『乗客』が僕を待っていた。
その姿を認めたところで僕の腹がぐうと鳴る。
思い返せば昨日の昼から何も食べていなかった。
「……腹減った」
ぽつりと呟き、うなだれる。
すると、少し間を空けて声が返ってきた。
「……ニャーもにゃ」
「そうか、それは奇遇だね」
そう答えてから、ふと違和感を覚える。
おもむろに顔を上げると『乗客』がこちらを見つめていた。
「――あれ?」
周囲を見回しても僕たち以外に誰もいない。
幻聴を疑いかけたその時、改めて「ニャーもおなか空いたにゃ」とはっきりした台詞が耳に飛び込んでくる。
恐る恐る前方に視線を向けると――その猫だったはずの『乗客』は、いつの間にか一人の人間になっていた。
***
その白猫……じゃない、少女は『たま』と名乗った。
猫が人間に変身する――まるでファンタジーのような出来事を目の当たりにしつつ、僕は随分とオーソドックスな名前だなとぼんやり思う。
そんな僕の心の裡を知ってか知らずか、たまは少しだけ口を尖らせて「なんにゃ、なんか文句あるにゃ?」と猫らしい語尾で追い打ちをかけてきた。
人間になったたまは小学生くらいの少女だ。
元々白猫だった時の容貌を引き継いでいるのか、肌は白く瞳は紫色に染まっている。
ちなみに猫耳はなく、肩まで伸びた白い髪の隙間から人間と同じ耳が覗いていた。
そして、たまは人間ー猫間の変身を難なくこなせるようだ。
どうやら猫の状態で電車に乗ったため、人間の姿だと改札機で足止めを食らうことに気付いたらしい。
すると、彼女はさっさと猫に戻り改札を我が物顔で通り抜け、そして暫く歩いたところでまた人間へと変身した。
JR九州からすればたまった話ではないが、随分と便利なことだ。
「――それで、たまはなんで電車に乗ってたの?」
驚きがキャパシティを突破してしまった僕は、自分でも不思議なくらい冷静に問う。
たまは何故人間になれるのか、そもそも一体何者なのかを訊いた方がよかったのかも知れないけれど、それを知ったところで僕に何ができるわけでもない。
たまはうつむき少しの間黙っていたが、やがて観念したように声を洩らした。
「……逃げてきたのにゃ」
ぽろりとこぼれたその台詞に、僕の心がじくりと疼く。
せっかく内情を吐露したというのに、それに何も応えない僕に痺れを切らしたのか、たまが不思議そうに顔を上げた。
「――ヒロキは? なんで電車に乗ってたにゃ?」
覚えたての僕の名前を小さな口唇が紡ぐ。
それに呼応するように、僕の口も素直な言葉を吐いた。
「……僕も、逃げてきた」
入社してから丸4年が経ち、生まれ育った東京から初めての転勤が決まった。
同期の中には地方の支店に行ったメンバーもおり、博多行きの僕は随分羨ましがられたものだ。
確かに街は煌びやかで食べものもおいしく、大都市でありながら週末には観光だってできる――生活をする上では最高の場所だろう。
しかし、街の住みやすさと仕事のやりやすさは必ずしも比例しない。
東京にいた時は上手くやれていた――いや、たまたま上手くいっていただけなのかも知れない。
特別目立った存在ではなかったけれど、そこまで自分の出来が悪いとは当時は思っていなかった。
――それが、ここに来てからやることなすことまったく上手くいかない。
東京では既存顧客への営業を担当していたため、先輩に教わった通りこなしていれば大火傷せずに済んだ。
しかし、この支店で僕が任されたのは新規開拓がメイン、加えて既存顧客の一部も担当することになった。
営業員の数が限られているからか上司も先輩も大体出払っていて、着任初日以外あまり会話をした覚えがない。
勝手のわからない土地での慣れない仕事はなかなかにストレスで、加えて既存顧客と関係性を築くのにもてこずった。
「なんや、あんた東京から来たとか」
先方窓口の課長が鼻白んだ笑いを見せながら方言を放つ。
僕は一生懸命笑顔を作り、彼の機嫌を取ろうと努力した。
しかし必死で投げかける標準語はことごとく不発となり、行き場を見失っては空気中へと溶けていく。
結果的に60分取っていた打合せは「悪かね、今日忙しゅうて」と10分で切り上げられた。
――今思えば僕の手に負えないとわかった時点で、外出する上司を引き留め相談すべきだった。
それなのに、忙しい稼ぎ頭たちの足をこれ以上引っ張れないと変な遠慮をしてしまった。
……いや、それは単なる言い訳だ。
曲がりなりにも入社して4年間、東京で営業担当者をしていたという無意味な自負が僕の中に燻っていたのだ。
僕だって頑張ればできる――そんな何の根拠もない自信に縋り付いて孤軍奮闘を繰り広げた結果、僕は既存顧客の案件を失注した。
そんなどうしようもない僕に、支店の上司や先輩たちは優しかった。
迷惑をかけただけでなく気まで遣わせてしまった自分の無能さに腹が立つ。
飲みの誘いを断り一人帰った僕は、食事も取らずシャワーも浴びないまま眠りに就き――そして今朝を迎えた。
最低限の身だしなみだけ整え家を出て数分、習慣というのは恐ろしいもので、気付けば地下鉄の駅に着いている。
そのまま会社に向かう地下鉄に乗ろうとして――僕の足は止まった。
「――それで、ここまで来たにゃん?」
目の前でたまが首を傾げる。
僕はその紫色の瞳を見つめながらこくりと頷いた。
会社と反対方向の電車を乗り継ぎ博多駅に到着した僕は、更に会社から離れようと早足で駅構内を歩いた。
上司には体調不良で今週いっぱい休みたい旨、ショートメッセージを入れてある。
――ただ、僕がいなくて困ることなんて、きっとないけれど。
そして衝動的に新幹線の改札を通ろうとして、ふと逡巡した。
単純にお金を節約したかったというのもある。
しかし、それ以上に新幹線に乗る気になれなかったのだ。
旅行先へ向かう楽しそうな家族連れや、限られた移動時間でさえ忙しそうにPCと睨めっこをするビジネスマンと同じ空気を吸っていいのか、そもそも逃げ出した僕に新幹線に乗る資格なんてあるのか――そんなことをぐるぐる考えている内に、気付けば在来線の改札を通り抜けていた。
そのまま来た電車に乗り、長い時間うつらうつらしていたところで、猫の姿をしたたまに出逢ったというわけだ。
「ふぅん……人間って大変だにゃあ。ニャーがいたお弁当屋さんにもヒロキみたいに元気のないお客さんがいたにゃ」
「へぇ、君はお弁当屋さんの子だったんだね」
たまは目の前の水をこくこくと飲んだあと、直前の僕の言葉に答えるように「にゃあ」と鳴いた。
住み慣れたお弁当屋を離れ旅に出た、白猫に変身できる女の子――そんな彼女がここまで来るには、きっと様々な事情があるのだろう。
たとえばその珍しさからスパイ組織に追われているとか、同じような魔法を使える存在に命を狙われているとか――そこまで想像したところで、あまり深追いをするのはよそうと思い直す。
今の僕には、彼女の事情を受け止められるだけの余裕なんてないからだ。
「それで、どこまで逃げるの?」
「……わからにゃい。でも、行けるところまで行こうと思ってるにゃ――ヒロキは?」
返す刀を突き付けられ、僕は一瞬言葉に詰まり――そして彼女と同じく「……わからない」と答えた。
しかし、たまの「わからない」と僕の「わからない」には大きな差がある。
目的意識のあるたまに対し、僕は本当にどうすればいいかが「わからない」のだ。
自分の情けなさに肩を落とす僕に、たまが何か言おうと口を開いた――その時だった。
「お待たせしました、ごぼう天うどんです」
明るい声が鼓膜を揺らし、僕たちの前にごとりと丼が置かれる。
瞬間、だしの香りが鼻をくすぐり、僕たちのおなかはぐぅ、と共鳴した。
ごぼう天うどんは九州ではオーソドックスで、僕も何度か食べたことがある。
柔らかくコシのないうどんに最初は驚いたけれど、東京のうどんチェーンとは違った味わいにも慣れてきた。
この店のうどんは見た目もほっそりしており、その上でかまぼことねぎ、そしてごぼうの天ぷらがおいしそうな湯気を上げている。
「……いただきますにゃ」
たまのその言葉が合図となり、僕たちは目の前のごぼう天うどんを食べ始めた。
最初にだしを一口啜る。
何がベースかなんてわからないけれど、間違いなくほっとする味わいに僕は小さく息を吐いた。
ごぼう天から沁み出した油のお蔭でよりおいしくなっているような、そんな気がする。
そしてうどんは想像通りの柔らかさだった。
歯を立てるとゆるゆると口の中でほどけていく。
透き通った色のひかえめなだしにぴったりの優しいうどんだ。
メインのごぼう天を箸で持ち上げると、だしを十分に吸って重みがある。
思い切って一口、がじりと噛むとじゅわりとだしがあふれた。
東京にいた時は食べ慣れなかったごぼう天だけれど、この独特のえぐみが今は癖になっている。
ふと目の前のたまを見ると、彼女は一生懸命うどんにふうふうと息を吹きかけていた。
人間になっても猫舌なのは変わらないのだろうか。
おなかが少し満たされて余裕ができたのか、僕は思わずふっと笑ってしまう。
――すると、たまがこちらを見て、少しだけ口角を上げた。
「……ヒロキ、やっと笑ったにゃ」
「――え?」
ようやく満足のいく温度になったのか、たまがつるつるとうどんを食べ始める。
一生懸命もぐもぐ口を動かし、ひと段落したところで口を開いた。
「別に逃げたっていいんだにゃ。猫だって人間だって、逃げにゃいと生き残れにゃい――ニャーはそう思うにゃ」
ふうふう、つるつる
「逃げて逃げて、安全な所に行って、そこで初めてそのあとどうするか考えるのにゃ。ニャーはそのつもりにゃ」
ふう、つるつる、ずずず
「だからヒロキも逃げるにゃ――途中何があったとしても、最後に笑ってればニャーたちの勝ちだにゃ」
そこまで言い切ったあとで、ぷは、とたまがだしを飲み干す。
そしてまっすぐな眼差しで僕を射抜いた。
その視線と言葉に、僕は雷に打たれたような思いで佇むしかない。
目の前の年端も行かぬ少女が、僕にはたまらなく大人に思えた。
「――そうか……そうだね」
ぽろりと洩れた僕の言葉を、たまが得意顔で受け止める。
そしてすぐに「ほら、うどん伸びるにゃ」と急かすので、僕はもう一度笑ってからうどんを食べた。
ずるる、もぐもぐ
からっぽだったはずの僕の中があたたかさで満たされていく。
夢中で食べて、たまと同じくだしまで飲み干した。
ぷは、と丼を顔から離した時、目の前のたまの笑顔に気付く。
――僕の脳裡を『みく』の姿が過る。
白地にまだらな茶色模様の彼女は、こちらが何をしていてもお構いなしにすり寄ってはおやつをねだり、だけど僕が落ち込んでいる時はそっと傍にいてくれて――そんなみくに、僕はもうどれだけ逢っていないだろう。
「……決めた。僕、一度実家に戻るよ」
僕のその宣言に、たまが頷いた。
「行き先が決まってよかったにゃ――じゃあ、ニャーはもう行くにゃ」
「うん、色々ありがとう。道中気を付けて」
たまは「ヒロキもにゃ」と言って、そのまましゅっ、と姿を消す。
足元に視線を落とすと、少しだけ肌艶がよくなった白猫が僕の横をすり抜け店を出て行った。
左右に揺れるしっぽは小さいながらに堂々としていて、まるで勇者の背中のようなそれを僕はただ見送ることしかできない。
――その時、ポケットに忍ばせていた社用携帯が震えた。
取り出してみると、上司から返信が来ている。
少し気が重くなりながら画面をタップすると、白く光る画面上にシンプルな文字が躍った。
『おう、ゆっくり休んだら来週飯行こう――みんな待っとるけん』
――その言葉は、取引先で聞いたものと同じ言語とは思えないほどあたたかい。
なんだか目頭が熱くなり、僕は慌てて手元の水を一気に飲み干した。
はあ、と息を吐き、見上げた天井は所々黒くなっている。
そう、それはまるでさっきまでいた彼女のように。
「――行くか」
僕は立ち上がり、店を出た。
このまま電車に乗って宇部まで行ったら、飛行機で東京に戻ろう。
そして、久々にみくの頭をたくさん撫でるのだ。
偶然出逢えた白猫の笑顔を思い出しながら、僕は駅へと一歩足を踏み出した。
(了)
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
本作はいでっち51号さんの連載作品『DROP OUT』のスピンオフ作品として書かせていただいたものです。
女の子に変身できる白猫 たまが、北九州から広島まで逃避行をするシーンから着想を得てこのような作品になりました。
つらい時は無理しすぎず逃げたっていいのです(`・ω・´)
ちなみに門司駅の前のうどん屋さんは実在しますが、私は行ったことがなく……。
作品には出てきませんでしたがこのお店は天ぷらうどんがユニークみたいなので、いつか食べに行ってみたいです✨
以上、あとがきまでお読みくださりありがとうございました。




