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来ないで下さいと言ったでしょう?

作者: はてな小僧
掲載日:2026/08/12

夕食までには終えるつもりだった。


机の上には、まだ目を通していない書類が残っている。


午後から始めた仕事も、あと少しだった。手元の一枚を読み終え、必要な箇所へ印をつけて右側へ移す。


次の書類へ手を伸ばしたところで、扉を叩く音がした。


来客の予定はない。


返事をする前に、もう一度鳴る。


彼女は書類から手を離し、扉へ向かった。


開けた先に立っていた男を見て、眉を寄せる。


「今日は来ないでくださいと言ったでしょう?」


「言われたよ」


仕事を終えて、そのまま来たのだろう。朝に見たときよりも服装が少し崩れている。


「では、どうしていらしたのです?」


「君と離れているのが辛かったんだ」


「朝にお別れしたばかりでしょう」


「俺には長かった」


彼が彼女の手を取った。


外にいたせいか、指先が冷えている。


「入れてくれない?」


今日は仕事を片づけたいから来ないでほしいと、朝にも伝えてある。彼も分かったと言っていた。


それでも目の前にいる。


彼女は握られていた手を外し、扉から離れた。


「邪魔をしないでくださいね」


彼は中へ入ると、机の上を見た。


「まだかかりそう?」


「あなたが邪魔をしなければ、それほどは」


「邪魔しないよ」


彼女は一度だけ彼を見て、机へ戻った。


「約束するって」


返事はせず、書類を手に取る。


彼も少し離れたところに腰を下ろした。


しばらくは何も聞こえなかった。


一枚を読み終え、次へ移る。


途中まで確認したところで顔を上げると、彼と目が合った。


逸らす様子がない。


「……何ですか?」


「何も」


「先ほどから見ていませんでした?」


「見てた」


彼女は書類へ目を戻したものの、数行読んだところでまた顔を上げた。


やはり見ている。


「そんなに見られていると仕事ができません」


「じゃあ、見ない」


彼はようやく別の方向を向いた。


今度は順調に進み、一枚を終えて次の書類を取る。


紙をめくったところで、机の端に置いていた左手へ指が触れた。


いつの間に移動したのか、彼がすぐ隣にいる。


指先が重なり、そのまま手を取られた。


「見ないとは言ったけど、触らないとは言ってない」


彼女は返事をせず、右手だけで書類をめくった。


彼の指が彼女の指の間へ入り、そのまま絡む。


右手でペンを取り、必要な箇所へ書き込んだものの、次の紙へ移ろうとして手が止まった。


「これでは仕事ができません」


「片手でもできてたよ」


彼女は絡んだ手を一度持ち上げて見せた。


「やりにくいです」


それでも彼は手を離さない。


彼女も強く引こうとはせず、そのまま片手で書類を揃えようとして紙の端をずらした。


「少しだけですよ」


「何が?」


答える代わりに、絡んでいた指を握り返した。


彼がこちらを見る。


先ほどまで向けられていた視線を、今度は彼女も避けなかった。


やがて彼が手を持ち上げ、その甲へ唇を触れさせる。一度だけでは終わらず、指先にも触れた。


「少しだけと言いました」


彼女は空いている手で彼の頬を押し返した。


ようやく指が解かれる。


「今度こそ仕事をします」


彼は笑いながら元の場所へ戻った。


彼女も書類へ向き直る。


一枚、もう一枚と進めていく。


今度は本当に邪魔をされない。


ふと顔を上げると、彼は窓の外を見ている。


もう一度書類へ戻り、少し進めてからまた顔を上げた。


まだ外を見ている。


「……何を見ているのです?」


「外」


「それは分かります」


「見ないでって言われたから」


自分で言ったのだから文句は言えない。


書類を一枚読み終え、右側へ置く。


次を取る前に立ち上がった。


彼の隣まで行くと、彼が振り返る。


「終わった?」


「まだです」


彼女は何も答えず、その隣へ腰を下ろした。


肩が触れる。


彼がこちらを見る。


今度は何も言わなかった。


しばらくそのまま外を眺める。


午後の光はすでに傾き始めていた。


「仕事、いいの?」


「あなたがこちらを見ないからでしょう」


彼が笑う。


「見ないでって言ったのは君だけど」


彼女は聞き流した。


肩に腕が回り、そのまま引き寄せられる。


「……少しだけです」


今度は彼女も時間を確かめなかった。


やがて机の上に残した書類が目に入り、自分から身体を起こす。


「戻ります。次こそ本当に邪魔をしないでくださいね」


「さっきから邪魔してるの、俺だけじゃないと思うけど」


聞かなかったことにして席へ戻った。


それからは二人とも何も言わなかった。


彼は時折こちらを見ていたが、彼女も止めない。


仕事は少しずつ進み、机の上に残る書類も減っていった。


これなら何とか終えられるかもしれない。


そう思った頃、部屋の外から声が掛かった。


彼女は手を止め、時計を見る。


夕食の時間を過ぎている。


食事に来ない彼女を案じて、様子を確かめに来たらしい。


机の上には、まだ数枚残っていた。


「お食事はとられたのですか?」


「まだ」


「でしたら、先に召し上がってください。私はもう少し続けます」


「君と食べたい」


彼は立ち上がると扉を開け、外で待っていた者に二人分の食事をここへ運ぶよう頼んだ。


彼女は止めず、机の上の書類を片側へ寄せる。


しばらくして食事が運ばれてきた。


皿が並べられる間、彼女は残っている書類へ目をやる。


「仕事のこと考えてる?」


「見ただけです」


向かいに座り、食事を始める。


彼女はいつもより早いペースで口へ運んだ。


しばらくすると、彼が手を止めた。


「そんなに急いで食べたら、身体に悪いよ」


「まだ仕事が残っていますから」


「ゆっくり食べなよ」


「あなたがいらっしゃらなければ、もう終わっていたと思います」


「それはごめん」


素直に謝られると、それ以上は言えなかった。


少しして、彼が今日あったことを話し始める。


彼女も自分のことを話し、話が途切れれば、またどちらかが口を開いた。


いつの間にか食べる速さも元に戻っていた。


彼の皿から彼女の好物が移される。


代わりに、自分の皿から彼の好きなものを一つ渡した。


「ありがとう」


「どういたしまして」


食器が片づけられてから時計を見て、彼女はすぐに机へ戻った。


「まだやるの?」


「今日終えるつもりで始めたのですから、できるところまではやります」


彼は止めず、先ほどまで座っていた場所へ戻った。


彼女は残っている書類を手に取る。


食事の前まで確認していたものを終え、次へ移った。


今度こそ彼は何もしない。


彼女が顔を上げれば目が合うことはあったが、それだけだった。


一枚ずつ確認し、残りが少なくなったところで時計を見る。


もう少し続ければすべて終わるかもしれない。


それでも、今日はここまでにすることにした。


ペンを置き、残った書類をまとめる。


「……終わりにします」


「全部終わった?」


「いいえ。残りは明日にします」


彼女が机の上を片づけている間に、彼も近くまで来た。


すべてをしまい終えて振り返ると、すぐ目の前にいる。


頬へ触れた手を取り、彼女はそのまま握った。


「明日こそ来ないでくださいね。今日終わらなかった分が残っていますから」


「邪魔してるつもりはないんだけどな」


彼女は何も言わず、彼を見る。


「……約束はできない」


「どうしてです?」


「明日になったら、また君に会いたくなると思うから」


彼女はその手を離さなかった。


「……明日こそ、来ないでくださいね」


最後まで、彼は分かったとは言わなかった。




扉を開けると、廊下の向こうから小さな足音が近づいてきた。


「お父様!」


駆けてきた娘を、男はその場で受け止めた。


「ただいま」


「遅かったです」


「ごめん」


娘は父親の首へ腕を回したまま、後ろを覗き込んだ。


「お母様は?」


「もう来るよ。ほら、見てごらん。明かりが消えてるだろ?」


男が窓の外を示す。


娘もそちらを見た。


「ほんとだ」


「もうすぐ来るよ」


娘は父親の首へ腕を回したまま、今日あったことを話し始めた。


少し遅れてやってきた息子も父親へ飛びつく。


「おそかった」


「ごめん」


「ごはん、おわった」


「ちゃんと食べた?」


「たべた!」


「お野菜も?」


息子が黙る。


娘が父親の耳元へ顔を寄せた。


「残してたよ」


「お姉ちゃん!」


男が笑ったところで、娘が顔を上げた。


「あ、お母様!」


父親の腕から降り、入ってきた人物へ駆けていく。


「おかえりなさい!」


「ただいま」


娘を抱き留めたのは、先ほどまで男と同じ部屋で食事をしていた彼女だった。


「お母様も遅かったです」


「ごめんなさいね」


息子も父親の腕から降り、母親のもとへ走っていく。


彼女は二人を順番に抱き締めた。


「お利口にしていましたか?」


「「うん!」」


「今日はお父様もお母様もお仕事が大変だったの?」


父親はそっと顔を背けた。


「私は、予定していた分が終わらなかったのです」


娘は納得したように頷くと、すぐに父親の手を引いた。


「お父様、来て。見せたいものがあるの」


息子も負けじと反対側の手を取る。


「ぼくも!」


「分かったから、引っ張らないで」


二人に連れていかれた先には、午前中に母親と作ったという積み木が残されていた。


娘が自分で作った場所を説明し、息子も隣から別の場所を指す。


「お父様も作って」


「いいよ」


二人はそれぞれ積み木を持って父親の両隣へ座った。


彼女も少し離れたところへ腰を下ろす。


三人は空いている場所へ新しいものを作り始め、途中から彼女も呼ばれて四人で積み木を囲んだ。


そのあとは今日あったことを聞いたり、子どもたちにせがまれた父親が絵本を読んだりして過ごした。


一冊を読み終える頃には、息子は父親の膝へ身体を預け、娘も何度か目をこすっていた。


「そろそろ寝る時間ですよ」


「もう一冊」


「続きは明日にしましょう」


「短いの」


「明日、お父様に読んでもらったら?」


娘は父親を見る。


「読んでくれる?」


「もちろん」


それで納得した娘と、すでに眠りかけている息子を連れて子どもたちの部屋へ向かった。


息子を寝台へ寝かせ、娘にも布団を掛ける。


「おやすみなさい、お父様。お母様」


「おやすみ」


「おやすみなさい」


二人が眠ったのを確かめ、部屋を出た。


並んで廊下を歩き始めて間もなく、彼が彼女の手を取る。


彼女はつながれた手を見たが、何も言わなかった。


そのまま二人の部屋まで歩く。


扉が閉じた途端、背後から腕が回ってきた。


「……今度は何です?」


「抱きしめたかった」


彼女は腹の前で重なった腕へ手を置いた。


「ずいぶん一緒にいたでしょう?」


「仕事中だった」


「お食事も一緒にとりました」


「二人きりじゃなかった」


彼女は少しだけ顔を横へ向ける。


「それで足りないと?」


返事の代わりに、首元へ顔を寄せられた。


彼女はそのまましばらく抱かれていた。


「朝から何も変わっていませんね」


「変われないよ」


「何がです?」


「君と離れたくないと思うのは」


彼女は身体の向きを変え、彼と向かい合った。


腕はまだ腰へ回っている。


「それで仕事をしているところまでいらしたのですか?」


「そう」


「おかげで予定していた分が終わりませんでした」


「ごめん」


謝りながら離れようとはしない。


彼女は彼の胸へ手を置いた。


「明日も午後から仕事をします。午前中は子どもたちと過ごすつもりです」


「俺もいたい」


「あなたはお仕事でしょう?」


「早く終わらせる」


「仕事を疎かにしてまで早く帰ってこないでくださいね」


「ちゃんと終わらせるよ」


「それなら結構です。それから、明日こそ離れには来ないでくださいね」


彼が黙る。


「お返事は?」


「約束はできない」


「いつも同じことをおっしゃっていますね」


「明日になったら、また会いたくなると思うから」


「仕事が終わらなくなるのです」


「邪魔しないよ」


彼女は胸元に置いていた手で、そのまま軽く押した。


「それも今日聞きました」


けれど、彼の腕は腰から離れない。


「明日は来ないでください」


「努力する」


「来ないとはおっしゃらないのですね」


「嘘はつきたくないから」


彼女はしばらく彼を見たあと、胸元に置いていた手から力を抜いた。


彼がその手を取り、指を絡める。


「……明日こそ、離れには来ないでくださいね」


最後まで、彼は分かったとは言わなかった。




夕食までには終えるつもりだった。


机の上には、まだ目を通していない書類が残っている。


午後から始めた仕事も、あと少しだった。手元の一枚を読み終え、必要な箇所へ印をつけて右側へ移す。


次の書類へ手を伸ばしたところで、扉を叩く音がした。


来客の予定はない。


返事をする前に、もう一度鳴る。


彼女は書類から手を離し、扉へ向かった。


開けた先に立っていた男を見て、眉を寄せる。


「今日は来ないでくださいと言ったでしょう?」


――エンドレス。


本邸の夕食が17:30ごろで、彼女は「夕食までには仕事を終えるつもり」だったけれど終わらず、使用人が様子を見に来る。その後、離れで二人が18時ごろから食事をする――という想定。

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