来ないで下さいと言ったでしょう?
夕食までには終えるつもりだった。
机の上には、まだ目を通していない書類が残っている。
午後から始めた仕事も、あと少しだった。手元の一枚を読み終え、必要な箇所へ印をつけて右側へ移す。
次の書類へ手を伸ばしたところで、扉を叩く音がした。
来客の予定はない。
返事をする前に、もう一度鳴る。
彼女は書類から手を離し、扉へ向かった。
開けた先に立っていた男を見て、眉を寄せる。
「今日は来ないでくださいと言ったでしょう?」
「言われたよ」
仕事を終えて、そのまま来たのだろう。朝に見たときよりも服装が少し崩れている。
「では、どうしていらしたのです?」
「君と離れているのが辛かったんだ」
「朝にお別れしたばかりでしょう」
「俺には長かった」
彼が彼女の手を取った。
外にいたせいか、指先が冷えている。
「入れてくれない?」
今日は仕事を片づけたいから来ないでほしいと、朝にも伝えてある。彼も分かったと言っていた。
それでも目の前にいる。
彼女は握られていた手を外し、扉から離れた。
「邪魔をしないでくださいね」
彼は中へ入ると、机の上を見た。
「まだかかりそう?」
「あなたが邪魔をしなければ、それほどは」
「邪魔しないよ」
彼女は一度だけ彼を見て、机へ戻った。
「約束するって」
返事はせず、書類を手に取る。
彼も少し離れたところに腰を下ろした。
しばらくは何も聞こえなかった。
一枚を読み終え、次へ移る。
途中まで確認したところで顔を上げると、彼と目が合った。
逸らす様子がない。
「……何ですか?」
「何も」
「先ほどから見ていませんでした?」
「見てた」
彼女は書類へ目を戻したものの、数行読んだところでまた顔を上げた。
やはり見ている。
「そんなに見られていると仕事ができません」
「じゃあ、見ない」
彼はようやく別の方向を向いた。
今度は順調に進み、一枚を終えて次の書類を取る。
紙をめくったところで、机の端に置いていた左手へ指が触れた。
いつの間に移動したのか、彼がすぐ隣にいる。
指先が重なり、そのまま手を取られた。
「見ないとは言ったけど、触らないとは言ってない」
彼女は返事をせず、右手だけで書類をめくった。
彼の指が彼女の指の間へ入り、そのまま絡む。
右手でペンを取り、必要な箇所へ書き込んだものの、次の紙へ移ろうとして手が止まった。
「これでは仕事ができません」
「片手でもできてたよ」
彼女は絡んだ手を一度持ち上げて見せた。
「やりにくいです」
それでも彼は手を離さない。
彼女も強く引こうとはせず、そのまま片手で書類を揃えようとして紙の端をずらした。
「少しだけですよ」
「何が?」
答える代わりに、絡んでいた指を握り返した。
彼がこちらを見る。
先ほどまで向けられていた視線を、今度は彼女も避けなかった。
やがて彼が手を持ち上げ、その甲へ唇を触れさせる。一度だけでは終わらず、指先にも触れた。
「少しだけと言いました」
彼女は空いている手で彼の頬を押し返した。
ようやく指が解かれる。
「今度こそ仕事をします」
彼は笑いながら元の場所へ戻った。
彼女も書類へ向き直る。
一枚、もう一枚と進めていく。
今度は本当に邪魔をされない。
ふと顔を上げると、彼は窓の外を見ている。
もう一度書類へ戻り、少し進めてからまた顔を上げた。
まだ外を見ている。
「……何を見ているのです?」
「外」
「それは分かります」
「見ないでって言われたから」
自分で言ったのだから文句は言えない。
書類を一枚読み終え、右側へ置く。
次を取る前に立ち上がった。
彼の隣まで行くと、彼が振り返る。
「終わった?」
「まだです」
彼女は何も答えず、その隣へ腰を下ろした。
肩が触れる。
彼がこちらを見る。
今度は何も言わなかった。
しばらくそのまま外を眺める。
午後の光はすでに傾き始めていた。
「仕事、いいの?」
「あなたがこちらを見ないからでしょう」
彼が笑う。
「見ないでって言ったのは君だけど」
彼女は聞き流した。
肩に腕が回り、そのまま引き寄せられる。
「……少しだけです」
今度は彼女も時間を確かめなかった。
やがて机の上に残した書類が目に入り、自分から身体を起こす。
「戻ります。次こそ本当に邪魔をしないでくださいね」
「さっきから邪魔してるの、俺だけじゃないと思うけど」
聞かなかったことにして席へ戻った。
それからは二人とも何も言わなかった。
彼は時折こちらを見ていたが、彼女も止めない。
仕事は少しずつ進み、机の上に残る書類も減っていった。
これなら何とか終えられるかもしれない。
そう思った頃、部屋の外から声が掛かった。
彼女は手を止め、時計を見る。
夕食の時間を過ぎている。
食事に来ない彼女を案じて、様子を確かめに来たらしい。
机の上には、まだ数枚残っていた。
「お食事はとられたのですか?」
「まだ」
「でしたら、先に召し上がってください。私はもう少し続けます」
「君と食べたい」
彼は立ち上がると扉を開け、外で待っていた者に二人分の食事をここへ運ぶよう頼んだ。
彼女は止めず、机の上の書類を片側へ寄せる。
しばらくして食事が運ばれてきた。
皿が並べられる間、彼女は残っている書類へ目をやる。
「仕事のこと考えてる?」
「見ただけです」
向かいに座り、食事を始める。
彼女はいつもより早いペースで口へ運んだ。
しばらくすると、彼が手を止めた。
「そんなに急いで食べたら、身体に悪いよ」
「まだ仕事が残っていますから」
「ゆっくり食べなよ」
「あなたがいらっしゃらなければ、もう終わっていたと思います」
「それはごめん」
素直に謝られると、それ以上は言えなかった。
少しして、彼が今日あったことを話し始める。
彼女も自分のことを話し、話が途切れれば、またどちらかが口を開いた。
いつの間にか食べる速さも元に戻っていた。
彼の皿から彼女の好物が移される。
代わりに、自分の皿から彼の好きなものを一つ渡した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
食器が片づけられてから時計を見て、彼女はすぐに机へ戻った。
「まだやるの?」
「今日終えるつもりで始めたのですから、できるところまではやります」
彼は止めず、先ほどまで座っていた場所へ戻った。
彼女は残っている書類を手に取る。
食事の前まで確認していたものを終え、次へ移った。
今度こそ彼は何もしない。
彼女が顔を上げれば目が合うことはあったが、それだけだった。
一枚ずつ確認し、残りが少なくなったところで時計を見る。
もう少し続ければすべて終わるかもしれない。
それでも、今日はここまでにすることにした。
ペンを置き、残った書類をまとめる。
「……終わりにします」
「全部終わった?」
「いいえ。残りは明日にします」
彼女が机の上を片づけている間に、彼も近くまで来た。
すべてをしまい終えて振り返ると、すぐ目の前にいる。
頬へ触れた手を取り、彼女はそのまま握った。
「明日こそ来ないでくださいね。今日終わらなかった分が残っていますから」
「邪魔してるつもりはないんだけどな」
彼女は何も言わず、彼を見る。
「……約束はできない」
「どうしてです?」
「明日になったら、また君に会いたくなると思うから」
彼女はその手を離さなかった。
「……明日こそ、来ないでくださいね」
最後まで、彼は分かったとは言わなかった。
扉を開けると、廊下の向こうから小さな足音が近づいてきた。
「お父様!」
駆けてきた娘を、男はその場で受け止めた。
「ただいま」
「遅かったです」
「ごめん」
娘は父親の首へ腕を回したまま、後ろを覗き込んだ。
「お母様は?」
「もう来るよ。ほら、見てごらん。明かりが消えてるだろ?」
男が窓の外を示す。
娘もそちらを見た。
「ほんとだ」
「もうすぐ来るよ」
娘は父親の首へ腕を回したまま、今日あったことを話し始めた。
少し遅れてやってきた息子も父親へ飛びつく。
「おそかった」
「ごめん」
「ごはん、おわった」
「ちゃんと食べた?」
「たべた!」
「お野菜も?」
息子が黙る。
娘が父親の耳元へ顔を寄せた。
「残してたよ」
「お姉ちゃん!」
男が笑ったところで、娘が顔を上げた。
「あ、お母様!」
父親の腕から降り、入ってきた人物へ駆けていく。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
娘を抱き留めたのは、先ほどまで男と同じ部屋で食事をしていた彼女だった。
「お母様も遅かったです」
「ごめんなさいね」
息子も父親の腕から降り、母親のもとへ走っていく。
彼女は二人を順番に抱き締めた。
「お利口にしていましたか?」
「「うん!」」
「今日はお父様もお母様もお仕事が大変だったの?」
父親はそっと顔を背けた。
「私は、予定していた分が終わらなかったのです」
娘は納得したように頷くと、すぐに父親の手を引いた。
「お父様、来て。見せたいものがあるの」
息子も負けじと反対側の手を取る。
「ぼくも!」
「分かったから、引っ張らないで」
二人に連れていかれた先には、午前中に母親と作ったという積み木が残されていた。
娘が自分で作った場所を説明し、息子も隣から別の場所を指す。
「お父様も作って」
「いいよ」
二人はそれぞれ積み木を持って父親の両隣へ座った。
彼女も少し離れたところへ腰を下ろす。
三人は空いている場所へ新しいものを作り始め、途中から彼女も呼ばれて四人で積み木を囲んだ。
そのあとは今日あったことを聞いたり、子どもたちにせがまれた父親が絵本を読んだりして過ごした。
一冊を読み終える頃には、息子は父親の膝へ身体を預け、娘も何度か目をこすっていた。
「そろそろ寝る時間ですよ」
「もう一冊」
「続きは明日にしましょう」
「短いの」
「明日、お父様に読んでもらったら?」
娘は父親を見る。
「読んでくれる?」
「もちろん」
それで納得した娘と、すでに眠りかけている息子を連れて子どもたちの部屋へ向かった。
息子を寝台へ寝かせ、娘にも布団を掛ける。
「おやすみなさい、お父様。お母様」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
二人が眠ったのを確かめ、部屋を出た。
並んで廊下を歩き始めて間もなく、彼が彼女の手を取る。
彼女はつながれた手を見たが、何も言わなかった。
そのまま二人の部屋まで歩く。
扉が閉じた途端、背後から腕が回ってきた。
「……今度は何です?」
「抱きしめたかった」
彼女は腹の前で重なった腕へ手を置いた。
「ずいぶん一緒にいたでしょう?」
「仕事中だった」
「お食事も一緒にとりました」
「二人きりじゃなかった」
彼女は少しだけ顔を横へ向ける。
「それで足りないと?」
返事の代わりに、首元へ顔を寄せられた。
彼女はそのまましばらく抱かれていた。
「朝から何も変わっていませんね」
「変われないよ」
「何がです?」
「君と離れたくないと思うのは」
彼女は身体の向きを変え、彼と向かい合った。
腕はまだ腰へ回っている。
「それで仕事をしているところまでいらしたのですか?」
「そう」
「おかげで予定していた分が終わりませんでした」
「ごめん」
謝りながら離れようとはしない。
彼女は彼の胸へ手を置いた。
「明日も午後から仕事をします。午前中は子どもたちと過ごすつもりです」
「俺もいたい」
「あなたはお仕事でしょう?」
「早く終わらせる」
「仕事を疎かにしてまで早く帰ってこないでくださいね」
「ちゃんと終わらせるよ」
「それなら結構です。それから、明日こそ離れには来ないでくださいね」
彼が黙る。
「お返事は?」
「約束はできない」
「いつも同じことをおっしゃっていますね」
「明日になったら、また会いたくなると思うから」
「仕事が終わらなくなるのです」
「邪魔しないよ」
彼女は胸元に置いていた手で、そのまま軽く押した。
「それも今日聞きました」
けれど、彼の腕は腰から離れない。
「明日は来ないでください」
「努力する」
「来ないとはおっしゃらないのですね」
「嘘はつきたくないから」
彼女はしばらく彼を見たあと、胸元に置いていた手から力を抜いた。
彼がその手を取り、指を絡める。
「……明日こそ、離れには来ないでくださいね」
最後まで、彼は分かったとは言わなかった。
夕食までには終えるつもりだった。
机の上には、まだ目を通していない書類が残っている。
午後から始めた仕事も、あと少しだった。手元の一枚を読み終え、必要な箇所へ印をつけて右側へ移す。
次の書類へ手を伸ばしたところで、扉を叩く音がした。
来客の予定はない。
返事をする前に、もう一度鳴る。
彼女は書類から手を離し、扉へ向かった。
開けた先に立っていた男を見て、眉を寄せる。
「今日は来ないでくださいと言ったでしょう?」
――エンドレス。
本邸の夕食が17:30ごろで、彼女は「夕食までには仕事を終えるつもり」だったけれど終わらず、使用人が様子を見に来る。その後、離れで二人が18時ごろから食事をする――という想定。




