第三節
**一九七二年十一月十日から十二日 ヴァルム鉱山町、旧記録庫および第三脇坑旧西通路前**
十一日は終日、雪まじりの雨だった。
坑道へ入るには入れたが、視界の悪い日の観測はしばしば記録の精度を落とす。
私は無理に成果を求めず、町に残って旧記録を調べることにした。
こうした判断は、現地の人間には怠慢と映ることもあるし、大学には慎重すぎると受け取られることもある。
だが地の下の現象は、時にその場に立つこと以上に、そこがどのように掘られ、どこで捨てられ、何が放置されたかを知るほうが近道になる。
ヴァルムの旧記録庫は、役場の裏手にある石造りの小部屋だった。
湿気を吸った帳簿と、虫に食われた地図、それに坑夫の交代記録や事故報告の束が棚へ押し込まれている。
保存状態はひどいが、山間の町ではそれでも残っているだけ上等である。
私は午前中いっぱいを費やして、第三脇坑周辺の採掘年と閉鎖履歴を拾い出した。
興味深かったのは、問題の旧西通路が、単なる崩落で放棄されたのではないらしい点だった。
記録は曖昧で、担当者の字も読みづらいが、およそ二十年前、その区画では二度続けて
**「器具の不具合による作業中止」**
が起きている。
次いで、数週間の再開後に
**「坑内方向感覚の不安定化を訴える者多し」**
とあり、その翌年には閉鎖とある。
落盤や湧水の記録はない。
つまり、危険が物理的な崩壊ではなく、もっと扱いづらい種類のものとして認識されていた可能性が高い。
さらに古い図面を見ると、現在の封鎖口の向こう側には、短い横坑が一つ、鉱脈へ沿って不自然に折れ曲がっていた。
試掘の失敗跡かと思ったが、脈の追い方が妙である。
鉱石を採るならもう少し真っ直ぐ掘るはずの場所で、一度大きく外れて戻っている。
意図的に何かを避けたのか。
あるいは逆に、何かを追っていたのか。
こういう時、図面にはしばしば、掘った人間の逡巡が残る。
昼過ぎ、記録庫へハルヴェンが顔を出した。
私の広げた図面を一目見て、
「そこに目をつけましたか」
と言う。
私は旧西通路の折れ方が気になったと答えた。
すると彼は、
「昔の監督は、鉄の入りを嫌って何度か線を変えたそうです」
と言った。
「鉱脈を避けた?」
「濃すぎる筋があると、道具が落ち着かないと」
それは文書には残らない類の判断だろう。
迷信めいた理由は帳簿に載りにくいし、数字に換えにくいことは報告から抜け落ちる。
だが実際に人が働く場所では、そうした言い換えられなかった知識のほうが命を守る場合がある。
ハルヴェンは、古い話としてもう一つ付け加えた。
第三脇坑がまだ新しかった頃、ドワーフ系の古参坑夫たちは、鉱脈の濃い壁へ耳を当ててから削る場所を決めていたという。
人間の若い監督がそれを笑ったところ、老坑夫の一人が
**「鉄は鳴る前に歩く」**
と言い返したらしい。
私はその言葉をノートへそのまま写した。
学術用語ではないが、現象の性質にはかなり近い気がした。
十二日の朝、雪はやみ、空だけが高く晴れた。
私は坑道へ入る前に、北側斜面の捨石場を調べることにした。
採掘された岩石を長年積み上げた場所で、古い鉱区を読むには有用である。
そこには人間が掘り出して捨てたものの履歴が露骨に出る。
鉄分の多い黒い石、石灰を含んだ白っぽい石、砕けた頁岩、それに湿ると赤茶ける脈石。
私は斜面で石を割り、手袋を脱いでは磁石を当て、簡単な分類を続けた。
その最中、奇妙なものを見つけた。
掌に載るほどの薄い石片で、片面にだけ極細の平行な擦り跡が何本も走っていたのである。
掘削工具の跡にしては浅く、獣の爪にしては規則的すぎる。
しかも筋の間に、金属粉ではなく、ごく細かな黒灰色の粉が入り込んでいた。
石を割った時に生じるものとは質が違う。
私は布包みに収め、採取位置を記録した。
さらに斜面の下方、古い排水溝の石組みのそばで、今度はよりはっきりした痕跡を得た。
雪の残る泥地に、小さな足跡が点々と残っていたのである。
犬でも狐でもない。
趾は四つに見えたが、雪混じりの泥では輪郭が甘く、確かなことは言いにくい。
爪は細く浅い。体重はかなり軽いように見える。
サイズだけなら山のテンに近いが、歩幅が合わなかった。
その足跡は、捨石の山から排水溝へ下り、そこでぷつりと消えていた。
私はそこで、対象の大きさと移動の仕方について、ようやく仮の見当をつけた。
大型獣ではあるまい。
坑道の崩れ目や鉱脈沿いの狭い隙間を通るには、小さく、軽く、岩壁の細かな凹凸を足場にできる体である必要がある。
金属に惹かれるのではなく、鉄の濃い筋や振動を道筋として使うのだとすれば、彼らにとって鉱山は餌場というより、地中の地図へ人間が誤って窓を開けた場所なのかもしれなかった。
午後、第三脇坑へ戻ると、イェルンが入口で待っていた。
「今日は入るんですか」
「少しだけ。奥までは行きません」
「ちょうどよかった。今朝、北側の捨石場で、道具袋が鳴ったってやつがいるんです」
「坑内ではなく?」
「外でも来る時は来ます」
この町では、現象の境界が案外あいまいである。
坑道の中で完結するものだと思っていたが、どうもそうではない。
人間が露出させた鉱脈や、地表へ捨てた岩までが、その一部を地上へ引きずり出しているのかもしれなかった。
この日の坑内は、前回より明らかに湿っていた。
雪解け水のせいだけではない。
壁際の空気が冷たく重く、ランプ火も心持ち落ち着かない。
中央採掘室までは特に異常なし。
だが旧西通路前へ近づくにつれ、私の持つ小型コンパスがわずかに揺れ始めた。
鉄鉱帯では珍しいことではない。
ただ、揺れ方が妙だった。
定まらず迷うのではなく、一定の方向へ何度も引かれる。
封鎖口の前へ着くと、イェルンが黙って腰の巻尺を外した。
前回の経験で学んだのだろう。
金具を増やしたくないのだ。
私はその判断を好ましく思った。
現場での理解は、理屈より先に身体の動きへ現れることがある。
しばらく待つと、最初の反応は予想外のところから来た。
私の胸ポケットに入れていた万年筆のクリップが、布越しに小さく震えたのである。
続いて、工具箱の留め金ではなく、壁へ立て掛けたイェルンの短い鑿が、柄を揺らして一度だけ鳴る。
前より近い。
「火、見てください」
イェルンの声が低くなる。
ランプの炎は青く細っていた。
だが前回と違い、今回はそれが一度で終わらない。
細っては戻り、また細る。
そのたび、封鎖口の左手の岩壁に含まれた黒い筋が、ごくわずかに湿ったような艶を帯びる。
私はしゃがみ込み、ランプを壁へ近づけた。
鉄鉱脈の露頭に沿って、微かな粉が動いている。
落ちるのではない。
筋の内部を、まるで下から順に撫でるように細かな崩れが走る。
次の瞬間、封鎖口の内側で、砂がさらりと落ちた。
私は隙間へ目を寄せた。
暗い。何も見えない。
だが見えないまま、そこに生きものの動きがあると分かる。
石の崩れと体重移動には、わずかに違う間がある。
今聞こえたのは後者だった。
やがて、崩れ目の奥で、ごく低い位置に小さな反射が二度走った。
眼だと断言するには早い。
濡れた石か、光を返した鉱面かもしれない。
ただ、それは同じ場所に留まらず、左右へわずかにずれて消えた。
同時に、封鎖口の石板のひとつへ、内側から軽い打音が三度、規則正しく返る。
とん、間。
とん、間。
とん。
私は反射的に手帳へそのリズムを書き留めた。
意図があるとはまだ言えない。
だが偶発の落石にしては整いすぎていた。
それきり現象は退いた。
火は戻り、壁の艶も失せ、封鎖口の奥はただの暗がりへ戻る。
私は深追いしなかった。
現象が消えたあとに無理をしても、記録は雑になるだけである。
その場の粉塵を少量採取し、壁面の磁性を簡易に確かめ、時刻と位置を書き込んだ。
この日の終わりには、まだ姿の確証はなかった。
ただ、旧西通路の向こうに何かがいて、それが鉱脈の筋に沿って動いている可能性は、かなり強くなった。
私にとって必要だったのは、もう一歩だけ、それを生きものとして見切ることだった。




