第二節
**一九七二年十一月九日 ヴァルム第三脇坑入口**
翌朝、第三脇坑へ向かう道には薄い霜が残っていた。
町から歩いて四十分ほどの斜面に口を開けるその坑口は、近づくと時代の違う補修が何層にも積み重なっているのが分かる。
古い木枠、新しい補強材、石積みの継ぎ足し。
坑道は生きものではないが、掘られた時代の意図を身体に残す。
広い場所は人が欲張った場所であり、妙に狭い場所は石が固かったか、命が先に尽きた場所である。
私は坑道を好ましいとは思わないが、読むべき文脈のある対象としては興味深い。
案内についたのは若い測量助手で、名をイェルンと言った。
人間の青年で、町では珍しく冗談を口にする軽さがある。
だが足取りは慎重で、坑内の地図も頭へ入っていた。
理屈を覚える若者と、足場を覚える若者の両方がいるが、彼は後者に近い。
「先生、先に言っておきますが、今週は外れかもしれません」
「外れ?」
「何も起きない週です。そういう時は本当に何もない」
「それならそれで結構です」
「学者さんはそう言います。でも、何もない週のほうが歩きにくいんです」
意味を尋ねると、彼は少し考えてから、
「待たされてる気になる」
とだけ答えた。
坑内は乾いていた。
少なくとも入口近くは。
石英を含んだ岩肌がランプに鈍く返り、ところどころに古い削岩痕が残っている。
第一の観察として意外だったのは、金属音の少なさである。
坑夫たちが語る「勝手に鉄が鳴る」印象から、私はもっと常時どこかで反響が鳴っているものと思っていた。
だが実際には、足元の砂利と自分たちの道具の擦れる音ばかりが耳につく。
異常がある場所ほど、まず普通であることを確認しなければならない。
午前中は、地図の照合と坑内の温湿度記録に費やした。
第三脇坑の主通路から枝分かれする旧採掘区は三つ。
そのうち西側の二本は崩落の危険があるため封鎖済み、調査可能なのは中央の古い採掘室だけである。
問題の音響異常も、ほとんどがその周辺から報告されている。
現場へ着いてみると、採掘室は思ったより広く、天井も高い。
作業跡の古い足場は撤去されているが、壁面には鉄鉱脈を追った細い穿ち込みがいくつも残っていた。
ランプ火に異常なし。温度変化もなし。
私は壁の微振動を簡易計器で測り、ハンマーで数箇所を軽く打って反響を確かめた。
音はよく回るが、特筆すべき不自然さはない。
昼過ぎ、初めて小さな異変があった。
イェルンが巻尺を引いた瞬間、彼の腰の工具環が、誰も触れていないのに一度だけ澄んだ音を立てたのである。
彼はすぐに動きを止めた。
私も記録を止め、耳を澄ます。
それきり、何も続かない。
「今のが?」
「ええ。軽いほうです」
彼の顔は冗談を言う時より真面目だった。
私は環を外して机上に置き、振動源を確かめた。
床の傾きも、吊り革の捻れもない。
意図せず鳴る条件は見当たらない。
だが、こういう単発の現象は最も扱いづらい。
再現できなければ、記録は証言へ近づく。
夕方まで観測したが、それ以上の成果はなかった。
何も起きなかった日というのは、しばしば現象の輪郭を削るために必要である。
見つからなかったことは、記録として立派な一項目だ。
坑外へ出ると、雪ではない冷たい雨が山から流れてきていた。
イェルンは肩をすくめ、
「ほら、外れの週でしょう」
と言った。
私はうなずきつつも、そう簡単には判断しなかった。
その夜、宿でノートを整理していると、隣室から短い金属音が聞こえた。
薄い壁越しの物音かと思ったが、違った。
私の机の上に置いた採取用の小さな鉗子が、皿の縁へかすかに触れていたのである。
窓は閉じている。床も平らだ。
私はしばらくそれを見たが、二度目はなかった。
翌朝になると、この件はずいぶん取るに足らぬことのようにも思えた。
疲労、建物の軋み、隣室の振動、考えればいくらでも説明はつく。
私は野外で起きたことを何でも連続した一つの現象として結びたがる癖があるから、この程度のことはむしろ慎重に切り離しておくべきだろう。
そのように自分へ言い聞かせたが、朝食の席で金物屋の老婆が、何でもない調子で
「先生の部屋、夜に鳴ったろう」
と言った時には、さすがに手が止まった。
「聞こえましたか」
「聞こえる家なんだよ、あそこは。冬前はとくにね」
その言い方には面白がる気配がなかった。
町の人間は、異常を怪談として話す時と、天気のように扱う時とで口調がまるで違う。
今朝の老婆は明らかに後者だった。
私はそれ以上話を引き延ばさず、ノートの余白へ
**「宿でも単発金属音」**
とだけ記した。
現地では、説明より頻度のほうが先に物を言う。




