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ロバート教授の幻獣生態調査記録  作者: ロバート・クロフト
第一章 一九七一年 夜間に観測される不定光源の発生条件の確認
3/8

第二節

**一九七一年九月十五日 サン・ヴァレール石灰岩台地南縁、谷底観測路**


朝のうちに村の古い地図を見せてもらった。正確な測量図ではないが、羊道、枯れ井戸、冬場に崩れる斜面、霧のたまりやすい窪地が赤鉛筆で書き込まれている。学術資料としては心もとないが、夜に歩く人間にとってはこちらのほうがよほど有用である。地図の余白には、何代か前の持ち主が書いたらしい小さな注意書きまであった。

*西風の晩は谷へ下りるな。声は上から来る。*


誰が書いたのかは分からない。ミケルに尋ねると、祖父の代の羊飼いか、あるいは密輸に関わっていた者の書き込みではないかと言う。国境の遠い土地では、地理の知識はしばしば法より信用される。


昼過ぎ、南縁の斜面を下見した。石灰岩は乾いていると白く脆く、濡れると滑る。谷底へ下る道は道というより、羊と人間がそれぞれ勝手に使った痕跡の集合でしかない。灌木の根が露出し、そこへ足を掛けて降りる箇所がいくつもある。私は下りながら三度立ち止まり、四度目でようやく、自分が昨夜と同じ失敗を犯そうとしていることに気づいた。視線が下ではなく前へ流れていたのだ。足場の悪い地形では、前方の異常に気を取られた人間から先に落ちる。


谷底には浅い水の流れがあり、その両脇に灰白色の泥が堆積していた。水そのものに発光性は認められない。だが日陰の岩陰や、流木の裏側には、爪でこそげ取れる程度の粉状物が少量付着している。昨夜、靴底に付いたものとよく似ていた。乾燥している間はほとんど無色だが、暗所に持ち込むと、ごく短いあいだだけ薄青く残光する。私は採取瓶を三本満たし、湿度、気温、採取地点を記録した。


問題は、谷底に下りてから音の聞こえ方が変わったことである。


上から聞いていたときには、反響が遅れて返るだけだった。だが下では、音が遅れるのではなく、位置を曖昧にする。ミケルが私の右後方で石を落としたのに、その音は前方の霧の中から来たように聞こえた。私が咳をすると、すぐ近くで誰かが短く息を返したような気がした。錯覚と片づけるべきだろう。実際、湿った岩壁と低い霧の組み合わせは、音を奇妙に曲げる。だが私は一応、観測ノートの端に「聴覚定位の不安定化」と記しておいた。現象に名をつけると、少しだけ怖れが後退する。


夜の観測には、村からもう一人加わった。エリアスという老人で、羊飼いを引退してからは罠の修理や納屋仕事で暮らしているという。痩せた男で、手の節だけが木の根のように太い。彼は私の測定器具を見ても感心せず、採取瓶にも興味を示さなかったが、谷へ入る前にだけこう言った。


「光を追うな。止まった時だけ見ろ」

「動いている時は危険だという意味ですか」

「人間が勝手に足を出す」


この地方の人々は、現象を説明しない代わりに、どう振る舞うべきかを端的に教える。研究者としてはもどかしいが、野外ではその簡潔さに救われることもある。


観測点は谷底西側の岩庇の下に定めた。霧は昨夜より薄く、月は雲の後ろにある。最初の一時間、何も起こらない。私は採取した粉末の一部を暗所で擦り合わせ、発光の強度と持続時間を記録した。明確な刺激反応はない。温度変化にも乏しい。菌類なら発光機構はもっと安定していてよさそうだが、微生物群集だとすれば説明できなくはない。いずれにせよ、獣本体の発光器官と決めつけるには証拠が足りない。


二十三時を過ぎたころ、エリアスが私の袖口をつまんだ。

彼の視線の先、谷の対岸ではなく、こちら側の斜面の中腹に淡い光が現れていた。


昨夜より近い。輪郭もはっきりしている。獣は岩棚の上に立ち、こちらへ身体の側面を見せていた。四肢の関節、胸郭の起伏、首から肩にかけての線が、青い燐光に縁取られている。体毛は短く密で、背に沿ってやや粗い。尾は長くはない。頭部の形状はやはり鹿類よりも肉食獣に近く、口吻は細い。だが牙を見せるでもなく、全体としては奇妙に静謐な印象を与える。山中でしか生きられない獣というより、昔からそこにいて、ただ人間が気づくのを嫌っている生きものに見えた。


私は双眼鏡を上げ、息を止めた。すると、獣の足元の岩棚に、もう一つ小さな光が灯っているのに気づいた。個体は二頭いたのである。大きいほうの後ろに、ひと回り小さい個体が伏せている。幼体か、あるいは若い個体か。少なくとも昨夜の一頭きりという判断は早計だった。


小さい個体が立ち上がり、親と思しき個体の腹の下へ鼻先を入れた。授乳行動にも見えたが、角度が悪く断定できない。その時、谷を渡る風が急に変わった。霧が一筋、こちらへではなく上へ吸われるように立ち上がり、岩庇の天井をなでた。続いて、明瞭な音がした。


昨夜のような曖昧な母音ではない。

乾いた笛に似た、細い、長い呼気音である。しかも一度ではなく、二度、間を置いて鳴った。


私は反射的に斜面を見回した。別個体の鳴き声かと思ったのだ。だが光る二頭は動かない。鳴いたのは谷の向こうでも後方でもなく、どうも霧の立ち上がったあたりから聞こえたように思えた。小さい個体は身を硬くし、大きい個体はそれを庇うように半歩前へ出る。耳が後ろへ伏せられた。明らかに警戒の姿勢である。


その直後、エリアスが私の肩を強く押した。

私はよろめき、岩庇の奥へ半歩下がる。次の瞬間、目の前の霧の切れ間を、何か白いものが横切った。


獣ではない。人間でもない。

長い布の切れ端に見えたが、風に流されるにしては重く、落ちるにしては遅すぎた。しかも地面に触れず、斜面から斜面へと滑るように移って消えた。私は見たものを形として記述できない。夜の霧における視覚誤認だと書くことはできるが、それ以上は不誠実になる。


「今のは何です」

私が囁くと、エリアスは答えず、ただ顎で獣のほうを示した。


大きい個体は、小さい個体を先に行かせた。二頭は斜面を登らず、むしろ谷底へ向かって横移動し、霧の濃い帯の中へ入っていった。発光はすぐに弱まり、やがて二つの点だけになり、それも見えなくなった。歩行というより、光だけが霧へ溶けたような消え方だった。


ここで私は大きな失敗を犯した。


エリアスの制止を振り切って、獣の消えた方向へ出てしまったのである。慎重さを旨とする研究者らしからぬ行動だと、今読み返しても思う。だが、母子らしき二頭が霧へ入る瞬間、その足元の泥に微かな青い痕が続いたのを見てしまった。痕跡を失うには惜しい距離だったのだ。


結果から書けば、私は二十歩も進まないうちに、自分がどちらを向いているのか分からなくなった。


霧は濃くない。せいぜい膝から胸の高さに流れているだけで、空は見える。岩庇も背後にあるはずだった。にもかかわらず、足を置く方向と視界の奥行きが一致しない。右へ避けたつもりで左の岩に手をつき、前へ出たつもりで同じ場所の泥を踏む。しかも妙なことに、どこか近くで水音がしているのに、流れは見えない。私は自分の呼吸が速くなるのを感じ、一度立ち止まって目を閉じた。すると、耳元で誰かが短く笛を吹いたような音がした。


次に肩を掴まれた時、私は思わず肘を振り上げた。

相手はミケルだった。いつの間にか背後へ回っていたらしい。彼は怒るでもなく、ただ低い声で「足元だけ見ろ」と言った。その言い方は、獣を追うなと言った老人の口調に似ていた。私はようやく自分が、何かを見ようとして逆に地形を失っていたのだと理解した。


岩庇へ戻ると、エリアスはすでに撤収の支度をしていた。

彼は私の靴を指で叩き、泥に混じった青い粒を見てから、初めて少しだけ満足そうな顔をした。


「連れて行かれなかったなら上等だ」

「何にです」

「谷に決まってる」


この返答は説明になっていない。しかし、彼らが恐れているのは獣そのものではなく、獣が現れる時に谷で起きる何かだ、ということだけは分かった。


宿へ戻った後、採取した泥と粉末を乾かしながら記録をまとめた。靴底の青い粒は昨夜より強く発光し、擦ると一瞬だけ明度が増す。だが瓶へ移した途端に弱まる。生きた基質から離れると活動を失う微小生物か、あるいは空気中の湿度変化に反応する鉱物性粒子か。後者なら獣との関係が薄くなるが、前者なら話は別だ。獣が発光性微生物の運搬者、あるいは繁殖場所への媒介者である可能性が出てくる。


もっとも、今夜もっと重要だったのは、母子らしき二頭の行動である。

小さい個体がいるなら、この谷は単なる通過点ではない。繁殖地、あるいは育幼に適した安全地帯である公算が高い。もしそうなら、大学が興味を示す発光現象は、彼らの生活環の一部にすぎない。光それ自体を取り出して利用しようとする発想は、巣を壊して羽だけ持ち帰るようなものだ。


そして、あの霧の中の白いもの。

あれについては、現段階で判断を保留する。未確認の第三の生物である可能性は低い。霧と月光と疲労による視覚錯誤のほうがまだ妥当だろう。ただし、獣たちが明らかに警戒を示した以上、まったく無関係とも言い切れない。野外記録において最も危険なのは、自分が見たいものだけに整えてしまうことだ。私は今夜、すでに一度その誘惑に負けかけている。


明夜は谷底ではなく、上流側の狭窄部を調べる。

エリアスによれば、霧の声はあちらでいちばん強く返るらしい。理由を尋ねると、彼は「谷が細く、石が古いからだ」と答えた。地質学的説明としてはあまりにも粗いが、土地の者の説明は時に、学問の手前で最短距離を走る。問題は、それをこちらが正しく言い換えられるかどうかにある。


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