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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
99/135

1936年2月26日

一九三六年(昭和十一年)二月二十六日。帝都の空は、この歴史的瞬間を祝福するかのように、雲一つない「新幹線ブルー」に染まっていました。


東京駅、特設零番線ホーム。そこには、これまでの鉄道の概念を根底から覆す、流線形の巨体が横付けされていました。


【新幹線第1号車「ひかり」:その威容】

車体は**クリーム10アイボリーホワイトの柔らかな輝きを放ち、窓周りと腰部を走るブライトブルー(青色)**の帯が、冬の朝日に鮮やかに映えています。蒸気機関車のような荒々しさはなく、そこにあるのは、総力戦研究所が導き出した「速さと機能」の結晶でした。


ホームには、当時の最先端の装いをした人々が溢れています。

モボ・モガの群れ: レーヨン混紡のコートを羽織り、MBF製の軽やかなトランクを手にした若者たち。


政府要人と報道陣: 燕尾服やフロックコートに身を包み、この「動く革命」を世界へ発信しようとカメラを構える記者たち。

午前九時。天皇、皇后両陛下がホームに降り立たれます。


「……実に、美しい」


除幕の綱を手にした総理大臣が、思わず溜息を漏らしました。

総理が綱を引くと、ベールが落ち、重厚な真鍮製の銘板が朝日に輝きました。 


ひかり


それが、この鋼鉄の弾丸に与えられた名でした。

天皇陛下が壇上に立ち、静かに、しかし力強くお言葉を述べられます。


「今日、この鉄路が拓かれたことは、単なる交通の便に留まらず、わが国の科学技術が平和と繁栄のために結実した証である。これより始まる旅が、国民の心をも繋ぐものとなることを願う」


万雷の拍手の中、両陛下は第6号車――一等コンパートメント車両へと歩みを進められました。



午前十時:静かなる発車

天皇陛下が坐乗される**第6号車(一等コンパートメント)**は、完全な静寂に包まれていました。陛下をお迎えするため、一等車は貸し切りとなっており、室内は最高級の絹織物とMBF製の防振家具で整えられています。

「――発車」

合図と共に、新幹線は動き出しました。

驚くべきは、その滑らかさです。動力分散方式の電動モーターが、MBFで軽量化された車体を、何の衝撃もなく滑り出させました。ホームで見送る万歳三唱の声が、静かに遠ざかっていきます。


【一八〇キロの巡航:車内の風景】

列車が多摩川を越える頃、速度計の針は時速一八〇キロに到達しました。一九三六年の世界において、これは「地上を走る奇跡」に他なりませんでした。

1等車(6―7号車):陛下の旅路

専属シェフがMBF製のキッチンで仕上げた、最高級の和牛と季節の野菜をあしらった料理が、陛下の元へ運ばれます。陛下は窓の外、目にも止まらぬ速さで流れる景色を眺めながら、静かに紅茶を一口含まれました。

「揺れが、これほどまでにないものか。技術の進歩は、時間をも征服するのだな」

2等車(5、8―9号車):報道の戦場

記者たちは、自席に設置された最新の通信設備に張り付いています。

キャビンアテンダント(CA)がワゴンを押し、冷えた飲み物を提供しながら歩きます。

「現在、時速一八〇キロ! 窓の外の電信柱が線のように見えます! しかし、手元の原稿を書くペン先は、一点も狂いません!」

3等車(1―4、10―12号車):国民の誇り

一般客で埋まった3等車では、人々が「新幹線駅弁」を広げていました。

「ゴミ持ち帰り徹底」のルールを全員が守り、車内は驚くほど清潔です。誰もが、天皇陛下と同じ列車で東海道を駆けるという誉れに、顔を紅潮させていました。

東海道の覇者:富士を越えて

熱海を越え、丹那の山々を抜けると、目の前に雪化粧した富士山が姿を現しました。

アイボリーとブルーの車体が、富士の裾野を時速一八〇キロで疾走します。

「ひかり」の防音壁(フライアッシュ混合材)は、風切り音を遮断し、車内にはただ、60Hzの電力によって稼働する換気装置の静かな音だけが響いています。

小田原から静岡、そして浜松。

これまでの急行列車なら半日を要した距離を、新幹線は驚異的なペースで塗り替えていきます。沿線では、トラクターの手を止めた農夫たちが、見たこともない速さで通り過ぎる白い閃光に、手にした帽子を高く振って応えていました。

名古屋駅:一三時三〇分、到着

東京を出発して、わずか数時間。

「ひかり」は、一点の乱れもなく名古屋駅のホームへと滑り込みました。

ドアが開くと、そこには名古屋市長をはじめ、韃漢ダッカン国からの賓客を含む数万人の市民が待ち受けていました。

第6号車から陛下が降り立たれた瞬間、駅舎を揺らすほどの万歳の声が響き渡ります。

総理大臣が時計を確認し、満足げに頷きました。


「一八〇キロ……。予定通りだ。この速度こそが、帝国の信頼と安全の証だ」


一九三六年二月二十六日。

新幹線は、単なる移動手段としてではなく、**「高度に統制された技術が、国民を幸福にし、国を一つにする」**という、帝国の新しい理想を乗せて、東海道を駆け抜けました。

夕闇が迫る名古屋駅で、点検を受ける「ひかり」の車体は、潮風に吹かれながらも、誇らしげにアイボリーの輝きを保っていました。



【幕間】


一九三六年一月下旬。帝都・東京、宮城(皇居)内、御座所。

東海道新幹線「ひかり」の歴史的な開業を数週間後に控えたこの日、分厚い絨毯の敷かれた執務室には、かつてないほどの重苦しい緊張感が漂っていました。


「……恐れながら陛下。時速一八〇キロメートルなどという、人類未踏の猛スピードで走る鉄の箱に、玉体ぎょくたいをお乗せするなど、断じてあり得ません。万が一、脱線でもいたせば……!」


宮内大臣と侍従長が、文字通り床に額を擦りつけるような勢いで必死の奏上を行っていました。

彼ら古い世代の側近にとって、天皇とは「雲上人」であり、滅多なことで臣民の前に姿を晒すべきではない絶対的な存在です。ましてや、得体の知れない新型車両に乗るなど、言語道断の極みでした。


しかし、執務机に座る若き昭和天皇は、手元の書類――総力戦研究所から上がってきた新幹線の分厚い青写真(設計図)――からゆっくりと顔を上げ、丸眼鏡の奥の瞳を静かに光らせました。

陛下の胸中には、ある熱い思いが渦巻いていました。


(――乗りたい。 どうしても、あのクリームと青の流線形に乗りたい。モーター音を直に聞き、一八〇キロで流れる富士山をこの目で見たい……!)


もともと生物学という自然科学を修め、最新のテクノロジーや合理主義に対して極めて柔軟で、強い好奇心をお持ちの陛下です。総力戦研究所が組み上げたこの「科学の結晶」に、男心をくすぐられないはずがありません。 


しかし、ここで「乗りたいから乗る」と子供のように我儘を言えば、側近たちは泣き落としで全力阻止に動くでしょう。

陛下はふう、と静かに息を吐き、極めて冷徹な「理詰め」の武装を固めました。


「……宮内大臣。そなたは、この『ひかり』が危険だと申すのだな?」


「ハッ。何分、前例のない未知の乗り物でございますゆえ……」


「ならば問うが、総力戦研究所が提出した耐久テストの報告書は読んだか? 車体には我が軍の重巡洋艦をも守る新素材・MBF(鋼紙)が惜しみなく使われ、台車の重心計算は電磁式シーケンサーで幾重にも検証されている。……そなたは、帝国が誇る頭脳と技術力が、余の命すら守れぬ粗悪品を作ったと、そう申すのか?」


「め、滅相もございません! しかし、東京駅の雑踏に陛下が立たれること自体が……」


陛下は畳み掛けます。


「よいか。今、極東の情勢は緊迫し、ソ連も米国も我が国の国力を疑いの目で見ている。ここで余が『危ないから』と旧来の御召列車に引きこもっていれば、列強はどう見る? 『日本は自国の新技術を、自国の君主すら信用していない』と侮るであろう」


側近たちは息を呑みました。


「余が第1号車に乗り、臣民の前に堂々と姿を見せる。それこそが『帝国のインフラは完全に安全であり、絶対の自信がある』という、世界に対する最大のデモンストレーションになるのだ。これは単なる行幸ではない。我が国のテクノロジーの威信を懸けた、**『兵器を持たない戦争プロパガンダ』**なのだよ」


国家の威信、技術の証明、そして冷徹な地政学的計算。

一切の感情を排した、あまりにも完璧な「理詰め」のロジックを前に、反対派の側近たちは返す言葉を失いました。陛下の言葉は、この国を実質的に動かしている「総力戦研究所の合理主義」そのものだったからです。


「……陛下の、深き御叡慮ごえいりょに恐れ入ります。ただちに、東京駅および沿線の警備態勢を最上級に引き上げ、御召し列車の準備を進めさせます」


ついに侍従長が深く頭を下げ、宮内大臣もそれに倣いました。

彼らが退出していく足音が消えるのを待ち、執務室の分厚い扉が完全に閉まった瞬間。

陛下は、机の上に置かれていた『クリーム10号とブライトブルー』に塗られた新幹線の精巧なスケールモデルをそっと手に取りました。


「……一八〇キロか」

誰にも聞こえない小さな声でそう呟いた陛下の口元には、先ほどの冷徹な君主の顔からは想像もつかないような、新しい玩具を待ちわびる少年のように無邪気で、ささやかな笑みが浮かんでいました。


【幕間:完】


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