表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
92/134

予備交渉

一九三四年十二月。ロンドン。

テムズ川から這い上がる凍てつくような濃霧が、会議室の重厚な窓ガラスを白く曇らせていた。

日本側首席全権、堀悌吉海軍中将は、手元の書類から静かに視線を上げた。

国内の派閥抗争たる「大角人事」において、条約派の巨魁として艦隊派の猛攻を退け、見事に海軍中枢に踏みとどまったこの英明なる提督の眼差しには、一切の迷いがなかった。

かつての盟友であり、第一次世界大戦を機に独立した「空軍」の創設に奔走してそちらへ移籍した山本五十六は、今頃、帝都の空で新しい長距離爆撃機のテスト飛行でも見上げているだろうか。堀は内心で微かに微笑むと、目の前に居並ぶ英米の代表団へと向き直った。

テーブルの向かい側では、米国代表のノーマン・デイヴィスとウィリアム・スタンレイ提督が、あからさまな苛立ちを隠そうともしていなかった。

「堀提督」

スタンレイが、分厚いファイルをテーブルに叩きつけるように置いた。

「我々は、貴国が委任統治領で行っている『土木工事』について、重大な懸念を抱いている。マリアナ、カロリン、マーシャル、パラオ……旧ドイツ領ミクロネシア全域、ナウル島、そしてニューギニア本島北部のセピック川以北に至るまで。貴国はこれら無数の島々を、巨大な要塞に変えつつある」

スタンレイは一枚の航空偵察写真を堀の前に滑らせた。

そこには、珊瑚礁を切り拓いて作られた長大な滑走路と、コンクリートで固められた巨大な砲座が写っていた。


「廃艦となった旧式戦艦の十二インチ(三〇・五センチ)砲を沿岸砲として据え付け、さらには島の高台に、奇妙な鉄塔群――我々の情報によれば、電波を使って遠方の艦船を探知する『レーダーサイト』なるものを増設していると聞く。これは、ヴェルサイユ体制における軍事制限条項の明らかな逸脱ではないのか!」

堀は表情一つ変えず、静かな、しかしよく通る声で答えた。


「スタンレイ提督。それは見当違いの非難というものです。ヴェルサイユ条約において、我が帝国が南洋諸島に防御施設を建設することは、事実上の黙認状態にあります。さらに言えば、これらは『要塞』ではなく『航路標識』と『気象観測所』、そして現地の治安維持のための最低限の防御施設に過ぎません。広大なシーレーンを持つ我が国にとって、電波探信儀レーダーによる荒天時の安全確保は、死活問題なのです」


「詭弁だ!」英国代表のクレイギーが声を荒らげた。「貴国は海洋の安全と言いながら、補助艦艇――巡洋艦と駆逐艦の大幅な保有枠拡大、いや、制限の完全撤廃すら要求している。5対5対3という比率を崩せば、太平洋のバランスは崩壊する!」

堀は小さく息を吐いた。ここが、旧世界の軍人たちとの決定的な断絶点だった。


「クレイギー卿。我が帝国は、他国を脅かすための『比率』を求めているのではありません。自国の生命線を守るための『絶対数』を求めているのです」


堀は、理路整然と語り始めた。


「我が国は、台湾、朝鮮、満州、そしてバンコク憲章に基づくアジア・アフリカ諸国との間に、長大な海上輸送路を持っています。これを守るには、広い海域をカバーするための『絶対的な隻数』が必要なのです。新たに設立された海上保安庁の巡視船程度では、大洋の波濤は乗り越えられない。比率という架空の数字ではなく、何千海里の航路を守るために何隻の駆逐艦が必要か。我々は純粋な物理的・地政学的な算段を述べているに過ぎません」


「純粋な算段、だと?」


スタンレイ提督が、顔を真っ赤にして立ち上がった。彼は別の青焼き図面を広げた。それは、米海軍情報部が決死の思いで入手した、日本の最新鋭艦の設計図だった。


「ならば、この怪物はどう説明するつもりだ! 『特一等輸送艦』……全長一四四メートル、速力二十ノット以上。七五ミリ高射砲に爆雷投下軌条を備え、さらにはカタパルト二基と航空機格納庫まで持っている! 極めつけは、船体後部のハッチからレールとローラーを使って、六〇隻もの上陸舟艇(大発・小発)を海面へ連続発進させるシステムだ!」


会議室がどよめいた。英米の代表たちは、敵前への一斉揚陸を可能にするこの恐るべき「舟艇泛水はんすい設備」の概念に戦慄していた。


「堀提督! 貴国はこれを『総トン数わずか七千百トン』の輸送船だと強弁している。だが、兵員二千二百名と六〇隻の舟艇、航空機を運用できる船が七千トン台で収まるはずがない! 貴国は明らかにトン数を過少申告し、条約の制限外で『実質的な強襲揚陸空母』を量産しようとしている!」


「お言葉ですが、スタンレイ提督」


堀の眼光が、冷たく鋭く光った。


「我が帝国海軍は、条約の規定をただの一文字も破っておりません」


堀は立ち上がり、図面を指さした。


「条約の定義を確認しましょう。本艦に、航空機が発着艦できる『飛行甲板』はありますか? ありません。発進した観測機は陸上基地へ向かう片道運用です。八インチ以上の主砲はありますか? ありません。魚雷発射管は? ありません。したがって、本艦は空母でも巡洋艦でもない、純然たる『制限外の輸送船』です。陸軍兵員を輸送し、未発達な港湾に舟艇を用いて物資を迅速に荷下ろしするための、ただの輸送インフラです」


「だが、七千百トンという数字は物理的におかしい!」


「おかしくはありません。貴国らが知らないだけです」


堀は、一切の躊躇なく、帝国が誇る技術の粋を口にした。


「本艦は、竜骨などの主要強度材以外に、特級硬化繊維素材(MBF)と、石炭灰を再利用した『フライアッシュ』を用いた新造材を多用しています。これにより、同等容積の鋼鉄艦に比べ、劇的な軽量化を実現しているのです。我々は素材革命によって合法的にトン数を抑えた。貴国らが旧来の重い鋼鉄に頼っているからといって、我が国の技術的企業努力を条約違反と呼ぶのは、それこそ言いがかりというものでしょう」


沈黙が落ちた。

スタンレイも、クレイギーも、デイヴィスも、言葉を失っていた。

彼らは悟ったのだ。日本はズルをしているのではない。日本は、ワシントン・ロンドン体制という「鋼鉄の重さと大砲の大きさ」を測る定規そのものを、新しい技術と新しい戦術ドクトリンによって、完全に無力化してしまったのだと。


「……堀提督」デイヴィスが絞り出すように言った。「貴国は、このテーブルをひっくり返すつもりか」


堀は静かに目を伏せた。

大洋を支配するための枠組みが、もはや日本の成長に追いついていない。条約を守ろうとすれば国家が窒息し、国家の防衛を全うしようとすれば条約の枠組みが意味を成さなくなる。もはや、決断の時だった。


一九三四年十二月二十九日。


堀悌吉は、用意していた一通の書簡を、内ポケットから取り出した。

それは、天皇陛下の裁可を得て、帝国政府が正式に発行した公文書であった。


「我々は、世界の平和と軍縮という理念を誰よりも重んじてまいりました。しかし、現状の条約機構は、我が国が直面する現実的な国防の要求、すなわち絶対的な航路防衛の必要性と、新たな技術体系の発展を包容する力を完全に失っています」


堀は、書簡をテーブルの中央へと差し出した。


「大日本帝国政府は、ワシントン海軍軍縮条約第五条の規定に基づき、本日、一九三四年十二月二十九日をもって、同条約の破棄を通告いたします」


時計の秒針の音が、異様に大きく響いた。

一つの時代が終わった音だった。一九二二年から十二年間、世界の海を縛り付けていた鎖が、今、完全に断ち切られたのである。


「堀……正気か。これは、果てしない建艦競争の、いや、戦争の引き金になるぞ」


スタンレイが血の気を失った顔で呟いた。


「戦争を望んでいるのは我々ではありません、提督」


堀は静かに一礼し、踵を返した。


「我々はただ、我々の海を、我々の技術で守る。それだけのことです」


会議室を出ると、ロンドンの街は相変わらず冷たい霧に包まれていた。

堀悌吉は外套の襟を立て、深く息を吸い込んだ。肺を満たす冷気が、心地よかった。

条約という名の古い定規は捨てた。明日からは、全く新しい尺度で海を測らねばならない。背負う重圧は計り知れないが、帝国の造船所では、すでに次の時代を担う者たちがハンマーを振り下ろしているはずだ。


「……五十六。そっちの空はどうだ。海は、俺が引き受けたぞ」


白く濁ったロンドンの空を見上げながら、堀は誰にともなく呟き、待機していた黒塗りの自動車へと歩き出した。無条約時代という名の、新たな荒波へと漕ぎ出すために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ