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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
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弾丸列車

一九三四年、秋。

遠くロンドンの地で海軍軍縮条約の予備交渉が決裂の危機に瀕し、世界が再び鋼鉄と火薬のきな臭い空気に包まれようとしていた頃。極東の島国・日本列島の地表と地下では、全く別の「戦い」が静かに、しかし熱狂的に繰り広げられていた。


それは、帝国の空間と時間を圧縮する物理的革命――「弾丸列車(新幹線)」計画の巨大な産声であった。

東京から名古屋へ至る東海道の地下深くでは、欧米の土木技術を総力戦研究所が独自に昇華させた「最新式密閉型シールド工法」が、日夜、固い岩盤と湧水層を食い破っていた。特級硬化繊維素材(MBF)で補強されたセグメントが次々と組み上げられ、前人未到の巨大な標準軌用複線トンネルが形作られていく。


一九三六年の東海道線(東京〜名古屋間)先行開通という至上命題に向け、国土の姿そのものが書き換えられようとしていた。

計画の全貌は、まさに帝国の骨格を造り直すに等しい。


第一期工事たる東海道を皮切りに、北は東北を貫き青森へ。南は山陽を下り、関門海峡の海底を抜けて長崎・鹿児島へ至る。さらに予算の許す限り日本海側への敷設も検討されており、本土の動脈が完成した暁には、そのレールは玄界灘の超巨大トレインフェリー、あるいは海底トンネルを経て、朝鮮半島から満州の荒野へと直結される手はずとなっていた。


そして今、その壮大な未来図の「心臓」が、静岡県内の一直線に伸びた試験線路の上で、静かに脈打とうとしていた。

銀色の流線型、目覚める


「架線電圧、二万五千ボルト・六〇ヘルツ。定格を維持。各車のインバータ、異常なし」


弾丸列車『試製〇(ゼロ)系統』。

朝陽を浴びて鈍く光るその車体は、従来の蒸気機関車のような黒く武骨な鉄の塊ではなかった。航空機『鳳』の風洞実験データから導き出された、弾丸のように滑らかな流線型の先頭形状。車体上部は軽量なMBFで構成され、継ぎ目やリベットの凹凸は一切ない。


三両編成の試験測定車内には、緊張と熱気が充満していた。

計器盤の前に陣取るのは、総力戦研究所の日本人技師たちだけではない。ナチスの台頭を嫌い日本へ帰化したドイツ人電気工学の権威、そして帝国大学で最新の論理回路を学んだ朝鮮半島や台湾出身の若きエリート助手たち。

人種も国境も越え、「科学という共通言語」のもとに集った頭脳たちが、一つの計器、一つのオシロスコープの波形を食い入るように見つめていた。


「出発信号、進行(青)。自動列車制御装置(ATC)、スタンバイ」


主任技師が短く告げた。


「試製〇系統、発車せよ」


運転士がマスターコントローラー(主幹制御器)のノッチを静かに手前に引く。

その瞬間、床下に配置された全ての駆動モーターが一斉に甲高い磁励音を奏で始めた。


「キィィィィン……」という未来的な唸り音と共に、車体が滑り出す。

驚くべきは、その「揺れのなさ」であった。蒸気機関車特有の、発車時の「ガクン」という乱暴な衝撃が全くない。広軌(一四三五ミリ)の絶対的な安定感と、すべての車両が自ら駆動する「動力分散方式」の恩恵により、試製〇系統はまるで氷の上を滑るかのように、しかし暴力的なまでの加速力をもって速度を上げていった。


時速一八〇キロの景色


「時速一〇〇キロ通過……一二〇……一五〇……!」


台湾出身の助手が、速度計の針を読み上げながら声を震わせた。

車窓の景色が、これまでの鉄道ではあり得ない速度で後方へと飛び去っていく。近くの電柱はもはや連続した線にしか見えず、遠くの富士山だけが静かに随伴しているように見える。


しかし、車内は奇妙なほど静かだった。MBFによる高度な防音・断熱構造と、ロングレール化された軌道により、「ガタンゴトン」というジョイント音さえ聞こえない。卓上に置かれた水入りのコップからは、一滴の水もこぼれていなかった。


「一八〇キロ到達! 実証実験での営業運転目標速度です!」


車内にどよめきが起きた。一九三四年の時点で、陸上を走る公共交通機関が時速一八〇キロで巡航するなど、欧米の常識では狂気の沙汰である。


ドイツから帰化した老技師が、信じられないものを見る目で「ゴット・イン・ヒンメル(天にまします神よ)……」と呟いた。


「モーター温度、規定値内。架線からの集電状態、極めて良好」


主任技師は、汗を拭いながらも目を輝かせた。


「よし。我々の『論理』が正しかったことが証明された。だが、限界はここではないはずだ。試験続行! モーターの出力をさらに上げろ!」


未知の領域、そして「論理の盾」

ノッチがさらに進められ、モーターの唸りが一段と甲高くなる。

架線から莫大な電力が流れ込み、試製〇系統は時速一八〇キロの巡航状態からさらに加速を始めた。


「時速二〇〇キロ突破!……二一〇……二二〇……!」


未知の領域だった。空気の壁が目に見えない巨人の手となって車体を押し返そうとするが、流線型のカウルがそれを鋭く切り裂いていく。床下の車輪は猛烈な勢いで回転し、モーターの限界回転数に迫りつつあった。


「時速、二三五キロ……! まだ伸びます……!」


朝鮮出身の若き助手が、ストップウォッチと計器を交互に見ながら叫んだ。

その時だった。


**「時速二三八キロ」**に達した瞬間。


ガタッ、ガタタタッ!


これまで絹のように滑らかだった車体に、突如として微小な、しかし不吉な横揺れが発生した。

高速走行時に特有の「蛇行動(ハンティング現象)」の初期症状である。車輪のフランジがレールに激しく打ち付けられ始め、このまま数秒放置すれば、車体はレールから弾き飛ばされ大惨事となる。


「横揺れ検知!」


運転士が手動ブレーキに手を伸ばそうとした、その刹那。

人間の反射神経よりも早く、車内に備え付けられた「論理」が牙を剥いた。


カシャァァァン!!

運転室背後の巨大な配電盤の中で、電磁式シーケンサ(自動列車制御装置)が異常な振動と速度の乖離をミリ秒単位で検知し、安全回路を強制的に遮断したのだ。


「ATC作動! 非常ブレーキ介入!」


凄まじい制動力が編成全体を襲った。車輪にブレーキパッドが叩きつけられ、摩擦による火花が床下で激しく散る。しかし、各車両に分散配置されたブレーキシステムが完璧に同調しているため、車体が前のめりになるような危険な挙動はない。


キキィィィィィィィッ!!


強烈な減速G(重力)に、技師たちは手すりにしがみついた。車窓の景色が急速に輪郭を取り戻し、やがて完全に静止する。

プシューッ、という圧縮空気の抜ける音だけが、試験線路の静寂の中に響き渡った。

脱線することなく、試製〇系統は見事にその巨体を緊急停止させたのである。



歓喜の終着点

車内は、数秒間、水を打ったような静寂に包まれていた。

全員が、自分が生きていること、そして計器盤が示す「最高速度二三八キロ」という途方もない数字を確かめていた。


「……各部、損傷なし。システムは正常に非常停止の手順を完了しました」


助手の震える声が、沈黙を破った。


「やった……」


主任技師が、ぼうっとした声で呟いた。そして、次の瞬間には顔をくしゃくしゃにして叫んでいた。


「やったぞ!! 俺たちの計算は完璧だった!! 機械が人間を守り切ったんだ!!」


「ヤァァァァァッ!!」


爆発的な歓声が測定車内に響き渡った。

書類が宙に舞い、誰もが我を忘れて立ち上がった。

ドイツ人技師が「ウンクラウプリッヒ(信じられない)! 世界一だ!」と叫びながら日本人技師に抱きつき、背中をバンバンと叩く。


計器にかじりついていた朝鮮人と台湾人の若き助手たちも、涙を流しながら互いの手を取り合い、そして主任技師と固い握手を交わした。


そこに、肌の色や生まれの国、あるいは欧米が強いた「格付け」などというものは一切存在しなかった。

あるのは、不可能とされた「時速二〇〇キロ超えの世界」を、自分たちの手で切り拓いたという、純粋で圧倒的な科学者としての連帯感だけであった。


一九三四年、秋。

世界が古い軍艦の「トン数」という定規で争っている裏側で、日本の若き技術者たちは、電子と論理の力で「時速二三八キロ」という未来の扉をこじ開けた。

窓の外には、夕日に照らされた銀色の線路が、どこまでも真っ直ぐに、まだ見ぬ大陸の果てへと向かって伸びていた。


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