奉天会戦 2
1905年2月23日、満洲平原・奉天北方。
冬の朝は、冷たく澄み渡り周囲に静けさを与えていた。
雪が薄く積もった大地は、白く広がり、遠くの丘陵が淡い影を落とす。
風が吹くたび、雪煙が舞い上がり、平原の静寂をわずかに乱した。
満洲軍総司令部は、奉天近郊に前進を完了し、大山巌元帥の指揮の下、全軍が静かに息を潜めていた。
日本軍側総兵力約25万。
第一軍(黒木為楨)は左翼に配置され、平原の西側丘陵地帯を担当。
第二軍(奥保鞏)は中央を固め、正面高地のロシア軍陣地を牽制する役目を負う。
第三軍(乃木希典)は旅順からの北進を活かし、右翼主力として機動力を発揮する態勢を整えていた。
第四軍(野津道貫)は右翼に近い位置を取る。
研究会戦法の影響は、すでに各軍に浸透し始めていた。
正面決戦を基調としつつ、左右翼の大規模迂回を加えた新戦術は、古の機動戦と近代の火力が融合した、日本独自の戦法として形を成しつつあった。
一方でロシア軍は、奉天北方に約30万を集中させていた。
クーロパトキン将軍は、多層の防御線を構築し、機関銃と重砲を密集配置して待ち構えていた。そのかたちはまさしく、ロシアの伝統的な防御陣地とも言える、特徴的なそれであった。
旅順の早期陥落がもたらした動揺は残り、補給の不安と士気の低下が影を落としていたが、平原での決戦を期し、逐次投入で日本軍を消耗させる計画を立てていた。
ロシア軍の陣地は、平原の特性を活かした横広の配置で、中央の高地に重砲を集中、側面は相対的に監視を薄くしていた。
会戦の前期は、2月23日から26日頃までの約4日間。
この期間、日本軍は中央の牽制を維持しつつ、左右翼の迂回運動を着実に進め、ロシア軍の防御態勢に亀裂を生じさせた。
雪の平原は、両軍の運命を静かに見守っていた。
開戦の朝——中央牽制の開始
2月23日朝6時、日本軍の砲兵が一斉に射撃を開始した。
第二軍を中心とした中央部隊は、重砲の轟音とともに、奉天北方のロシア軍主陣地に対し準備射撃を加え、それにより雪煙が舞い上がり、平原の静寂を破る。
この射撃は、散発的でかつ持続的なものだった。
目的は、ロシア軍の注意を正面に固定し、機関銃と重砲の射界を正面に向けさせること。
歩兵は塹壕線からわずかに前進し、偽の陣地構築を繰り返した。
ロシア軍は、これを総攻撃の前兆と判断し、返礼射撃を集中させたが、日本軍はむやみに前進することをせず、その損害は最小限に抑えられた。
中央部隊の動きは、研究会戦法の欺瞞要素を体現していた。
散発射撃と偽装作業により、敵の予備隊を正面に引きつけ、左右翼の迂回を隠蔽する。ロシア軍は見事にその策に嵌った。
平原の開けた地形で、この牽制は効果的に機能した。
ロシア軍側では、クーロパトキンが指揮所で地図を睨み、参謀たちに指示を飛ばしていたが、彼は判断を誤っていた。
彼は、日本軍の動きを従来の正面突撃と見なし、予備隊を中央に温存した。
機関銃陣地は正面高地に密集し、重砲は射界を正面に固定。
ロシア軍の防御線は、平原の特性を活かした横広配置で、側面の監視は相対的に薄かった。それが致命的な隙を生む。
この誤算が、日本軍の迂回を許す要因となった。
左翼迂回——第一軍の機動
同時刻、日本軍左翼の第一軍は、平原の西側丘陵地帯を静かに前進を開始した。
黒木為楨の指揮の下、騎兵支隊が先行し、敵哨戒線を次々に排除しながら進んだ。
研究会戦法の影響で、騎兵は広範な偵察を担い、最適経路を確保。
後続の歩兵は数百名単位の機動塊に分散し、地形の死角を縫うように移動した。
軽砲兵は随伴し、必要に応じて側背射撃の準備を進めた。
この迂回は、ロシア軍左翼の補給路を脅かすことを目的とし、直接的な正面攻撃を避けた動きであった。
丘陵の凹凸を活かし、夜間行軍を交えながらの進撃は、敵の監視を回避。
ロシア軍の左翼守備隊は、日本軍の動きを正面牽制の延長と誤認し、対応が遅れた。
騎兵の機動性は、雪の平原で最大限に発揮され、敵の側面を急速に迂回した。
第一軍の進撃は、研究会メンバー秋山好古の騎兵思想を体現していた。
広大な平原を「風の如く」疾駆し、敵の退路を脅かす。
分散した機動塊は、地形を味方につけ、敵の逐次投入を誘う形となった。
右翼迂回——第三軍の再現
東側では、第三軍が旅順戦法をそのまま再現する形で大迂回を開始した。
乃木希典の指揮の下、松川敏胤の立案に基づき、森林と低地の混在地帯を活用。
騎兵が先行偵察を徹底し、歩兵備は分散進撃を採用。
軽砲兵の側背展開準備が進められ、敵補給路の遮断を狙った。
第三軍の動きは、旅順の成功を基にさらに洗練されていた。
夜明け前の闇を活かし、敵哨戒を次々と排除。
ロシア軍右翼は、平原の開けた地形で監視を強化していたが、森林死角の活用を予測できず、対応が後手に回った。
機動塊の分散は、敵の集中火力を回避し、側背からの浸透を可能にした。
ロシア軍の初期対応と誤算
クーロパトキンは、正面向かいの散発射撃に全神経を集中させた。
中央の機関銃・重砲を強化し、予備隊を正面に温存。
側面からの報告が遅れ始めても、最初は「小規模偵察」と判断した。
ロシア軍の防御線は、平原の特性を活かした横広の配置で、側面の谷地・森林は監視が薄かった。
この誤算が、日本軍の迂回を許す要因となった。
ロシア軍の参謀たちは、旅順の敗北を「要塞特有の失敗」と考え、平原戦では正面決戦で優位を保てると信じていた。
しかし、日本軍の新戦法は、平原こそ機動の場として活用するものだった。
前期の進展——迂回の深化と亀裂の拡大
2月24日〜25日、日本軍の左右翼迂回は着実に深化した。
左翼第一軍は、ロシア軍左翼の補給路に接近し、騎兵の急襲で輸送隊を脅威化した。
右翼第三軍は、東側森林を縫い、敵背後高地に軽砲兵を展開準備。
中央第二軍の牽制は持続し、ロシア軍の予備隊を正面に引きつけた。
ロシア軍は、側面の異常を認識し始め、予備隊を逐次投入したが、分散した日本軍備の機動性に追いつけはしなかった。
クーロパトキンは、奉天全体の防御線が揺らぎ始めていることに気づき、焦りを隠せなかった。
補給路の脅威が増大し、陣地の分断が始まった。
2月26日までに、日本軍の迂回部隊は敵背後への浸透をほぼ完了。
ロシア軍の補給路が脅威にさらされ、陣地の分断が始まった。
雪の平原は、静かに戦いの舞台を整えていた。
研究会戦法が、満洲平原で初めて本格的に試され、ロシア軍の防御態勢に亀裂を生じさせた。
古の風が、雪の平原を吹き抜け、新たな決戦の幕開けを告げていた。




