始まり
佐藤綾子にとって、1933年(昭和8年)の春は、20年前のあの暑い夏の日と同じくらい、あるいはそれ以上に、人生の震えるような転換点となっていた。
46歳になった彼女は、いまや陸軍通信部において「生きる伝説」と呼ばれる女性軍属の指導官である。かつての男勝りな鋭さは、長年の軍務と後進への教育を通じて、研ぎ澄まされた日本刀のような、静かな威圧感へと変わっていた。
彼女が目撃しているのは、史実とは決定的に異なる、**「科学と合理性が招いた民主主義の爆発」**であった。
1933年早春 東京・代々木 陸軍通信学校
綾子は、鋼紙(MBF)製の机に置かれた号外を手に取っていた。
そこには、前年度末の法改正を受け、朝鮮・台湾出身の男性に選挙権が付与された後の、初の帝国議会選挙の結果が躍っていた。
『帝国議会、多民族代表の登壇。新時代の幕開け』
「……ふん。男なら、どこの生まれだろうと、まずは権利が貰えるってわけか。」
彼女の口の悪さは相変わらずでしたが、その声には、20年前のような絶望的な苛立ちではなく、ある種の「確信」が混じっていた。
彼女の周りで働く若き女性軍属たちは、最新の真空管式計算機の前に座り、あるいはドイツ人技師と対等にドイツ語で議論を交わしながら、複雑な暗号を解読している。
それは、この大日本帝国でも重要な仕事である。
総力戦研究所が導き出した結論は、あまりにも冷徹で、それゆえに綾子たちにとって都合の良いものであった。
「国家の総力とは、性別や出自を問わず、最も適した者に最も適した席を与える『機能の総和』である」
この思想が、皮肉にも大正デモクラシーの理想を、軍部という「力」の側から現実のものにしていったのだった。
1933年4月 帝国議会議事堂前
綾子は、軍属の制服――凛とした濃紺のジャケットと、活動的なキュロットスカート――に身を包み、新しく完成した議事堂の前に立っていた。
傍らには、彼女が育て上げた教え子の一人であり、今や情報戦のスペシャリストとなった台湾出身の女性軍属、李も並んでいる。
「佐藤教官。今日、本当に行われるのですね?」
「ああ。研究所の連中が数字で叩き出したんだ。『女性を政治から排除し続けることは、国家リソースの50%を死蔵させるに等しいシステムエラーである』とな。……ロマンもへったくれもない理由だが、私は嫌いじゃないよ。」
議事堂内では、今まさに歴史的な決議が行われようとしていた。
朝鮮・台湾への選挙権拡大に続き、「婦人参政権」の付与。
史実では、軍部の台頭とともに女性運動は抑圧されていっが…、しかし、この世界線の軍部は、女性を「銃後で耐える母」ではなく、**「高度な技術と情報を操る兵站の担い手」**として定義してしまっただった。
「秋山さんは、これを見たかったのかねぇ……」
綾子は、ふと、炒り豆を噛みながら自分を「面白い女」と笑った、あの変人の少将を思い出した。彼がかつて語った「規律は強さから生まれる」という言葉。いま、その強さは、自ら思考し、自ら国を選ぶ「権利」という形になろうとしていた。
夕刻の隅田川沿い 渋沢栄一が見たのと同じ空の下
決議の報を受け、綾子は一人、隅田川のほとりを歩いていた。
川面は透き通り、かつての悪臭は微塵も存在しないまるで最初からそうであったかのようである。
そこには、鋼紙製の鞄を提げ、軽やかに笑いながら帰路につく「働く女性たち」の姿があった。彼女たちは、今夜から「選ばれる側」ではなく「選ぶ側」になるのである。
綾子は、胸元の内ポケットから、大切に持っていた20年前の「合格通知」を取り出した。
一度は不合格とされ、それでも、ある一人の男の直感と、自分の意地でこじ開けた扉。
「巴御前にはなれなかったが……。新しい国の『番人』くらいには、なれたかね。」
彼女は通知を再び仕舞い、背筋を伸ばして歩き出しました。
46歳の佐藤綾子。
彼女の戦いは、これからが本番であった。
軍属としての20年は、この「新しい一歩」を踏み出すための、長い訓練期間に過ぎなかったのだ。
その日の夜。東京の空には、最新の防空レーダーの電波とともに、女性たちが初めて政治という舞台に立つことへの、歓喜と、それ以上に重い「責任」の気配が満ちていたのである。
1933年。日本は、世界で最も早く「総力戦」の定義を「国民全員の権利と義務」へと書き換えた国となったのだ。
綾子の視点から見た、この「拡大された民主主義」。
それは、単なる「平等」ではなく、科学と合理性が導き出した「必然」としての進歩であった。
大日本帝国は、世界で最も開かれた人種と性差を超えた国となったのだ。




