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古の灯火  作者: 丸亀導師
日露戦争
8/82

奉天会戦


1905年1月2日、満州軍・参謀本部作戦課。


新年の朝は、例年より重い静寂に包まれていた。

参謀本部の作戦室では、電信機の断続的な音だけが響き、将校たちの顔に緊張と期待が交錯していた。

午前九時過ぎ、旅順方面からの長文電報が届いた。

暗号解読係が急ぎ内容を書き写し、作戦課長・田中義一少将の手元に届けられた。


田中は電文を一瞥し、眉を強く上げた。


「旅順陥落、損害軽微。第三軍、なお健在。」


短く、しかし決定的な一文。署名は乃木希典。

室内にいた将校たちが一斉に顔を上げた。


児玉源太郎次長が、静かに立ち上がり、電文を手に取った。

普段は冷静沈着な児玉の瞳にも、わずかな驚愕が宿っていた。


「損害軽微……だと?」


児玉は低く呟き、続けて詳細報告を読み進めた。

第三軍の総損害は約八千名。

歴史に残る旅順攻囲戦で予想された五万を超える損害の、わずか六分の一に過ぎなかった。


要塞は十二月下旬に白旗を掲げ、元日に正式に降伏。


ロシア太平洋艦隊の残存艦艇はすべて自沈し、旅順港は完全に日本側の支配下に入った。


作戦課の壁に掲げられた満洲・旅順方面の大図が、児玉の背後に広がっている。

その図上で、旅順は長らく赤い敵勢力圏として描かれていたが、今や青い日本軍の矢印がその中心を貫いていた。


「これは……乃木の戦法が変わったということだ。」


児玉は静かにしかし確かに言った。


参謀本部では、乃木希典の正面攻撃偏重を懸念し、児玉自身が何度も慎重な助言を送っていた。

しかし今回の電文には、迂回包囲、側背砲撃、夜間機動といった、これまでにない戦術的記述が並んでいた。


田中義一が口を開いた。


「報告によると、第三軍参謀・松川敏胤中佐の提案を全面採用したとのことです。

詳細は不明ですが、正面攻撃を抑え、側面からの包囲を主力とした模様です。」


児玉は腕を組み、深く考え込んだ。

参謀本部で既に報告を受けていたが、直接聞くことで、その革新性の深さがより明確になった。


「ともかく、旅順がこれほどの低損害で陥落したことは、日露戦争全体の帰趨を決したに等しい。」


結果を基に、児玉は決断を下した。


「ただちに天皇陛下にご報告申し上げる。

また、大山巌満洲軍総司令官に急電を打て。

第三軍を速やかに北進させ、奉天方面のロシア主力と決戦する準備を整えるのだ。」


室内の将校たちは一礼し、動き始めた。

電信機が再び活気づき、指令が次々と発信されていく。

しかし、作戦室の隅で、若手の参謀数名が小声で囁き合っていた。


「損害八千……信じられん。

第一次・第二次総攻撃で二万を失ったのに、第三次でこれほど抑えたとは。」


「乃木閣下が、正面突破を断念したのか?あの頑固者が……。何があった?」


「いや、きっと正面の高地を決戦で制したのだろう。

ロシア軍が疲弊し、抵抗が弱かったに違いない。」


彼らは、まだ迂回包囲の詳細を知らなかった。

参謀本部では、乃木の正面攻撃偏重が常識だった。

松川敏胤の異端の策が、旅順を落としたなど、想像もしていなかった。


児玉は窓辺に立ち、東京の冬空を見上げた。

参謀本部の者たちは誰も知る由もない。旅順の陥落は、単なる一要塞の占領ではなかった。

日本軍が、ドイツ式教範の呪縛から一歩踏み出し、独自の戦法を確立した瞬間だった。


そしてその変化の火種は、遠い旅順の天幕で、古書の一冊と一人の若き参謀の注釈から始まったことを、児玉はまだ完全に知る由もなかった。


参謀本部の一室で、新たな戦略図が広げられ始めた。彼等が目指すその先を示しそして確信の道をゆく。

日露戦争は、ここから決定的な終局へと向かおうとしていた。




1905年1月下旬、遼陽・満洲軍総司令部。


厳冬の満洲平原を、風が鋭く吹き抜けていた。

雪煙を巻き上げながら、一台の馬車が遼陽の満洲軍総司令部に到

着した。

馬車から降り立ったのは、旅順攻囲戦を終えたばかりの乃木希典第三軍司令官だった。


軍帽を深く被り、外套の襟を立てた姿は、旅順の寒さと戦塵に鍛えられたままだったが、その表情には、かつての苦悩に代わって静かな自信が宿っていた。


総司令部正面では、大山巌元帥と参謀長の児玉源太郎が、すでに待っていた。

大山は穏やかな笑みを浮かべ、児玉は鋭い眼光で乃木を迎えた。


「乃木君、よくぞ無事で。」


大山が静かに声をかけ、固く握手を交わした。

乃木は深く一礼し、短く答えた。


「閣下のご指揮のもと、旅順を陥落させることができました。」


三人はすぐに総司令部の作戦室へと移動した。

暖炉の火が明るく燃え、壁には満洲全域の大規模地図が掲げられていた。懸念であったロシアの動き、それを捉えるために乃木はそれをじっくりと覗く。


ロシア軍主力が奉天北方に集結しつつある状況が、赤い矢印で示されている。

児玉が地図を指しながら、早速本題に入った。


「旅順の速やかな陥落は、戦争全体の帰趨を決したと言っても過言ではない。

第三軍の損害が予想をはるかに下回ったことも、満洲軍全体の作戦余裕を生んだ。旅順での詳細を聞かせてもらいたい。」


乃木は静かに頷き、松川敏胤を伴って作戦室に入っていた若手参謀を一瞥した。

松川は控えめに立っていたが、その存在がすでに児玉の注意を引いていた。


若手の参謀が、第3軍参謀長を差し置いて参謀司令官の後ろに立つ。それは異様な光景であった。


「従来の正面攻撃を断念し、迂回包囲策を採用した結果です。

第三軍参謀・松川敏胤中佐の提案によるもので、古の日本戦史を近代戦に適用した戦法でした。

正面は最小限の牽制に留め、左右翼から大迂回を敢行。

騎兵の機動偵察と側背砲撃を併用し、ロシア軍の補給と指揮を断ちました。」


大山が興味深げに身を乗り出した。その瞳は、俄に信じ難い物を観ながらも、何処か期待に胸を躍らせているかのようだ。


「古の戦史、か。武田信玄の戦法を応用したと聞いているが…どうなのだ?」


乃木は頷き、作戦の立案者である松川に視線を向けた。


「松川中佐、詳しく説明せよ。」


松川は一歩進み出て、落ち着いた声で自信と確信を持って語り始めた。


「『甲陽軍鑑』の教えを基に、部隊を数百名単位の機動塊とし、地形を活かした夜間迂回を繰り返しました。

秋山好古閣下の騎兵戦術、福田雅太郎閣下の砲兵運用、明石元二郎閣下の欺瞞戦術を統合し、死中活を求めた結果でございます。」


児玉は腕を組み、深く考え込んだ。

参謀本部で既に報告を受けていたが、直接聞くことで、その革新性の深さがより明確になった。

前例のない戦い、しかしそれは何処か普仏戦争以前のナポレオンの戦い方に、何処か似ているような形でもある。

だが、決定的に何かが違うのだろうと。耳を傾けた。


「これは、ドイツ式教範を超えた、日本独自の戦法の確立を意味する。

第三軍は健在である以上、奉天会戦に投入可能だ。

ロシア軍主力はすでに疲弊しつつあり、ここで決戦を強いる。」


大山が静かにしかし力強く結論を下した。

この決定は、戦場の帰趨を確実なものとする為の最後の一匙である。


「乃木君、第三軍を率いて北進せよ。満洲軍の右翼を任せる。」


その言葉に乃木は目をきつく結び、再び深く一礼した。


「謹んでお受けいたします。」


作戦室を出る際、児玉が乃木の肩に軽く手を置いた。


「旅順での決断は、正しかった。これからが本当の戦いだ。」


乃木は静かに答えた。


「第三軍は、なお戦う力を残しております。」


外では雪が静かに降り続いていた。

旅順の勝利を携えた乃木希典と第三軍は、満洲軍に合流し、日露戦争の最終決戦――奉天会戦へと向かう新たな段階に入った。

日本軍学研究会の小さな灯火は、ここにきて、軍全体に広がり始めていた。


第三軍の兵士たちは、旅順の野営地を後にし、北へ向かう列車に乗り込んだ。

損害が軽微だったため、連隊はほぼ満員の戦力を保っていた。

兵士たちの間では、勝利の喜びと、次の戦いへの覚悟が交錯していた。


「旅順が落ちたんだ。次は奉天でロシアをぶっ倒す番だ。」


「損害が少なくてよかった。みんな生きてる。」


この軍の士気は、歴史上何処の国のものよりも高かったであろう。彼等は自らの手で、世界で最も堅牢な要塞に打ち勝ち、西洋の教えを東洋の教えが凌駕したのだから。


列車が動き出し、満洲平原を北へ進む……。

雪の白い大地が、窓の外を流れていく…。


第三軍は、兵を纏めて満洲軍へと合流の道を進んだ。 



1905年2月上旬、遼陽・満洲軍総司令部作戦室。 


厳冬の満洲平原は、雪に覆われていた。

総司令部大天幕は暖炉の火で暖められていたが、外の寒気は容赦なく隙間から入り込み、将校たちの外套の襟を立てさせた。


長机の上座に大山巌元帥が座り、傍らに児玉源太郎次長。

対面に乃木希典第三軍司令官とその参謀長伊地知幸介、松川敏胤中佐らが並ぶ。


満洲軍の各軍司令官――黒木為楨第一軍、奥保鞏第二軍、野津道貫第四軍――とその参謀長たちも同席し、天幕内は二十名を超える将校で埋め尽くされていた。


大山が静かに口を開いた。


「諸君。旅順の勝利は、我が軍の誇りである。

第三軍の損害が軽微に抑えられたことは、奉天決戦に大きな余裕を与えてくれる。乃木君、詳細を聞かせてくれ。」


乃木は深く一礼し、ゆっくりと語り始めた。


「旅順攻囲戦は、従来の正面攻撃を断念し、迂回包囲策を採用した結果です。

第三軍参謀・松川中佐の提案によるもので、古の日本戦史を近代戦に適用した戦法でした。」


天幕内に、わずかなざわめきが起きた。

黒木為楨が、眉をひそめて尋ねた。


「迂回包囲……? 正面を避け、側背へ回り込むという策か。

ドイツ教範では、決戦は正面突破にありと教えるが。」


奥保鞏が、続けた。


「南山の戦い、得利寺の戦いで、我々は正面の機関銃に苦しんだ。

迂回など、地形次第では統制が乱れ、各個撃破を招く恐れがあるのではないか?」


伊地知幸介が、声を抑えて反論した。


「閣下。旅順の地形は丘陵と谷地が多く、正に迂回に適していました。正面の高地を牽制に留め、左右翼から大迂回を敢行。

夜間行軍と分散進撃で敵の監視を避け、側背から砲撃を加えたのです。」


野津道貫が、興味深げに身を乗り出した。


「分散進撃……数百名単位の小部隊か。それで要塞を包囲できたというのか…。にわかには信じ難いな」


松川敏胤が、一歩進み出て、地図を指した。


「はい。部隊を数百名単位の機動塊とし、地形を活かしました。

騎兵を先行偵察に、軽砲兵を側背に急展開。

欺瞞行動で敵の注意を正面に固定し、三方向からの同時包囲を完成させたのです。」


児玉源太郎が、静かに尋ねた。


「その機動塊の編成は、古の戦法を基にしたものか。」


松川は頷いた。


「武田信玄の戦法を参考にしております。

『甲陽軍鑑』の教えを、近代の銃砲に適用しました。」


天幕内に、再びざわめきが起きた。

ある参謀が、声を上げた。


「古の戦法? 戦国時代の武将の真似事で、近代要塞を落とせたというのか。ドイツの教範を無視して、封建的な戦術で……。」


別の参謀が、苛立ちを隠さず言った。


「損害が軽微だったのは、運が良かっただけではないのか?

ロシア軍が疲弊していたから、正面を抑えれば落ちたのかもしれん。」


伊地知が、声を荒げて反論した。


「運ではない! 第一次・第二次総攻撃で二万を失った時と、同じロシア軍だ。正面を固めた敵を、迂回で崩したのだ。

結果がすべてを証明している!!」


口論へと転じようとするところで大山が、手を上げて制した。


「諸君、落ち着け。旅順は落ちた。それが事実だ。

問題は、この戦法を奉天でどう活かすかだ。」 


黒木が、慎重に言った。


「奉天は平原だ。旅順のような丘陵ではない。

迂回は可能だが、広大な正面で分散すれば、統制が取れなくなる恐れがある。」


それは最もな事である。密集した部隊であるほうが、部隊の運用を行うには小さな労力で事足りる。しかし、その為には確実に機動性が犠牲となる…。


松川が、静かに答えた。


「平原こそ、騎兵の機動が活きます。

秋山好古閣下の騎兵戦術を併用すれば、大迂回が可能であります。

砲兵の側背運用で敵陣を軟化させ、歩兵の出血を抑えられます。」


奥保鞏が、首を振った。それはあまりにも不確実性が高いのではないか?ということである。


「騎兵の機動は認めるが、歩兵を分散させるのは危険だ。

ドイツ式の重厚編成で正面を突破する方が、確実ではないか。」


議論は熱を帯びた。

古の戦法を異端視する声と、結果を重視する声が交錯する。

児玉が、静かに口を開いた。


「諸君。旅順の勝利は、結果だ。

ドイツ教範は参考に留め、日本独自の戦法を模索する時が来たと私は考える。奉天で、この策を試す価値はある。」


そしてその場を占めるために大山が、結論を下した。


「乃木君の第三軍を右翼に配置し、松川中佐の戦法を一部取り入れる。各軍は、機動と迂回の可能性を検討せよ。

全軍が纏まるまで、議論を続ける。」


天幕内の空気が、徐々に変わり始めた。

疑念は残っていたが、旅順の勝利という事実が、将校たちの心を動かしていた。


研究会メンバーたちは、互いに視線を交わした。古の教えが、満洲軍全体に広がり始めていた。

議論は夜遅くまで続き、ようやく全軍の戦術が纏まった。


正面決戦を基調としつつ、迂回・機動の要素を加えた新戦法。

それは、日本軍学研究会の灯火が、ついに軍全体を照らす瞬間だった。

奉天会戦は、目前に迫っていた。

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