世界恐慌終
1931年2月 ドイツ ベルリン
閑散としたアパートメントが立ち並ぶ、ジードルング。中庭には、嘗て存在していたはずの木々が伐採され、そこには食物が植わっている。
ただ、この寒い時期になるとそれすらも育たなくなり……、腹を満たすことすら出来なくなってきていた。
大恐慌は、ベルリン市内を呑み込み路地には暗雲が立ち込めている。
そんな集合住宅に住まう、一人の若手学者。彼の名前は、フリードリヒ・シュミット、アインシュタインの教え子の一人であり、若手の核物理学者であった。
年齢は30歳、しかし学位を取得しているにも関わらず、彼は定職にすら就けていない…。
どれ程頭が良くても、働き口がないのだ…。
「パーパ…、本当に行くの?」
彼には子供が一人いた、娘のブランシュである。歳は5歳、学生での結婚は彼の生活に苦を与えていたが、世界恐慌になる前迄は、貧しくも幸せに暮らしていた…。
「あぁ…勿論だよ?お母さんとブランシュも一緒に、行こう。」
「マーマは生きたくないって…、ねぇ…本当に行かなきゃ駄目なの?」
ベルリンは、ドイツ1の都である。そんな場所から離れなければならない…、それは彼にとっても大きな決断だった。
「良いかい?ママもパパも本当はベルリンにいたい、けど皆苦しいんだ。苦しいのは嫌だろう?お腹が空くのは嫌だろう?僕はね、君たちがひもじい思いを、して欲しくないんだ…。」
彼の言葉は、弱気だった。
彼が何処に行こうとしているのか?それは、1枚のチラシが答えを与えてくれる。
―――――
ヴェルサイユ」に翼を折られた鷲たちよ。
東洋の島国には、貴殿が磨くべき「原石」が山のように積まれている。
欧州の知性たる貴殿に問う。
貴殿の頭脳にある美しい数式は、パンを買うための小銭に変わるだけで終わるのか?
実験室は閉鎖され、研究費は枯渇し、貴殿が本来世界を導くはずだった「理論」は、ノートの中で死につつあるのではないか。
極東の大日本帝国・総力戦研究所は、貴殿に提案する。
我々は、石炭灰や植物繊維から強靭な構造体を作り出すことに成功した。
だが、正直に告白しよう。
我々の技術は「粗野」である。
形にはなったが、理論的な裏付けと化学的な純度が欠けており、真の実用化という壁の前で足踏みをしている。
我々が用意したのは「キャンバス」だ。
そこに「絵」を描き、命を吹き込む筆使い(理論・化学合成)を知っているのは、世界で貴殿たちドイツの科学者しかいない。
【募集領域: プロジェクト『T』――ミッシング・リンクの結合】
以下の分野において、日本の「職人技術」に「科学的完ぺきさ」を与える者を求む。
1. 有機化学・精製工学分野(プロジェクト:メディカル・ポリマー)
現状の課題: 我々は海藻から止血材を成形したが、微細な不純物による拒絶反応を克服できていない。
求める能力: 高分子の分留・精製プロセス、および生体親和性を持つ合成樹脂の**「純化理論」**。貴殿の手で、これを魔法の薬へと昇華させてほしい。
2. 量子物理・信号処理分野(プロジェクト:エレクトロ・アイ)
現状の課題: 我々は強力な超短波アンテナを建造したが、受信波はノイズの海に沈んでいる。
求める能力: 確率論的信号処理、および量子力学的アプローチによる**「ノイズ解析アルゴリズム」**の構築。我々の「目」に、焦点を与えてほしい。
3. 触媒化学・材料工学分野(プロジェクト:ハイブリッド・マテリアル)
現状の課題: 我々の「紙の装甲」は、高温多湿下での結合崩壊(加水分解)という弱点を抱えている。
求める能力: 耐候性フェノール樹脂の合成、および石炭灰を用いた**「新規触媒」**の開発。
【待遇・条件】
報酬: 帝国大学教授職の3倍相当を保証(円、または金地金での即時支払い)。
生活: 東京の閑静な住宅街に、ドイツ式の邸宅と使用人、子女のための教育環境を用意する。
環境:
予算の上限はない。
条約による制限もない。
貴殿の理論を即座に形にする、数千人の熟練工と巨大な実験場(南洋・シベリア)がある。
「祖国」は貴殿を養えないかもしれない。だが「科学」は貴殿を待っている。
飢えに震えるベルリンを後にせよ。
東洋の帝都で、貴殿の頭脳は再び「王」となるだろう。
連絡先:
在ベルリン日本帝国大使館 特務技術アタッシェ・「S」
または、ハンブルク港 第4倉庫**「邦油丸(Hoyu-Maru)」**事務所まで。
※本船は来週出航する。船内には温かいスープと、貴殿のためのラボが用意されている。
――――
その囁きは、まるで悪魔の言葉であった。
金と寝床と食料さえもままならないこのドイツと、それを安定的に与えてくれるという、極東の島国…。
我が娘の身を案ずるのならば、どちらを選ぶべきか…彼は考え抜いた末に、結論を出したのだ。
「だから…、ママもわかってくれるさ…。さあ、準備を続けようか。」
彼は運命の岐路に立っていた。
それから数日後の1931年3月上旬、彼はハンブルク港 第4倉庫に家族全員で並んでいた。
ハンブルク港の第4倉庫前。
氷雨が石畳を叩きつけるその場所には、フリードリヒと同じように襟を立て、帽子を目深に被った男たちの長い列ができていた。彼らの多くは眼鏡をかけ、痩せこけ、その瞳には「飢え」と、隠しきれない「知的好奇心」の光が混在していた。
「……寒い」
妻のエリザが身を縮める。ブランシュは無言でフリードリヒのコートの裾を握りしめている。彼女の小さな手は、驚くほど冷たい。
フリードリヒはポケットの中のチラシを強く握りしめた。これがただの紙切れなら、俺たちはこの港で凍え死ぬだけだ。
「次の方」
重い鉄扉が開き、小柄だが仕立ての良いスーツを着た東洋人の男が現れた。
フリードリヒは震える手で、自身の学位記と、あのチラシを差し出した。
「フリードリヒ・シュミットです。理論物理学の……」
「存じております、博士。お待ちしておりました」
男は流暢なドイツ語で答え、事務的に、しかし恭しく彼らを中へと招き入れた。
倉庫を抜け、霧に煙る岸壁に出たフリードリヒは、そこに停泊していた船を見て、思わず拍子抜けした声を上げた。
「……あれが?」
自分達の未来を運ぶ船、それが普通の古い貨客船であることに…。
黒塗りの船体を持つ、1万トン級の貨客船。
だが、何かがおかしかった。
港のガス灯が濡れた船体を照らしているのに、光が鈍く濁って見える。
「妙だな……艶がない。まるで光を吸い込んでいるようだ」
フリードリヒが独り言のように呟き、案内人の方を振り返る。
「おい、あの船体の塗装は一体どうなってるんだ?」
案内人は立ち止まりもせず、冷淡に答えた。
「北洋航路用の特殊な防錆塗装です。……足元にお気をつけて」
それ以上の質問は受け付けないという拒絶の響きがあった。
フリードリヒは口をつぐんだが、その目は疑り深く船体を見回していた。(ただの錆止めで、あんな質感になるものか……)
タラップを登り、船内に入る。
妻のエリザが「あっ」と声を上げた。暖かいのだ。
外の凍てつく空気が嘘のように、船内は静かな温もりに満ちていた。
フリードリヒは廊下の壁に手をついた。
木目調の塗装がされているが、掌に伝わる感触は木材のそれではない。かといって鉄のような冷たさもない。爪で弾くと、硬質だが乾いた、妙に軽い音がした。
「……君」
フリードリヒは案内人を呼び止めた。
「この壁材は何だ? 木でも鉄でもない。それに、この妙な暖かさはスチーム配管のせいじゃないな。断熱構造自体が異常だ」
案内人は一瞬だけ足を止め、無表情にフリードリヒを見た。
「日本工業規格(JES)の標準建材です。 ……さあ、食堂へ。スープが冷めます」
それだけ言うと、男は再び歩き出した。
フリードリヒはその背中を睨み、もう一度壁を触った。
(……はぐらかしたな。標準建材? ドイツの最新化学でも見たことがない素材だぞ。それを『標準』として船一隻丸ごと作っているというのか?)
彼はゾクリとした悪寒と、同時に湧き上がる興奮を覚えた。
この国は、何かを隠している。
そしてその「隠しているもの」は、ドイツの大学の研究室などより遥かに進んでいるかもしれない。
通された食堂。
案内人は無言で、銀の食器ではなく、無骨な**「四角い箱」**をテーブルに置いた。
紐を引くと、シュウウと蒸気が上がり、一瞬で熱を帯びる。
「……これが食事か?」
フリードリヒが問うと、案内人は初めて微かに口の端を歪めた。
「合理的でしょう? 我々の国では、これが『普通』です」
箱を開けると、濃厚な肉の香りが広がった。
夢中で食べ始める娘と、涙を流して喜ぶ妻。
その横で、フリードリヒだけはスプーンを口に運びながら、冷静に観察を続けていた。
(肉の食感だが……繊維が均一すぎる。これも『合成』か?
壁も、塗装も、食料も。この船にあるものは全て、私の知る『常識』から少しずつズレている。
……なんて国だ。彼らは一体、どこまで先を行っているんだ?)
窓の外、ハンブルクの街が遠ざかっていく。
案内人は扉の横に直立し、監視するように彼らを見つめていた。
フリードリヒは、もう質問をするのをやめた。
聞いても答えないだろう。ならば、自分の目で確かめ、自分の頭脳で暴いてやる。
そのための「実験道具」は、これから向かう東洋の島国に山ほどあるのだから。
(行くぞ、ブランシュ。パパはとんでもない場所に就職してしまったかもしれない)
1931年3月。
フリードリヒ・シュミットは、多くの謎と沈黙を乗せた『邦油丸』で、日本へと旅立った。




