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古の灯火  作者: 丸亀導師
日露戦争
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203高地 終

1904年12月下旬、旅順要塞・203高地頂上。


朝霧が晴れ、冷たい陽光が雪混じりの丘を照らし始め、一陣の風が吹き死臭を拭い去る。

日本軍の軍旗が、ついに高地の頂に翻った。

それとは対照的に、ロシア軍の白旗が、堡塁の各所で次々と掲げられる。


203高地陥落。


旅順要塞の心臓部が、日本軍の手に落ちた瞬間だった。


その日、日本軍の将兵たちは喜びに暮れた。 


高地の斜面を駆け上がった迂回部隊の兵士たちは、頂上で互いに抱き合い、声を上げた。感極まり、泣き崩れるものもいる。


「落ちた! 203高地が落ちたぞ!」


「やった……生きて帰れる!」


一等兵の田中は、銃を地面に突き立て、膝をついた。

涙が頰を伝う。恐怖に震える手が一転、喜びに震えた。

夜間行軍の苦労、闇での刺刀戦、側背射撃の砲声――すべてが報われた。


「母ちゃん……生きて帰れるよ……」


隣の鈴木上等兵は、鼻を啜りながら兵糧丸の残りを噛みしめ、笑った。


「米糠の味が、こんなに旨いと思ったのは初めてだ。

人参入りだったら、もっと良かったけどな!」


周りが笑う。笑いながら、泣く者もいた。

中央牽制部隊の山田大尉は、塹壕から高地を見上げ、拳を握った。目の前の光景は、実に絶景であった。


「よくやった……迂回部隊の諸君。

お前たちが、血を流さずに勝たせてくれた。」


頂上では、松川敏胤中佐が、静かに軍旗を見つめていた。

秋山好古、福田雅太郎、明石元二郎、荒木貞夫、宇都宮太郎――研究会メンバーたちが、集まっていた。そんな中秋山が、声を抑えて言った。


「騎兵の偵察も、砲兵の側背からの攻撃も完璧だった。欺瞞で多くの敵兵を討ち取った。戦国の戦術が、今の世に蘇ったのだ。」


福田が頷く。明石が、微笑んだ。


荒木と宇都宮は、若く興奮を抑えきれず。


「これで、歴史が変わる!」


松川は、静かに言った。


「まだ終わっていない。

だが、古の教えが、証明された。これからもっともっと、研究を重ねれば、我々だけの…日本(ニッポン)だけの戦い方ができるかもしれない。」


将兵たちの間では、喜びの声が広がり誰もが苦痛を転化した。


「旅順が落ちた! 戦争が終わるぞ!」


「家に帰れる! 家族に会える!」


「司令官閣下万歳! 第三軍万歳!」


乃木希典は、高地の麓から、頂上を見上げていた。

老将軍の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。

二万の亡霊が、ようやく安らぐ事が出来る。彼らの死が報われると…。


「諸君……よくやった。」




一方、ロシア軍要塞中央堡塁・指揮所では、将官達は悲観に暮れていた。

ステッセリ将軍は、机に突っ伏して現状の汎ゆる手段が封ぜられた事を、認識したのだ。

参謀たちが、沈黙の中で地図を睨む。ニコラエフ大尉が、声を震わせて言った。


『将軍閣下……203高地が、陥落しました。

日本軍が、背後から……すべてが、崩れました。』


その声色には、あり得ないと言った現状への否定と受け入れるしかないという、諦めがあった。

その言葉を聞き、ステッセリはゆっくりと顔を上げた。


『……白旗を掲げろ。

これ以上、将兵を死なせるわけにはいかん。』


既に要塞内は死の巣窟となっている。矢弾があったとしても、食糧が偏り脚気が猛威を奮う。ここに来ての大敗は、将兵たちの士気の限界を示していた。


堡塁の兵士たちは、力なく堡塁から降りてくる。銃を捨て、肩を落とす一人の兵長が、呟いた。


『日本軍は……どこから来たんだ?

正面で騒いでいたのに、突然背後に……』


暗闇の中突如として現れたそれは、まるで魔術のように世界を書き換えた。日本軍の攻撃開始まで余裕でいたにも関わらず、たった数日で、全てが変わってしまった。

別の兵が、絶望的に言った。


『機関銃が、役に立たなかった。探照灯が、闇を照らせなかった。すべてが、無駄だった。』


用意されていたはずの汎ゆる火線、それらは全くの役立たずだった。まるで後頭部から殴殺されたかの如くに。

負傷兵が、担架で運ばれながら泣いた。


『家に……帰れないのか……?

皇帝陛下に、申し訳ない……。』


将校の一人が、堡塁の壁に寄りかかり、頭を抱えた。

受け入れがたい現実に吠えた。


『我々は、近代の要塞を誇っていた……何故負けた。

何故勝てなかった!!』


ステッセリは、最後に立ち上がり、窓から高地を見た。

日本軍の軍旗が、翻る。


『降伏だ。

旅順は、落ちた。』


ロシア軍の将兵たちは、悲観に暮れ、互いに視線を避けた。

敗北の重みが、胸を圧迫する。受け入れ難い現実を、必死に堪えて俯くことしか出来なかった…。




状況終了後、第三軍司令部司令部では速やかに、損害集計と新たな模索を進めていた。


陥落の報告が、次々と入る中、乃木希典は机を囲み、参謀たちと損害集計を進めていた。

伊地知幸介が、報告書を読み上げる。


「総損害、約八千名。

死者三千、負傷者五千。

従来の総攻撃予想の、大凡六分の一です。」


乃木は、静かに頷いた。

参謀たちが、その数字に驚愕し改めて奇策や奇襲というものが、如何に現代でも通用するのかという事を、彼等は身を持って示した。


「将兵の命が、救われた。

松川中佐の策が、正しかった。我々は……、我々は間違った戦いを信じていたのか…?」


それに対して松川は、控えめに言った。 


「閣下のご決断のおかげです。それに、間違ったのは戦いではありません、西洋を盲信しすぎた、明治の世の軍政なのです。」



そこには、研究会メンバーたちが集まっていた。

前線から舞い戻った秋山好古が、興奮を抑えて言った。


「騎兵の機動が、成功の鍵だったな。あの機動をもっとうまく大胆に…。

次は、満洲平原で、さらに広範な迂回を…。」


それを聞いた福田雅太郎が、笑いながら続けた。


「砲兵の側背運用を、標準化すべきです。

重砲の固定を脱し、軽砲の随伴を増やせば…火点の火消しも容易になります。」


明石元二郎が、微笑んだ。


「欺瞞戦術を、諜報と連携させれば、無敵ですよ。見ましたか?あのロシア軍の慌てようを、あんなの教範にも無かった!」


荒木貞夫が、熱く言った。


「少数精鋭の備を、さらに細分化。

戦国期の少数制圧を、近代で再現できます。戦争が終わったら…もっともっと、兵一人一人の動きを良くしていかなければ。」


宇都宮太郎が、頷いた。


「防御側の反撃理論も、取り入れましょう。

次なる戦いで、敵の包囲を逆用。」


口々に言い合う彼等は周囲を気にしていない。天幕内の他の参謀も、彼らの言う事には一事が万事であると、認めていた。

そんな彼らの姿を、乃木は皆を見回した。


「諸君。この勝利は、始まりだ。ロシア軍の残存堡塁を、順次破壊せよ。

作戦の経験を、徹底的に分析。より効果的な運用を、模索する。」


乃木の言いように答えるように、伊地知が報告を加えた。


「爾霊山、盤龍山の堡塁は、すでに降伏交渉中です。

要塞全体の陥落は、時間の問題です。」


松川が、最後に言った。


「古の教えは、生きていました。

死中活あり――これを、第三軍の信条としましょう。」 


天幕内に、静かな決意が広がった。損害は軽微。

将兵の命は、守られ、旅順は陥落した。

喜びに暮れる日本軍と、悲観にくれるロシア軍。

そして、新たな戦法の模索が、始まり止まっていた針が動き始めた。


日露戦争の流れは、決定的に変わった。古の灯火は、満洲全体を照らし始めていた。



そして、高地の麓に設けられた臨時炊事場では、勝利の余韻に浸る将兵たちに、温かい食事が振る舞われていた。

補給係が大きな釜から雑炊を掬い分け、白米の香りが雪の冷気を切り裂く。

米は圧搾米だが、久しぶりの熱い飯に、兵士たちの顔が緩む。


「白米だ! 本物の白米が食えるぞ!」


「雑炊に野菜が入ってる。脚気が治りそうだ。」


傍らに置かれた樽から、非常に塩っぱい糠漬けが取り出される。

長期漬けの大根と胡瓜は、塩分が強く染み込み、噛むたびに塩味が爆発する。

農村出身の兵からすれば馴染みのある味だろうに、一口一口が大きい輪の字である。


乾パン生活の後に口にすると、舌がしびれるほどの塩辛さだった。が…、糠の味がとても心地よかった。


一等兵の田中は、糠漬けを齧り、顔をしかめた。


「塩っぱいな……目が覚めるほどだ。」


鈴木上等兵は、笑いながら雑炊に糠漬けを載せてかき込んだ。


「これくらい塩っぱい方が、生きてるって感じがするぜ。

脚気対策にもいいって、軍医が言ってたろ。」


江戸患いからの経験則、軍医の中では意見が割れていたが…それでも迷信を信じたものが、強引にねじ込んだ。何より、食い慣れたものほど、士気に直結する。


他の兵が、糠漬けを白米に挟んで食う。


「塩が強いけど、米が進む。

ロシアの缶詰より、よっぽど旨い。」


褒美というのだろう、負傷兵の担架近くでも、糠漬けが分けられる。


「塩っぱいけど、元気が出る……ありがとうよ。」


炊事場では、忙しなく補給係が大声で呼びかけた。


「糠漬けは食え! 脚気にならんように、塩分と糠をたっぷり摂れ!白米と雑炊も、腹いっぱい食って、明日からまた戦うぞ!」


勝利の喜びと、塩辛い糠漬けの味が、将兵たちの体に染み込んでいった。 

戦場での、わずかな贅沢。

生き残った者たちの、静かな祝宴だった。

日露戦争における旅順攻囲戦(1904年8月〜1905年1月)の日本軍(第三軍)の死傷者数は、公式記録や信頼できる史料に基づき、以下の通りである。

総死傷者数: 約57,780〜59,408名(戦死・戦傷・行方不明を含む)。

戦死者数: 約14,000名。

その他: 病死(主に脚気)を含む総損害はさらに多く、約90,000名を超える推定もあるが、戦闘関連の死傷者に限定すると上記が標準値だ。

これらの数字は、『明治軍医史』や戦後公式報告書に基づき、機関銃・要塞砲の威力による正面攻撃の繰り返しが主因であった。


対して 本世界線では、松川敏胤の迂回包囲策採用により、正面突撃を最小限に抑え、低損害で早期陥落(1904年12月下旬)を実現した。

総死傷者数: 約8,000名。

戦死者数: 約3,000名(負傷者約5,000名)。

比較: 史実の約1/6〜1/7に抑えられ、第三軍は健在な状態で北進可能となった。

この数字は、物語設定に基づくもので、迂回・側背射撃・欺瞞戦術の効果を反映している。

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