電子の産声
1924年(大正13年)、冬。
神奈川県川崎市、東京電気(現・東芝)川崎工場。
前年の関東大震災の瓦礫の中から、不死鳥のように蘇った真新しいレンガ造りの工場棟は、昼夜を問わず赤熱した光と、真空ポンプの重低音に包まれていた。
「……駄目だ! またフィラメントが落ちた!」
技術部長の**高嶺譲**は、防護メガネを叩きつけるように外した。
目の前の実験台では、「振動試験機」と呼ばれる無骨な機械が、一本の真空管を猛烈な勢いでシェイクしている。
航空機のエンジンの振動を模した、過酷な耐久テストだった。
帝国空軍からの要求仕様書は、狂気の沙汰だった。
『高度三千米ノ気圧ト寒冷ニ耐エ、且ツ、機関ノ振動下ニテ五十時間ノ連続通話ヲ保証スベシ』
当時の欧米の常識では、真空管とは「絹の座布団の上に置いて、そっと扱うもの」だった。それを、あろうことか戦闘機に乗せて振り回そうというのだ。あまりにもの過大な要求に、高嶺は天を仰ぎ見た。
「部長、これで試作ロットの7割が不合格です。
電気的には完璧に通電するんですが、振動でグリッドが数ミクロンずれて、ノイズが出るんです。」
部下の技術者が、悲鳴に近い声を上げる。
「たったそれだけで要求外だ、全く難しい注文をする。」
注文の内容だけは簡潔であるが、その仕様を技術的に証明するためには、高度な工作精度を必要とする。
東京電気の威信をかけ、何としてでもコレを量産しなければならない。
工場の隅には、「不合格」の焼印を押された真空管の山が築かれていた。
そこへ、軍靴の音が響く。
視察に訪れたのは、空軍開発部門長の日野熊蔵大佐だった。
「高嶺君、進捗はどうだね。」
「……地獄ですよ、大佐。
シベリア産の最高級タングステンを使い、擬革紙由来の純度99.9%のアルコールで洗浄したガラスを使っても、貴軍の要求する『振動』だけは、どうにも歩留まりが悪い。」
高嶺は、山積みになった「不合格品」を指差した。
それを見て日野は、なんとも喜ばしげに微笑んでいる。
それに僅かにイラッとしながら、高嶺は技術の限界を突きつけた。
「見てください。あれだけの資源が、ゴミの山だ。
電気を通せば、アメリカのGE製よりも遥かに綺麗に増幅する。
ただ、『戦闘機に乗せたら壊れるかもしれない』という一点だけで、廃棄処分だ。
会社としては、もう限界ですよ。一本あたりの開発費が高すぎる。」
日野大佐は、その「ゴミの山」に歩み寄り、一本を手に取った。
ガラスは厚く、電極の支持構造は堅牢そのものだ。
ただ、ミクロン単位の軸ズレが、軍の厳しい基準を満たさなかっただけ。
日野はそれを持ちながら、僅かに目を左上に向けて考えると、口を開いた。
「……高嶺君。こいつらは、空は飛べんかもしれん。
だが、畳の上ならどうだ?」
「え?」
日野のその言葉に高嶺は驚いた。軍人の口から信じられない言葉が飛び出しているのだと。
「今、東京放送局(JOAK)が試験放送を始めようとしている。
国民はラジオを欲しがっているが、舶来品の真空管は一本10円もして、高嶺の花だ。
だが、この『空を飛べなかった落ちこぼれ』なら……いくらで売れる?」
日野のその言葉に、高嶺の眼鏡の奥が光った。
「……開発費と設備償却費は、軍への納入分で賄っています。
つまり、こいつらは言わば『副産物』。
材料費と検査費だけ乗せればいい。
……3円。いや、2円50銭でも利益が出ます。」
それを聞いた日野は、ニンマリとしながら付け加えた。
「売れ。中身は軍用最高級品と同じだ。GEやマルコーニの民生品など、相手にならんぞ。」
その言葉に高嶺は目を見開き、驚嘆をした。こんな事が許されて良いのかと。
「しかし、軍の機密技術が……」
「構わん。国民が良いラジオを持ち、電気の知識を持てば、それが将来の技術者を生む。
それに、工場が儲かれば、次の研究開発ができるだろう?
兵部省には私が話を通す。名前はどうする?」
日野のその言葉には、誘惑と現実を知っている技術者の熱が入っていた。
高嶺は、手元の真空管を見つめた。
それは、本来なら廃棄されるはずだったが、欧米の民生品を遥かに凌駕する性能を秘めている。
「……『マツダ(Mazda)』。
ゾロアスター教の光の神です。日本の家庭に、叡智の光を灯しましょう。」
――――――――――――――――――――
1924年12月 東京・神田須田町
ラジオ部品店の店頭に、衝撃的な張り紙が出された。
【国産・東京電気製 新型真空管入荷】
【軍用規格準拠・超高感度 一本 弐円五拾銭】
店先には、黒山の人だかりができていた。
ラジオ少年や、鉱石ラジオからのステップアップを狙う大人たちが、我先にと札束(あるいは小銭)を握りしめている。
「おい、これを見ろ! ガラスの厚みが舶来品と全然違うぞ!」
「電極の支えがマイカ板(雲母、マイカという天然鉱物を加工したシート状の素材で、優れた耐熱性と電気絶縁性を持ち、電子レンジの内部や電熱機器、電気製品のヒーター支持体などに広く使われ、切断や加工が容易で補修部品としても利用される)だ。GEのはガラス棒なのに!」
「叩いてもキンキン言わない!(内部構造の強靭さと精密さ)すげえ!」
それは、市場破壊だった。
10円近くする輸入品(しかも壊れやすい)の横で、その4分の1の価格で、性能寿命が3倍以上の「日本製」が売られているのだ。
本来は「空軍の戦闘機用」として設計され、検査で僅かに弾かれただけの「オーバースペックな逸品」。
それが、日本の一般家庭の茶の間に流れ込んだのだ。
「東芝の真空管は化け物だ」
そんな噂が広まるのに時間はかからなかった。
ラジオの普及率は爆発的に向上し、1925年には「一家に一台」の勢いでラジオ放送が国民生活に浸透していく。
そして、そのラジオを分解し、仕組みを学び、
「僕も将来、こんな凄い機械を作りたい」
と目を輝かせる少年たちが、後のソニーやホンダ、そして日本の電子立国を支える技術者軍団へと育っていくことになる。
川崎工場の窓辺で、高嶺は出荷されていくトラックを見送っていた。
荷台には、「不合格」の焼印の代わりに、誇らしげな「マツダ」の刻印が押された箱が満載されていた。
「空を飛ぶだけが、お前たちの役目じゃなかったな。」
彼はコーヒー(中東から輸入された豆だ)を啜り、次の図面を広げた。
そこには、さらに過酷な要求仕様――「極超短波(レーダー用)発振管」の設計図が描かれていた。
1925年、東京・赤坂。米国大使館。
「近頃、東京の夜が騒がしいと思いませんか?」
駐日米国大使館付き海軍武官、エドワード・ミラー少佐は、窓の外を眺めながらそう呟いた。
夕暮れ時の通りからは、どこからともなく浪花節や、賑やかなジャズの音色が漏れ聞こえてくる。
同僚の書記官が肩をすくめる。
「ラジオブームですよ、少佐。JOAK(東京放送局)が開局してからというもの、日本人は猫も杓子もラジオにかじりついている。
しかし、解せませんな。RCAやマルコーニの受信機は、日本の大卒初任給が数ヶ月分吹っ飛ぶような高級品です。
なぜ、一般庶民があんなものを持てるのか…」
書記官の当然の疑問に、ミラーは頷いた。
「……そこです。噂を聞きませんか? 『マツダ』という名の、奇妙な真空管の話を」
ミラー少佐の机の上には、風呂敷に包まれた箱が置かれていた。
神田の露店で、部下に買わせたものだ。
価格は、セットでわずか15円。RCA製の輸入ラジオの、実に10分の1以下である。破格の値段であった、これほどのものださぞ粗悪だろうと。しかし、飛ぶように売れていた。
「安かろう悪かろうの典型でしょう。日本人が得意な、粗悪なコピー品ですよ」
書記官は冷笑したが、ミラーの表情は硬かった。
「……開けてみましょう」
ミラーが風呂敷を解き、木箱を開ける。
中には、無骨だが丁寧に組まれた回路と、鈍く光る真空管が鎮座していた。
ガラス管の頭には、「マツダ(Mazda)」の刻印。
ミラーは電源を入れる。
通常、真空管が温まるまでには時間がかかり、その間「ブーン」というハム音が入るのが常識だ。
しかし――。
『――こちらはJOAK、東京放送局であります……』
「……!?」
書記官が目を見開いた。
電源投入からわずか数秒。クリアな音声が、ノイズレスで飛び込んできた。
しかも、音量が大きい。それはとてつもない衝撃であった。
「おい、どうなっている? この感度は……RCAの最新型『ラジオラ』以上じゃないか」
ミラーは無言で、ドライバーの柄で真空管をコツン、と叩いた。
内部の精度を推し量ろうというのだろう。
この当時の駐在武官というものは、所謂技術的エリートであった。各国の産業技術の検証も、彼らの仕事の内、公然のスパイである。
「マイクロフォニック雑音」のテストだ。通常なら、スピーカーから「キーン」という共振音が響くはずだ。
――コツン。
スピーカーは沈黙を守り、ただラジオドラマの台詞だけを流し続けている。
「……振動しない。
電極が完全に固定されている。マイカ(雲母)のスペーサーが二重、いや三重に入っているのか?」
ミラーは震える手で真空管を引き抜き、拡大鏡で内部を覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
「見ろ、フィラメントが……赤くない」
フィラメントは導通時熱を持つ、今回の事象は、フィラメントが赤熱(高温化)しないため、部品自体が消耗しにくく、一般的な真空管が持つ「球切れ」や「劣化」の寿命を大幅に引き延ばすことができ、尚且つ消費電力が非常に少なく、冷陰極技術は振動や機械的な衝撃にも強いため、厳しい環境でも安定した性能を維持できる。
「は?」
「『酸化物陰極』だ!
低温で電子を放出できる最新技術だぞ。GEでもまだ実験室レベルの代物だ。
日本人はこれを量産しているのか? しかも、こんな露店売りの激安ラジオのために?」
書記官の顔から、嘲笑の色が消え失せた。
「ま、待ってください少佐。
低温動作で、振動に強く、高感度。
こんなオーバースペックなものを、なぜ民間用に?
これを作るのにどれだけのコストがかかると思っているんです。採算が合うはずがない」
ミラー少佐は、椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
軍人である彼には、その「恐ろしい答え」が直感的にわかってしまった。
「……これは『正規品』じゃない」
「え?」
書記官はミラーの言葉に驚愕した、とても信じられないと言うことだ。
「見てみろ、ガラスの接合部に僅かな歪みがある。ロゴの刻印も少しずれている。
……これは『検定落ち(リジェクト)』だ」
「検定落ち?」
書記官は、ミラーにそう聞き返す。彼には検定落ちがどのような物かという、知識がない。
「そうだ。
どこかの『極めて要求水準の高い顧客』のために作られ、ほんのわずかな瑕疵で弾かれた規格外品だ。
……民間用ラジオに、ここまでの耐震性能はいらない。
振動に強い真空管を何千、何万と必要とする顧客といえば……一つしかないだろう」
二人の脳裏に、先日ボルチモアで見た「銀色の怪鳥」――大正14年式水上競走機の姿がよぎった。
「帝国空軍……」
書記官が乾いた声で呟く。
「つまり、我々が見ているこの高性能ラジオは、日本空軍が捨てた『ゴミ』で作られているというのですか?
彼らの戦闘機には、これよりもっと精度の高い、化け物のような真空管が積まれていると?」
「そういうことになる。
……本国に打電しろ。
『日本の電子技術は、模倣の段階を脱した。
彼らは我々が持っていない産業基盤を持っている。
直ちに調査しなければ、我々は次の戦争で、耳と目を塞がれたまま戦うことになるぞ』……と」
1925年、ワシントンD.C.の海軍省情報部(ONI)。
日本から届いた一通の報告書と、サンプルとして送られた「マツダ真空管」は、担当官たちを戦慄させた。
GEの技術者がその真空管を分析した結果、さらに驚くべき事実が判明した。
ガラスの純度が異常に高いのだ。
不純物が極限まで取り除かれたガラスは、擬革紙製造で培われた高度な化学洗浄技術の賜物だった。
「日本人は、魔法でも使ったのか?」
アメリカの技術者は首を捻ったが、それは魔法ではなかった。
ただ、「国家の生存」をかけた総力戦体制が、市場原理を無視して最高品質の素材を投入し、その余剰分が民間に還流するという、極めて効率的なサイクルが回っていたに過ぎない。
この日以降、欧米の対日認識は「小生意気な東洋の猿真似国家」から、「底知れぬ技術的ポテンシャルを秘めた、不気味な沈黙の巨象」へと変貌していく。
しかし、彼らがその「巨象」の全貌――八木アンテナによるレーダー網や、マグネトロンの脅威――を知るのは、もう少し先の話である。




