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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
61/81

1925年シュナイダーカップ

1925年、ボルティモアのチェサピーク湾。


湿り気を帯びた潮風が吹く中で、欧米の観衆は異常の機体を目にした。


1925年10月24日、ボルティモアの特設観覧席は熱狂に包まれていた。

人々の視線の先にあるのは、星条旗を掲げた黄金の翼、カーチスR3C-2。そして、イギリスが誇る流線型の極致、スーパーマリンS.4。それらはまさに、欧米の科学力の結晶だった。

だが、その狂騒を切り裂くように、聞き慣れない重低音が空から降り注いだ。


「――見ろ、あれは何だ?」


誰かが叫び、数千人の観衆が指を差した。水平線の向こうから、一筋の銀光が滑り込んできたのだ。

それは、当時の常識を根底から覆す姿をしていた。


翼は一枚、それも胴体の下から突き出した「低翼」の単葉。当時の主力である複葉機の、ジャングルジムのような張り線や支柱はどこにもない。胴体は継ぎ目ひとつ見えない、滑らかな銀色の肌を晒している。

陽光を跳ね返すその輝きは、木製機ばかりの駐機場において、あまりにも異質、あまりにも冷徹だった。


「日本の……『大正14年式』だと?」


大正14年式水上競走機


―――――

全長

約7.2 m

空気抵抗を極限まで削減した流線型設計

全幅

約9.8 m

中程度の翼面積で揚力確保。低翼配置で視界良好

全高(フロート装着時)

約3.0 m

フロート高さを最小限に抑え、離着水時の安定性確保

自重

約980 kg

ジュラルミン全面モノコックで極限軽量化

全備重量

約1,350 kg

レース距離に最適化した燃料・油量

エンジン

三菱金星型空冷星型9気筒 650 hp(専用チューン版)

ジュピター系をベースに圧縮比・吸気系・排気系を最適化。連続全開運転時間約45〜60分

最高速度(水上)

約380〜400 km/h

NACA式カウルリング+高効率冷却ダクト採用。


武装

なし(レース専用)

重量削減のため完全撤去

構造

全面ジュラルミン製モノコック構造(胴体・翼とも)

木材を排除し、軽量・強度・耐久性を最大化 


特徴

単葉低翼配置による空気抵抗大幅削減。最新鋭のエンジンカウル構造と冷却システムを採用。1925年時点で日本が単葉高速水上機の可能性を示した機体。


―――――


イギリスの設計者、R.J.ミッチェルは双眼鏡を握りしめたまま絶句した。

彼の視線の先で、日本の銀翼は緩やかに旋回し、着水体制に入る。

驚くべきは、その機首だった。


空冷星型エンジンを包み込む「カウルリング」と呼ばれる円筒状のカバー。それは巨大な砲弾の先端のように鋭く、空気を切り裂くために造形されている。


「馬鹿な……空冷エンジンであの細さを実現するだと? あのカウルの中には、一体どんな魔法が隠されているんだ」 


1925年当時、航空機用エンジンの中心はV型水冷式エンジンが頂点を取っていた時代。

このレース会場に存在する、全ての国の機体が漏れなく水冷式の中、日本の機体だけが星型エンジンを採用していたのだ。


ただ、その機体の機首。カウルリングの構造は当時のどの国の空冷エンジンのものとも違っていた。

ヌルリとした機首は滑らかに流線型を描き、機首を優しくつつみながら、排気口を薄く覆っている。


当時の空冷エンジンは、剥き出しのものが殆どで冷却効率はこれこそが最高と思われていた。


14年式の構造では、一見すれば空気の取り込みが悪く、エンジンはオーバーヒートしてしまうだろうと…当時誰もが思っていた。


日本がこの技術に行き着いたのは、船舶の水流抵抗を如何に小さくするのか…と言う造船の方からの、経験であった。

空気もスクリューも同じ様なプロペラで、物体を動かすことができる。

つまり、気体は粘性があるのだと言うことだ。


当時造船技術で、どの形状が最も水の抵抗が少ないのか…と言われれば、魚のような、特に高速で泳ぎ回る鰹等の形状が最も少ないのだろうという、経験則的に解っていた。


そこで日本の空軍。特に、海軍畑から空軍に移籍した者達は、その事に着目した。

速度を上げるのなら、機首を流線型に近づけて魚のように尻を窄めよう。


だが、冷却効率は落ちるのではないか?

そんな事を思っていた。

目一杯に口を空けたカウルリング、その行使試験に立ち会った人間は度肝を抜かれた。

エンジンはオーバーヒートするどころか、正常に動くのだ。


プロペラから後方へと送られる空気が、カウルリングを通して効率的にエンジンを冷やした。

意図せず、冷却問題が解決する。そして空気抵抗と冷却効率の最も良い比率を見つけようと試行を続け、この14年式の形状へと行き着いたのだった。


そんな機体が、水面に触れた瞬間銀色の飛沫が舞った。

ジュラルミンのモノコック胴体が波を叩く音は、木製機のような鈍い音ではなく、硬質な金属音となって響く。

タキシングで桟橋に近づくその機体には、日の丸の紋章が鮮やかに描かれていた。


操縦席から若きパイロットが姿を現すと、会場を支配していたのは歓声ではなく、深い「沈黙」だった。

それは、未知の技術に対する本能的な恐怖。そして何より、そんな物を操る自らよりも劣っているはずの、東洋人に対する侮蔑。


1925年という時代に、10年先の未来から迷い込んできたかのような銀色の怪鳥。


そんな中、アメリカのジミー・ドーリットルは、自機のコックピットからその姿を睨みつけ、確信した。

(今日、歴史が変わる。いや、変えられてしまったんだ――)

チェサピーク湾の空気が、一瞬で凍りついた。

日本の「大正14年式」が放つ銀色の威圧感は、勝利を確信していた欧米勢の誇りを、静かに、しかし無慈悲に粉砕していった。


「ミスター、狂気の沙汰だ。その薄い翼で、我が国のカーチスに勝てると思っているのか?」


予選直前、アメリカのチーフメカニックが、大正14年式の傍らに立つ日本人技師に嘲笑を投げかけた。周囲の欧米人記者たちも、細い一本の翼で支えられた日本の銀翼を「脆い自殺志願者の玩具」と呼び、冷笑していた。


当時の欧米では、速度を出すには翼を短く、二枚重ねにする複葉機が唯一の解だった。空気力学の限界に挑む単葉機など、計算上の空論に過ぎない。それが彼らの「常識」だった。

日本人技師は、油の染みた手で静かにカウリングを撫で、静かに答えた。


「我々に、貴方たちのような『過去の成功』はございません。あるのはただ、最短のことわりだけです」


合図とともに、三菱金星型エンジンが咆哮を上げた。

空冷星型特有の野太い振動が、チェサピーク湾の桟橋を揺らす。しかし、NACAカウリングに包まれたその心臓部は、無駄な空気の渦を一切作らず、全ての出力を推進力へと変換していた。


滑らかな離水。


日本の銀翼は、水面を蹴るなり、矢のような加速で上昇した。

観衆が驚愕したのは、その「音」だった。空気を無理やり押し通る複葉機の風切り音ではない。空気を鋭利な刃物で引き裂くような、高く澄んだ金属音。

その機体は優雅に空を舞うと、またたく間に速度を上げていった。


「……速い。なんて速さだ!」


計測ポイントを通過した瞬間、記録員の手が震えた。

時速380キロ。

それは、アメリカが複葉機という形式でようやく到達しようとしていた極限を、一足飛びに超えた数字だった。


「どういうことだ……なぜあの翼が折れない? なぜあの空冷エンジンが焼き付かないんだ!」


ミッチェルら欧米の設計者たちは、双眼鏡が壊れるほど強く目に押し当てた。

彼らには見えていなかった。


胴体と翼を一体化させた「モノコック構造」という、日本独自の徹底した軽量化と剛性の両立。

そして、エンジンを冷やすためではなく、機体の一部として機能させる「流体制御」の思想。

それは、欧米が「力の増幅(馬力)」で解決しようとした壁を、日本が「形の洗練(構造)」で突き崩した瞬間だった。


空の向こうから戻ってくる大正14年式。

その銀色の背中には、夕陽を浴びて、誇らしげな「日の丸」が赤々と燃えていた。

もはや、それを嘲笑う者は一人もいなかった。



1925年決勝


「決着がつくな」


アメリカ代表のジミー・ドーリットルは、風防越しに前方を行く銀色の背中を睨んでいた。

大正14年式。その機体は、決勝の最終ラップに入ってもなお、衰えるどころか速度を増しているように見えた。


だが、異変は唐突に訪れた。


日本の銀翼のエンジンカウルから、一筋の白い尾を引くような霧が噴き出したのだ。

直後、快調な咆哮を上げていた金星型エンジンが、咳き込むような不規則な音を立て、プロペラの回転が目に見えて落ちていった。


「――やったぞ! 焼き付いたんだ!」


後方のボートで観戦していたアメリカのメカニックたちが歓声を上げた。


「日本のエンジンは限界だったんだ。あのカウルで空気を絞りすぎたせいで、熱の逃げ場がなくなったのさ。典型的なオーバーヒートだ!」


実況の声がチェサピーク湾に響き渡る。


『日本機、トップを独走中でしたが、ここでエンジンに火災か! 無理な高出力が仇となったか、白煙を上げて失速しています!』


しかし、操縦席に座る日本人パイロットの眼前に広がっていたのは、火炎ではなく「氷」の世界だった。


(……計器が動かん)


シリンダー温度計の針は、危険域レッドゾーンとは真逆の、下限に張り付いている。

NACAカウルが取り込んだ冷気は、設計者の予想を遥かに超える効率でエンジンを冷やし続けていた。


ボルチモアの秋の湿った空気が、超高速走行による断熱膨張でさらに冷やされ、キャブレター(気化器)を内側から凍りつかせたのだ。

エンジンが止まったのではない。冷えすぎたがゆえに、燃料が気化できず、心臓が「凍死」したのだ。


「馬鹿な……熱すぎるのではなく、冷たすぎるというのか」


不時着した機体に駆け寄った米軍の技術将校は、真っ赤に焼けているはずのエンジンに触れ、そのあまりの冷たさに手を引っ込めた。カウリングの隙間から覗くシリンダーには、うっすらと霜すら降りている。


「熱で壊れた」と信じて疑わない観衆の拍手の中で、日本人技師だけが、あまりにも完成されすぎた「冷却理論」の皮肉に唇を噛んでいた。


彼らの敗北は、技術力の不足ではなく、「時代が彼らの理論に追いついていなかった」事を証明していた。


彼等はこれを気に、流体力学への理解を深めて行くこととなる。


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