203高地 6
備
1904年11月下旬、旅順要塞包囲線・闇夜。
作戦開始の夜が訪れた。
月は雲に隠れ、星さえも冷たく瞬くだけ。
第三軍の迂回包囲策は、静かにしかし確かに動き始めた。
第1群:中央牽制部隊
203高地正面の塹壕線。
第一群の将兵たちは、毛布を捨て、銃を握りしめて待機していた。寒さに震えるものも、もはや何処にもいない。有るのは、ただ己の任務を知る者達だけだ。
司令は、散発的な射撃と偽の動きでロシア軍の注意を正面に固定すること。
本格攻撃ではなく、血を流さず、敵の目を引きつけるだけの陽動。
小隊長の山田大尉は、塹壕の縁から要塞を睨むと、固唾を飲み込む。
探照灯の白い光が、定期的に正面を掃くように舐めると、その光が自分たちを照らすたび、兵士たちは身を低くする。
「今夜は静かだな。ロシアども、油断しているぞ。」
隣の兵が、囁くように答えた。それは決して慢心から来る言葉ではない。確かな手応えからであった。
「でも、いつもの総攻撃じゃないんですよね。牽制だけだって……。」
兵の小さな呟きも、山田は頷き、時計を確かめた。
「よし、予定通り。午前二時、散発射撃を開始せよ。
機関銃は短く、砲兵は一門だけ。敵の目を正面に釘付けにしろ。」
兵士たちが、銃を構える。緊張の瞬間だ、狙いをある程度引き絞り、各々が射撃を開始する。
闇の中で、銃声が断続的に響き始め、それに応えるように、要塞側から、返礼の射撃が来る。
だが、それはいつもの激しさではなく、パラパラとしたものばかり、ロシア軍も疲弊しているのだ。
山田は、小さく呟いた。
「第二群、第三群……無事で進め。」
その言葉は、風に乗り砲声に掻き消され前に進むことはなかった。
第2群・第3群:迂回部隊
北東部谷地と東側森林。
第二群(左翼)と第三群(右翼)の将兵たちは、数百名単位の「備」に分散し、闇を這うように進んでいた。
騎兵の斥候が先行し、道を確保する。
時折足を止めて、足音を殺し、息を潜め、谷間の死角を縫う。
第二群の先頭備を率いる佐々木中尉は、兵糧丸を噛みしめながら進んだ。
米糠と蕎麦の混じった味が、故郷の懐かしさと、わずかな力を与える。
「静かに。敵の哨戒が近い。」
兵士の一人が、囁いた。夜闇の利く目が、全てを暴く。
「中尉殿、探照灯の光が向こうを照らしています。あの隙を突けば……。」
佐々木は頷き、手で合図した。前進の鼓動、しかし拍動することも無く、備は音もなく前進を始める。
すると突然!闇の中にロシア軍の哨兵が現れた。
一人、煙草を吸いながら無防備にも、呑気にも立っている。こんなところに、敵が来るはずもないと、そう思っているのだろう。
日本兵の刺刀が、閃くと哨兵は、声すら上げず倒れた。
「一人目だ。次へ。」
第2群は闇となり、密かに進んで行く…。
第三群の右翼では、騎兵を伴った備が海岸沿いの低地を進む。
秋山好古の思想を体現した機動。
騎兵が馬を降り、歩兵と並んで潜行する。その姿は、西洋の教範でも基本では無いその動き。しかし、秋山の騎兵隊はそれを大いにやってのける。
隊長の鈴木大尉は、森の縁で止まり、要塞の灯りを確認した。
「探照灯は正面固定だ。ロシアども、気づいていない。」
兵士が、興奮を抑えて言った。回り込んで戦闘など進んでするはずもないと、気を抜いているのだ。
「これなら、背後に回り込めます。補給路を断てば、要塞は持ちこたえられねえ。」
その言葉に呼応するように鈴木は、静かに命令した。
「進め。敵の小哨戒部隊を見つけたら、即座に排除せよ。」
闇の中で、日本兵の影が動き、それに合わせるようにロシア軍の外郭哨戒兵が、次々と倒れていく。
喉を掻き切られ、刺刀で胸を突かれ、声を発する間もなく……。
彼らを見つけられるものは、何処にもいなかった。
ロシア軍防御陣地
要塞中央堡塁・指揮所。
ステッセリ将軍の傍らで、参謀たちが地図を睨んでいた。
探照灯の光が、正面の高地を定期的に掃くが、それにより安堵が指揮所を包んでいる。この旅順要塞の堅牢さを、建設者である彼らは自信を持っていた。
日本軍の散発射撃が、遠くから聞こえる。そんなもので、要塞を破壊できるものではない。誰もが密かに心でそう呟く。
参謀の一人、ニコラエフ大尉が報告した。
『将軍閣下、正面向かいの日本軍が、また射撃を始めました。
いつもの牽制です。総攻撃の兆候はありません。』
ステッセリは、疲れた目で頷いた。
数日の間、このようなことが続いている。皆それに慣れきっていた。と、同時にいつ総攻撃が来るのかと、眠に眠れぬ夜があった。
『よし。機関銃と砲台を正面に集中せよ。
日本軍は、正面からしか攻めてこない。あの愚かな肉弾攻撃を、待っていればよい。』
こうやって防御を続ければ、先に根を上げるのは向こうだとそう思っているのだ。
別の参謀が、やや遅れて無線報告を読み上げた。
『北東部哨戒線から、定期連絡が……遅れているものがあります。』
ステッセリは、眉をひそめた。
『遅れ? おそらく、無線の故障だ。
探照灯を正面に固定せよ。敵の主力を、そこに引きつける。』
この頃の無線はそれ程上等なものではない、壊れやすく繊細で、何より誤作動の多い代物である。一々そんな事で一喜一憂していられない。精神は良い方向に考えた。
外郭の哨戒兵の一人、イワノフ兵長は、谷間の暗闇で煙草を吸っていた。凍てつくような寒さが身に染みる夜だった。
突然、背後から影が迫る!!喉に冷たい刃が触れ、息が詰まる。
イワノフは、倒れた。
頸動脈と同時に喉笛を掻っ切られ、息をする音が外に漏れるだけで、声すら上げられず。
別の哨戒点では、二人のロシア兵が呑気にも話していた。
『日本軍は、また正面で騒いでいるな。あいつらは、学習しない。』
『ああ、機関銃で迎え撃てば、簡単に片づく。』
余裕の表れであった…。だが、それこそが彼らの驕りであった。
瞬間、闇から刺刀が閃き、二人は同時に倒れた。
指揮所では、遅れていた報告が、次々と途絶え始めた。
ニコラエフが、顔色を変えて叫んだ。
『将軍! 北東部哨戒線、全滅の兆候です!
東側からも、連絡が……!』
ステッセリは、立ち上がった。信じられないものを聞いているかのように、彼は目を見開いた。
『何? 日本軍が……迂回? まさか!
正面の射撃は、欺瞞か!』
探照灯が、慌てて方向を変えるもだが、すでに遅かった。
谷間と森林の闇は、日本軍の影を完全に隠していた。
同じ頃、佐々木中尉の備は、ついに要塞背後の高地に到達した。決死の覚悟が、死中に活を見いだしたのだ。
軽砲兵が、急展開を始める。
「よし、側背射撃開始!敵砲台を狙え!」
砲声が、闇を裂き多角的に広がるロシア軍陣地に、爆煙と着弾の光が明滅する。
ロシア軍の重砲が、突然の側面射撃に混乱し、慌てて逃げ惑う。
『側面から砲撃だ! 日本軍が、背後に……!』
ステッセリは、地図を叩いた。
『予備隊を北東部へ! 急げ!』
だが、その号令とは裏腹に、補給路はすでに遮断され始めていた。
鈴木大尉の備は、東側補給路に到達し直ぐに騎兵が、敵の輸送隊を急襲し、ロシア軍は混乱に陥った。
「補給路を断て!敵の弾薬を奪え!」
銃声と叫びが、闇に響くき馬のいななきが魔獣のように咆哮する。
ロシア軍輸送隊の隊長が、叫ぶ。
『日本軍だ! どこから……!守れ! 守れ!』
だが、闇から迫る影に、一人また一人と次々と倒れていく。
中央牽制隊である第1郡の山田大尉は、遠くから側背の砲声を聞いた。
「始まったな……第二群、第三群が、成功している。」
その言葉には歓喜が入り交じっていたが、同時に兵士たちが、静かに祈る。
「無事で、戻ってこい。」
ロシア軍指揮所のステッセリは、顔を青ざめさせた。
『包囲だ……日本軍が、三方向から……!正面の射撃は、すべて欺瞞だったのか!』
探照灯が、慌てて谷間を照らす。だが、そこに日本軍の姿は、すでにない。有るのは亡骸となったロシア兵の骸のみ。
闇夜から、敵後方へ回り込んだ影たちは、
誰にも見つけられず、ロシア軍を次々と倒し続けていた。
古の戦法が、近代の要塞を、静かに蝕み始めていた。
緊張は、頂点に達しようとしていた。
要塞の運命は、闇の中で決せられようとしていた。




