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古の灯火  作者: 丸亀導師
第一次世界大戦
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人種差別撤廃案

1919年 パリ・フランス外務省館 パリ講和会議


27カ国もの使節団が、それぞれの立場を背負い国家として第一次世界大戦を正式に終結に導くための会議が、ここで開かれていた。

この会議には、英仏は勿論のこと日本も戦勝国として参加し、各々の役割と結果と貢献度を踏まえ、それなりの内容を議題として、それぞれが和平の為の道筋を立てていた。


パリ講和会議は、その名の通りドイツを中心とする所謂三国同盟と、英仏を中心とする協商国即ち連合国との第一次世界大戦における雌雄を決する場であった。

その2つの内の勝者、英仏側が同盟国側へと賠償等を話し合われる場であり、その他様々な事柄についても話し合われた。


その中の一つに、国際連盟の創設も含まれていた。




日本全権大使である牧野伸顕は、日本国に充てがわれた部屋に到着するやいなや、置かれているソファへと、どっかりと力を抜いて座った。

それはもう見事なまでの脱力であり、会議の緊張感がどれほどのものか物語っていた。


ソファに深く沈み込みながら、額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。

外務省館のこの一室は、暖炉の火が弱々しく揺れるだけで、冷たい空気が肌を刺す。

窓の外では、パリの冬の霧がセーヌ川を覆い、街灯がぼんやりと滲んでいた。


「連中……、我々の提案に半ば笑っていたぞ?こちらを下に見ていなければ、あんな事はするはず無い。」


牧野の声は低く、抑揚を抑えていた。

しかし、その言葉には、深い屈辱と、静かな怒りが込められていた。


日本はこの会議において、国家間の安定に寄与する大規模な国際組織の発足という議題に対して、それの基となる法に対して、以下の提案をした。


「国際連盟及び加盟国は、人種、民族、宗教による差別を撤廃し、加盟国国民に対して平等な待遇を保障する。」


この文言は、現在欧米以外の唯一の列強とされる日本の肝いりの提案であった。

 

排日移民法を敷く米国、オーストラリア、カナダに対する、直接的な挑戦状であった。

アジア人移民の自由な移動と、平等な待遇を国際的に保証させる。


――それが、日本の狙いだった。


しかし、事態は日本の思い描く方向へと進むことはなかった。


国際連盟規約起草委員会での議論は、予想以上に険悪だった。

米国代表のウッドロー・ウィルソン大統領は、厳しい表情で首を横に振った。


「この条項は、我が国の国内法と矛盾する。移民政策は各国の主権事項である。」


コレは難癖ではある、実際、米国内の問題を国際法の場へと持ち出してきている。

それと歩調を合わせるように、オーストラリアのビリー・ヒューズ首相は、露骨に嘲笑を浮かべた。


「白豪主義は我が国の生存権である。日本人がオーストラリアに入国すれば、白人の文明が崩壊し治安の悪化が懸念される。」


これらの発言に対して、英国のロイド・ジョージ首相は、沈黙を守った。

しかし、その目は「中東での日本軍貢献」を思い浮かべつつも、米国の顔色を窺っていた。


1植民地の立場であるオーストラリアに対して、強気の姿勢を取れない、それが今の英国が置かれている立場である。


其れ等を締め括るかのように、フランスのクレマンソー首相は、冷ややかに言った。


「理想は美しいが、現実を無視してはならない。連盟は平和を維持するためのものだ。この問題で各国の歩調を乱すことは認められない。人種問題は、各国の国内問題として残すべきだ。」


委員会での投票は、結果賛成多数(11対5)となった。

日本は各国に働きかけ、これらを可決するよう呼びかけていたのだ。しかし、議長であったウィルソンが拒否権を発動。

条項は最終的に削除されることとなった。


しかし、完全削除ではなく、


「人種差別撤廃の原則は国際連盟の精神に合致する」


という付帯決議が残された。

これは、英国・フランスの日本への配慮と、中東戦線での貢献がもたらした最小限の譲歩だった。


牧野は、ソファから立ち上がり、窓辺に近づいた。


「我々は決して、負けたわけではない。

付帯決議が残ったという事は、国際社会が『人種平等』を無視できないことを認めた証だ。」


彼は、机の上に置かれた報告書を手に取った。


「中東での勝利は、確かに我々に発言力を与えた。

しかし、それだけでは足りない。」


日本の置かれた立場というものは、非常に難しいものであった。



一連の人種差別撤廃案の否決は、日本国内の新聞では大々的に報道され、一部市民が抗議を行う事態へと発展していた。


東京の新聞は1920年4月30日付朝刊の一面トップで、以下の見出しを掲げた。

人種平等原則否決 米英の傲慢に屈す

記事本文では、牧野伸顕全権の奮闘と、国際連盟規約起草委員会での投票結果(賛成多数にもかかわらず米国拒否権発動による否決)を詳細に伝え、付帯決議の残存を「最小限の成果」と位置づけた。


他の全国紙も同様の論調で、国民の間に


「弱腰の外務省」「米英何するものぞ、白人との決戦は近い」


といった声が一部で上がったことは事実である。

しかし、政府・軍部・知識層の多くは、これを極めて冷静に受け止めていた。


日本は世界において、唯一欧米と対等に外交を行える、アジア・アフリカ唯一の独立国家である。


自らが前を進み、道を切り拓く。その後ろに着いてくるもの達が、果たしてどれだけいるだろうか?

そんな事わかるものではない。しかし、確実に日本という国はその国力を対外に示していた。


一方で日本のこの撤廃案を目にした多くの欧米植民地は、希望の光を見いだしていた。


インド:ガンディーやネルーら独立運動家は、「日本が人種平等を国際的に主張した」と評価。反英感情の高まりに寄与し、非暴力抵抗運動の精神的支柱となった。


蘭印インドネシア:スカルノやハッタら民族主義者は、日本を「アジアの解放者」として強く意識。オランダ植民地支配への不満を一層強めた。


仏印インドシナ:ホー・チ・ミンら初期の独立運動家が、日本の人種平等主張を参考文献として引用。フランス本国への反発を助長。


エジプト・イラク・シリア(旧オスマン領):アラブ民族主義者たちは、日本の中東軍事貢献と人種平等主張を結びつけ、「アジア・アラブ連帯」の可能性を感じ始めた。


これらの反応は、表立ったものではなかったが、植民地知識人層の間で静かに広がり、1920年代以降の反植民地運動の遠因の一つとなった。


日本政府は、否決を「外交的敗北」とは見なさず、「長期戦の第一歩」と位置づけた。


牧野伸顕は帰国後の私的なメモに、次のように記している。


「今日の否決は、明日の勝利への布石である。

我々は、力によってではなく、実績によって、平等を勝ち取る。」


1920年は、日本が国際舞台で初めて「人種平等」という普遍的理念を掲げ、世界にその存在を刻んだ年となった。

その影響は、植民地諸国に希望を与え、日本自身に新たな覚悟を植え付けた。



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