北方戦役 終
1918年11月11日
第一次世界大戦の休戦がなったその日、日本軍中東派遣軍はその力を存分に発揮した事により、中東戦線に於いて連合国側の圧倒的有利を形成する事に成功し、戦後の統治においても治安維持活動に従事していた事によって、一定の評価を得ることとなった。
また、中東戦線に於いて前線を離れていた間も、日本軍は航空機の輸送を怠ることなく、本土にて機体の性能の向上を果たしながら、少しずつアップグレードを重ねていた。
そのかいあってか、中東戦線派遣時と比べ、航空隊の練度並びに機体そのものの不備は、当初よりも遥かに減じていた。
停戦が成ったと同時に、日本軍は帰路に着くために、一部の少数の日本軍顧問団をイランに駐在させる以外の人材を、ブーシェフルへと向かわせた。
旅路は来た時よりも遥かに緩やかに進み、ある種観光めいた話をする兵も散見された。
それは、戦争の終わりを想起させるには実に根になる風景であった。
各国の派遣記者は、この姿を大々的に報道し極東の島国の、第一次世界大戦への貢献は確実なものとして記録される事となった……。
しかし、物事というものはそれ程上手く行くものではない。
寧ろ、日本軍にとっての第一次世界大戦はコレからという形に発展していた。
1918年11月11日、ユーラシア大陸はニコラエフカ近郊部
人影がワラワラと動き回り、防御陣地を固めているところに突貫する姿がある。
その数は数万にも登るだろという、膨大な人の塊は冬季へと入りかけている河川に向けて、ひたすらに前進を続けていた。
ボリシェヴィキの勢力が急速に拡大する一方、白衛軍はシベリア鉄道沿線で抵抗を続け、この日も押し寄せる赤衛軍を食い止める為に、白衛軍は全力で応対する。
しかしながら、その数は膨大である。
北上していた赤衛軍が白衛軍を回り込む形で、渡河を成功させ部隊を上部から圧迫し始めていることを、日本の偵察機はロシア白衛軍へと通達すると、やむを得ず白衛軍は撤退を開始する。
この数ヶ月の間、白衛軍と赤衛軍の戦いは激化の一途を辿っており、膨大な数の赤衛軍に押される形で白衛軍はジリジリと後退をやむなくしていた。
10月革命から逃れた資産家や、皇帝に忠誠を誓っていた農夫たちなど、シベリア鉄道沿いにハバロフスクまで到達した者たちは、数十万人を数える。
その中に、例え赤衛軍のスパイが紛れ込んでいたとしても到底裁ききれるものではない。
致し方なく受け入れる他ない、白衛軍にとってこの戦いは苦いものとなっていた。
第一次世界大戦の終戦に伴い、実質的に東部戦線への派兵の意義を無くした、英仏米日の連合軍の足並みも揃っていないかった。
多くの血を流した仏にとって、極東での出来事は些事であり同様に英国にとってもそうであった。
唯一米国だけは乗り気であったが、如何せんどれだけの力があろうとも、距離の壁は超えられない。
次第に、連合国側もこのロシア内戦に嫌気が差し始めていた。
日本にとっては、決して対岸の火事の出来事ではなく。得体のしれない思想家と、其れ等が起こした革命という熱波は、到底理解できるものではない。
その為に、日本軍はウラジオストク、ハバロフスク、並びに満州北部を拠点に航空機を主体とする支援を継続していた。
一部陸軍の部隊も戦闘に参加し、少なくない数のボリシェヴィキを包囲殲滅したものの、それは焼け石に水である。
何処からか湯水のように湧いてくる兵士達は、ある意味絶望的な世界へと変わっていた。
対して白衛軍の数は、住民を全て含めても100万人に満たない。これでどうして、勝てると言えようか…。
日本軍は業を煮やしていた。
この戦いはヴェルサイユ条約の交渉が始まってもなお、収まるところを知らない。
寧ろ、悪化の一途を辿った。
1919年1月18日 ヴェルサイユ条約の講和会議、パリ講和会議が始まり、第一次世界大戦の集結という新たなお題目の下議論が始まった。
日本の立場として、戦争への参加とその報酬に関して以下の条文を要求した。
中東権益(イラク油田20%シェア、イラン北部油田開発権・顧問団地位)の永久承認。
南洋諸島全域の委任統治権(軍事制限の事実上無効化、要塞化継続)。
極東における実効支配(沿海州・シホテルーシ共和国)の黙認。
等の主要3項目である。
これに対して、英仏は第一次世界大戦、中東戦線への派兵に対する正当な報酬として、これらを全面的に支持する姿勢を、講和交渉初期から貫いていた。
対して米国(ウィルソン大統領)は、南洋諸島の委任統治を認める代わりに、日本に「軍事制限遵守」を強く要求する。
日本はこれに対して、南洋諸島の要塞化は「既成事実」として押し通し、要塞化の継続を黙認させることに成功する。
コレは日米の太平洋に対する対立が決定的なものとなった、第一段階でもあった。
次にこのとき、日本が要求、承認された南洋諸島の領土であるが以下の通りである。
旧ドイツ領ミクロネシアの全域(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、パラオを含む)
ナウル島
ドイツ領ニューギニアの周辺小島(一部の環礁・無人島)も日本委任統治領に含まれた。
ニューギニア本島北部はオーストラリア委任統治が維持されたが、日本はセピック川以北の一部を獲得した。
コレは英仏が、日本の事を列強として完全に認めた事に表れであったが、ニューギニア本島に関してオーストラリアの横槍があった事は確かである。
しかし、英国の立場から折れることも出来ず、東経141度線以東セピック川以北の小規模な領土を得たことになる。
これが後に、オーストラリアと日本の関係に大きな溝として横たわった。
1919年4月〜5月
コルチャーク軍はハバロフスク・アムール川以南まで後退を余儀なくされ、そこで防御線を構築していた。
日本軍はここに、数個師団規模の部隊を投入。
機械化部隊と航空支援の連携により、赤衛軍の攻撃を幾度となく包囲殲滅した。
大正6年式双発爆撃機が、鉄道沿線の補給拠点を精密爆撃し、白衛軍の防衛を支えていた。
が、一方連合国(英米仏)は、次第にシベリア出兵から距離を置き始めた。
英国は中東戦線の安定化とインド防衛に集中し、米国は太平洋での日本優位を警戒して、積極的な支援を控えた。
フランスは国内の混乱で手一杯で他に手が回らず。
日本は、孤立しながらも極東の空白を埋め続けた。
この頃、日本はパリ講和会議にて、沿海州自治政府の正当性を必死に訴えていた。
日本はシホテルーシ共和国の成立を「ロシア人の自治」と説明し、アレクセイ皇太子の生存とキリル大公の協力が、国際社会に「正統ロシアの継承」として提示され、英米の反対を抑えていた。
この間も戦闘が収まることは無かったが、極東への延伸という長大な補給路に苦しめられる赤衛軍は、アムール川以南へと進軍することは出来ず、川を挟んだ睨み合いと、日本軍による突発的な攻撃により赤衛軍は渡河を食い止められていた。
結果として、ロシア白衛軍が持つ、沿海州全域の実効支配が事実上承認され、アムール川を北部国境とするシホテルーシ共和国の地位が黙認されることとなった。
結果として
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約では以下の内容が日本側に認められた。
中東石油権益の永久承認
南洋諸島の委任統治権(軍事制限の実質無効化)
極東におけるシホテルーシ共和国の事実上の保護国化
コレは国内向けには、日本の外交的勝利として。
そして、対外的には日本の列強としての地位の確立として、歴史に刻まれる。
シホテルーシ共和国は、立憲君主制を採用し、アレクセイ皇太子を象徴君主、キリル・ウラジーミロヴィチ大公を摂政とする形が確立された。
しかし、赤衛軍の圧力は止まず、ハバロフスク以北の防衛線は常に危機に晒されていた。
この時期、日本軍首脳部は、シホテルーシ共和国首脳部に対して、決断を迫った。
「オブルチエ以東のシベリア鉄道を破壊する」
それは、赤衛軍の補給線を完全に断ち、極東全域の支配を確定づける最終手段だった。
しかし、同時に、ロシアの国土を物理的に分断し、ソビエト連邦の成立を加速させる可能性を孕んでいたのだ。
シホテルーシ共和国首脳部は、激しい議論を続けていたが、アレクセイ皇太子は、病弱ながらも、静かに言った。
「我々は、生き延びるために、ここにいる。
祖国を切り裂くことになるとしても……守るべきものは、ここにある。」
彼の決意を聞きキリル大公は、重い決断を下した。
「鉄道を破壊せよ。これ以上、赤軍に近づかせることはできない。」
1920年夏、オブルチエ以東のシベリア鉄道は、日本軍工兵隊と白衛軍協力により、大規模に破壊された。
赤衛軍の進撃は完全に止まり、極東の空白は日本とシホテルーシ共和国の支配下に置かれた。
シホテルーシ共和国
立憲君主制(象徴君主:アレクセイ1世)
日本顧問団が実権を握る保護国形式
首都
ウラジオストク(Vladivostok)
旧ロシア総督府を行政庁舎として使用
面積
約25万〜28万 km²
沿海州全域(約16.5万 km²)+カムチャツカ半島全域の約半分(山岳部除外)
総人口
約50万〜60万人
民族構成(割合)
- ロシア人(白系含む):60〜65%- 日本人:20〜25%- 中国人:8〜10%- 朝鮮人:4〜6%- その他:2〜5%
GDP(推定)
約1億〜1.5億米ドル(1920年価格)
漁業・木材・鉱物資源輸出が主。
1人当たりGDP
約200〜300米ドル
主要産業
漁業(鮭・蟹)、木材採取、鉱物探査(金・銅)、港湾貿易
日本企業(三菱・三井系)が主導
軍事駐留
日本軍約5,000〜8,000名常駐
シホテルーシ共和国軍(親日ロシア人主体)と共同防衛
通貨
ロシア・ルーブル(暫定)+日本円併用
経済圏は日本円中心にシフト
国際的地位
日本保護下の事実上の独立国




