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古の灯火  作者: 丸亀導師
日露戦争
5/81

203高地 5

1904年11月中旬、旅順包囲線後方・第三軍野営地。


夜の帳が降り、寒風が丘陵を吹き抜ける中、迂回部隊の将兵たちは、指定された谷間の野営地に集められていた。

中央牽制部隊や予備部隊とは離れた、森の縁に近い場所。

ここから、数日後の夜に、北東部谷地への潜入が始まる。


天幕は最小限に抑えられ、火は厳しく制限されていた。

ロシア軍の探照灯が遠くを照らす光が、時折木々の葉を白く浮かび上がらせる。

将兵たちは、毛布にくるまり、地べたに座って待っていた。

歩兵三個大隊、工兵中隊、軽砲兵の一部――総勢約三千名。

皆、顔には疲労と緊張が刻まれていたが、今日は特別な日だった。


糧食の配給時間。

補給係の兵士たちが、竹筒と麻袋を抱えて現れた。

普段の乾パンと塩梅干に加え、今日は「特別支給」があるという噂が、すでに広がっていた。


「迂回部隊の諸君、今日は司令部からのご褒美だ。

兵糧丸を、一人二個ずつだ。

正面の連中には、まだ回らんらしいぞ。」


補給係の声に、将兵たちの目が一瞬輝いた。

兵糧丸――古の武士が腰に下げたという、あの固い携帯食を、軍が改良したものだ。

週に一度の補給で、普段は一人一個が標準だった。それが今日は二個。


しかも、迂回部隊優先。

最初に配られたのは、第一大隊の小隊長・佐藤中尉の部下たちだった。

一人の若い兵士、十九歳の田中一等兵が、麻袋から受け取った兵糧丸を掌に乗せた。


大きさは握り拳ほど。表面は水飴で固められ、光を浴びて鈍く輝いている。

匂いを嗅ぐと、炒り米糠の香ばしさと、ほのかな蕎麦の香りが混じっていた。


「今日は米糠が強いな。東北の補給便か? 香ばしくて、腹持ちが良さそうだ。」


田中は嬉しそうに笑い、隣の同郷の兵に肘で突ついた。

隣の兵、鈴木上等兵は、自分の兵糧丸を齧ってみて、目を細めた。


「俺のは蕎麦が多めだ。蕎麦処の産だな。ルチンが効いて、足が丈夫になるって軍医が言ってたぜ。

運がいい、こいつは脚気知らずだ。」


さらに後ろの列では、別の兵が不満を漏らした。


「なんだよ、俺のは豆ばっかりだ。大豆の粉が固くて、歯が折れそうだぜ。

人参の味も薄いし、甘みが足りねえ。」


周りが笑う小馬鹿にしたようなものだが、より空気を和らげた。


「文句言うなよ。豆は腹持ちがいいんだ。夜間行軍で、空腹にならねえだけマシだ。」


別の兵が、自分の兵糧丸を高く掲げてみせた。


「見てみろ、俺のはハト麦が混じってる。粒が残ってて、噛むたびにプチプチする。

滋養強壮だってよ。こいつで、ロシアの機関銃をぶち抜いてやるぜ。」


笑い声が広がる。

ごちゃ混ぜの兵糧丸は、ロットごとに材料の偏りが激しかった。

ある者は米糠と蕎麦の香ばしさに喜び、ある者は豆の満腹感に満足し、ある者は人参のわずかな甘みに舌鼓を打つ。

不満を言う者もいたが、それすらも、戦場の小さな娯楽だった。


「正面の連中は、まだ乾パンと梅干だけだってよ。

俺たち迂回部隊は、特別扱いだぜ。」


そんな言葉が、羨望と優越感を交えながら囁かれた。

しかし、笑い声は長く続かなかった。

配給が終わると、小隊長・中隊長たちが集められ、松川敏胤中佐自らが作戦の全容を説明し始めた。

地図を広げ、灯りを落とした天幕内で、松川の声が低く響く。


「諸君。この作戦は、第三次総攻撃の主力だ。

正面は牽制に留め、我々が北東部谷地から迂回し、要塞背後へ回り込む。

数百名単位の備に分散し、夜間行軍を繰り返す。

騎兵が先行偵察、軽砲兵が側背展開。補給路を断ち、敵砲台を無力化する。

最終的に、三方向から包囲を完成させる。」


将兵たちの顔から、笑みが消えた。

固唾を飲み込む音が、天幕内に広がる。

死地だ。

誰もが、そう思った。

迂回部隊は、敵の監視が薄いとはいえ、谷間と森林の暗闇を這うように進む。

一度発見されれば、孤立無援。ロシアの予備隊に包囲され、全滅の危険がある。

正面部隊は、少なくとも味方の砲撃支援がある。

だが、ここは違う。死地――死の中へ自ら飛び込む。

小隊長の一人が、声を震わせて尋ねた。


「中佐殿……成功の見込みは?」

松川は、静かに答えた。

「成功すれば、旅順は陥落する。

損害は最小限に抑えられる。

失敗すれば……我々が全滅するかもしれない。

だが、正面の肉弾攻撃を繰り返せば、第三軍全体が消耗する。

死中活あり――死の状況に、活路を見出す。

これが、我々の道だ。」


天幕内に、重い沈黙が落ちた。

兵糧丸の甘い香りが、まだ残っていた。

嬉しがったり、不満を言ったりした、あの小さな喜びが、遠い記憶のように感じられた。



羨ましく思う者もいた。

正面部隊の兵士たちは、遠くからこの野営地を眺め、特別支給の噂を耳にしていた。


「迂回部隊は、兵糧丸を二個もらったらしいぜ」


「腹が満たされれば、士気も上がるな」


そんな声が、羨望を込めて囁かれる。

だが、すぐに気づく。

あそこへ行く者は、死地へ向かう者たちだ。

正面で戦う自分たちの方が、まだ生き延びる確率が高い。

羨望は、すぐに恐怖と同情に変わった。


迂回部隊の将兵たちは、毛布にくるまり、夜空を見上げた。

星は冷たく輝き、ロシア要塞の探照灯が、時折闇を切り裂く。

兵糧丸を噛みしめ、味を思い出す。

米糠の香ばしさ、蕎麦の風味、豆の満腹感、人参の甘み、ハト麦の粒。

ごちゃ混ぜの味が、バラバラで、不均等で、それゆえに人間らしい。

これが、最後の味になるかもしれない。

誰もが、そう思っていた。


作戦開始は、数日後。

夜の闇に紛れ、谷間へ潜入する。

死中活あり。

古の教えが、近代の戦場で、試されようとしていた。

将兵たちは、静かに目を閉じた。

寒風が、野営地を吹き抜ける。

遠くで、砲声が響く。


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