空軍創設 終
1916年、所沢飛行場。
帝国空軍の創設から1年が経過していた。
対空用戦闘機と爆撃機の開発が、本格化して機体の形状の見直しが始まると、開発は急ピッチに進んだ。
それと同時並行するように、陸海軍との連携が、始まったがこの合同演習が曲者であった。
やれ、そこを攻撃しろ、やれ邪魔だと、無意味な注文が多く入っていたが、それぞれから裏切り者と見られることが多々あった。
そういった発言は、一々集計し空軍から出来上がったばかりの、統合参謀本部の方へと上がっていった。
天皇の意向の元一体となった、陸海空軍。仲違いをするような事案を起こされたら堪らないと、無意味無駄な注文は辞めるよう、上から圧力がかかる。
ザマアないと思う反面、注文の内容も翌々確認すれば、意外と的外れでないこともあり、より三軍の緊密な動きが必要であると、改めて気付かされていた。
三軍全体を統括する、統合参謀本部の人事権は天皇の下にあったが、現在ここは陸海の派遣争いの場である。
表向きは仲良くしているが、ここに空軍が加わればどうなるか…空軍参謀長である山本をして、苦笑いがこみ上げてくる。
1916年も春の終わり頃になれば、空軍内での前引き式プロペラ配置の航空機が続々と試作機が姿を現れていた。
後方視界の良好なその機体と、誤って飛び降りる際に挽肉にならずに済むようになったという、そんな安心感もあったが、一つ問題が生じた。
前方に機銃を装着することが、非常に難しい事である。
プッシャー式の機体であれば、前方にプロペラが存在せずそのまま機体前方に括り付ける事が可能であったが、前引き式はその配置故に、機体前部に配置するには、俄に難しいところがあった。
逆に、偵察機としての特性は非常に良好な物があった。
プッシャー式と違って、コックピット後方に2人乗り用のスペースを設け、そこに軽機関銃の搭載が可能であったのだ。
後方の垂直尾翼も1本に纏められ、それに注意さえすれば後方の安全を確保するのは容易となった。
しかし、それだけのリスクも空を飛ぶには大変なところがあった…。
模擬空戦が始まった頃、後部銃座を取り付けられた1式偵察機と試作戦闘機…後に大正5年式戦闘機と呼ばれるそれの試作型は、従来のプッシャー式とは雲泥の差の運動性を見せつけ、次々に有効性を見出されて行った。
ただ一つ、文句がある分野もあった。
「前引き式は怖くないし、後ろもよく見れるから安全なんだが、機関銃が前に置くのが大変だ。」
この当時、日本が装備していた前方機関銃は6.5ミリ弾の対装甲能力の不足を憂慮し、村田銃の11ミリ弾薬を無煙火薬とした
明治44年式重機関銃 11ミリ弾型
を使用していた。内部構造と給弾機構はそのままに、弾薬に適合するためだけに創り上げられた急造品であるが、その威力は絶大であった。
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明治44年式重機関銃 11mm型改造型(1914年急造改修)
この代替歴史世界線における明治44年式重機関銃の11mm型改造型は、青島攻略戦(1914年)の戦訓から急遽開発された派生型です。
研究会影響の対装甲・対空需要に対応するため、既存の明治44年式重機関銃(元来6.5mm仕様)を11mm弾(村田銃弾の無煙火薬置き換え版)に改修したものです。
1914年秋から急造開始し、1915年頃に実戦配備されました。以下に、主な仕様と特徴を記述する。
主な仕様
口径: 11mm(無煙火薬置き換え版、尖頭弾移行後)
徹甲弾頭を標準とし、装甲板(20mm厚程度)を貫通可能。
銃身長: 約1,000mm(総銃長約1,800mm、三脚込み)
水冷式銃身で連続射撃時の過熱を抑制。
重量: 約45〜55kg(三脚込み)
大隊レベルで運用、複数名運搬を標準。
給弾方式: ベルト式(100〜200発ベルト)
連続射撃を重視し、信頼性を強化。
射速: 毎分約400〜500発
有効射程: 約1,500〜2,000m
弾種: 徹甲弾、徹甲榴弾、曳光弾(尖頭弾移行後)。
対歩兵・対軽装甲・対空兼用が可能。
生産数: 約500〜1,000挺(1914〜1916年急造分)
既存6.5mm型の改修と並行生産。
設計思想と特徴
明治44年式重機関銃11mm型改造型は、日本備の「持続支援火力」を強化した急造装備です。
急造改修の背景: 青島での軽戦車原型有効性が、対装甲火力不足を露呈。
研究会影響で、既存重機関銃の銃身・給弾機構を11mm仕様に改修し、短期間で実用化。
この11ミリ弾は初期型では、
11mm村田弾の改修によって実現された。
11mm×60口径弾、黒色火薬式であったそれを始め尖頭弾としたものの、威力不足の懸念があった。、
11mm×100口径のものへと、進化して行った。
水冷・ベルト給弾: 長時間射撃の信頼性を確保し、大隊レベルの陣地防御を強化。
11mm弾の貫通力で、軽装甲車両・低高度航空機を脅かす。
限界: 急造のため、銃身耐久性と精度に課題。
1916年以降の尖頭弾移行で改善。
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ただ、それがもし自機やプロペラに当たったらどうなるか……、正しく諸刃の剣である。
このときの日本軍には、プロペラ同調装置を保持していなかった。その技術を得るための経験の蓄積に、時間がたりなかったと言うところも大きい。
研究は続いていたが、失敗は続いていた…。
ただそんな折、天啓…いや一つの報告がはいる。
それは外務省からの通達であった。
「英仏両国より、参戦要求の打診あり。」
その要求は以下の通りである。
時期: 1917年初頭(英国の要請受諾後、約半年の準備期間を設けるものとする。)
英国の無制限潜水艦作戦対策と、インド防衛支援を目的とした連合国側協力への。
である。
対して、日本外務省はこれに幾つかの文言を追加しつつ、要件の鈍化を図った。
外務省が渋った理由は、以下の理由があった。
外務省は、日英同盟の履行義務を認めつつ、アジア・太平洋優先の外交方針を維持。
欧州遠征の拡大が資源分散を招き、満洲・南洋諸島権益の安定を脅かすと懸念。
長期戦兆しの中で、無駄な消耗を避け、戦後講和での発言力確保を優先しました
鈍化の戦略:
要件追加により、派兵規模を最小限に抑え、英国側の譲歩を引き出す交渉術を採用。
派兵規模の限定:
駆逐艦12隻と航空機20機程度の少数部隊に制限。
陸軍師団級の派兵は拒否し、「護衛任務に特化」と主張。
作戦区域の制限:
地中海に限定し、大西洋や欧州本土への拡大を拒否。
アジア・太平洋での自由行動権を条件に要求。
技術・権益の対価:
同期射撃装置・対潜装備の設計図に加え、航空機エンジン技術の移転を要求。
戦後、中東石油権益のシェア(イラク油田10〜20%)とイラン影響力の容認を条件。
損害補償と外交優位:
派兵中の損害(艦艇・人員)は英国側が全額補償。
戦後講和会議での日本発言力強化と、太平洋委任統治領の完全承認を要求。
期間制限:
派兵期間を1年以内に限定し、延長は再交渉。
これに対し、英仏側からはこのような返答があった。
英国側の返答(主導)
英国大使は、外務大臣に書簡を提出し、以下の内容を伝えた。
「日本側の要件は、理解できる。
地中海での護衛任務は、連合国全体の利益であり、少数部隊の派遣で十分な効果が期待される。
以下の条件で、合意を求める。
一、派兵規模は駆逐艦12隻と航空機20機程度で可。
陸軍師団級の派遣は、現時点では不要とする。
一、作戦区域を地中海に限定し、アジア・太平洋での日本自由行動を承認。
一、技術移転として、同期射撃装置と対潜装備の設計図を提供。
追加で、航空エンジン技術の共有を検討。
一、損害補償は全額負担し、戦後講和会議での日本発言力を支持。
一、派兵期間を1年とし、延長は再交渉。
日本側の貢献は、連合国勝利に不可欠である。
早期派遣を、強く希望する。」
フランス側の返答(補完)
フランス大使は、英国と連携し、以下の追加意見を伝えた。
「フランスは、英国の提案に同意する。
日本軍の質的優位は、欧州観戦で証明されている。
少数派兵でも、効果は大きい。
航空機の活用を、特に歓迎する。」
これらの要求と交渉の末、何の問題もなく其れ等は履行される筈であった…。
しかし、現実は思いもよらぬ方向へと進んで行く。
日本国内の陸軍から、不満の声が上がったのだ。
海軍ばかりが欧州大戦へと派兵された場合、その発言力は上がるだろうことが容易に想像できた。
更に、青島攻略戦での戦訓のフィードバック、其れ等を試す為の土壌を欲した。
これに対し、空海軍の反応は以下のようであった。
空軍からは、寧ろ陸軍に肯定的な反応であった。
創設されたばかりの空軍は実績と、何より実戦での経験を欲していたのだった。
海軍は、これらに対し不満を吹き出さなかった。
そもそも派兵要求に対して、海軍だけが犠牲を出す事が海軍側からすれば、不公平に映っていた。
実際、大西洋・地中海での護衛任務に従事する者たちにとって、其れ等は非常に許し難い事である。
故に、軍全体は寧ろ外務省に敵対的であったと言えよう。
外務省と軍部との対立は深かったが、最後の審判と称し内閣がこの対立の仲裁に乗り出したものの、彼等もまた吊るされた餌に食いついた。
結局のところ、外務省は内閣の意向に沿って…軍の派兵を行うという結果を、欧州側に通達する外無かった…。
派兵規模の拡大:
元々の英仏要求は駆逐艦12隻と航空機20機程度の少数護衛部隊でしたが、陸軍の強い要望(「欧州戦訓の実戦適用と陸軍戦力の証明」)と空軍の後押し(「航空実戦経験の蓄積」)により、陸軍1個師団相当(約12,000〜15,000名)の地上部隊が追加されました。
総派兵規模は約15,000〜20,000名に拡大し、護衛任務から地上進撃支援へ移行。
派兵実現: 1917年初頭、駆逐艦12隻、陸軍2個師団相当、空軍50〜80機の合同部隊が派遣。
作戦区域の拡張:
元々地中海限定だった区域が、陸軍部隊の投入によりメソポタミア戦域(イラク方面)へ拡大。
条件の追加と譲歩:
日本側は規模拡大の代償として、英国から以下の追加譲歩を引き出しました。
航空技術のさらなる移転(戦闘機エンジン・同期射撃装置の改良版)。
中東石油権益のシェア増大(イラク油田15〜20%)。
ペルシア(イラン)での日本顧問団地位の強化と経済権益優先。
英仏両国はこれらの要求に対して、以下の返答を行った。
「日本側の派兵拡大提案は、連合国勝利に極めて有益である。
陸軍2個師団相当と空軍部隊の追加派遣を、歓迎する。
以下の条件で、即時合意を求める。
一、派兵規模を陸軍1個師団相当、空軍30機程度、海軍駆逐艦12隻とする。
作戦区域をメソポタミア戦域に拡大し、オスマン軍南部戦線の進撃支援を優先。
一、技術移転として、同期射撃装置・対潜装備に加え、航空エンジン(ロールス・ロイス初期型相当)の設計図を提供。
一、損害補償は全額負担し、戦後中東石油権益のシェア(イラク油田20%)を約束。
ペルシアでの日本顧問団地位を強化し、経済権益を優先的に認める。
一、派兵期間を2年とし、延長は再交渉。
日本側の外交優位を、戦後講和会議で支持。
日本軍の質的優位は、欧州観戦で証明されている。
この派兵は、インド防衛と連合国勝利の鍵となる。
早期派遣を、強く希望する。」
フランス大使は、英国と連携し、補完的な意見を伝えた。
「フランスは、英国の提案に全面同意する。
日本軍の航空・機械化支援は、オスマン軍の崩壊を加速させる。
追加で、フランス製迫撃砲技術の共有を検討する。」
これによって得られた技術により、日本空軍の試作戦闘機は、実戦的能力を得て。
参戦によりその真価を発揮する。
大正5年式戦闘機として、その姿を現すのだ。
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大正5年式戦闘機
機種形式: 複葉単発前引き式戦闘機速度・機動性を向上させた初期型。
全長: 約8.0m
全幅: 約10.0m
全高: 約2.8m
空虚重量: 約600kg
最大離陸重量: 約900kg
エンジン: 国産空冷星型9気筒(約150馬力)
航空力学研究所の出力強化成果を適用。
最大速度: 約150km/h
航続距離: 約400km
実用上昇限度: 約4,000m
乗員: 1名(操縦士)
武装: 11mm航空機関銃1挺(同期射撃装置搭載)
英国技術移転を基に国産化。11mm弾(無煙火薬置き換え版)の貫通力で敵偵察機・低高度機を威嚇・撃墜。
生産数: 約100〜150機(1916〜1920年頃)
試験・実戦配備用として共同研究部隊から空軍へ移管。
設計思想と特徴
大正5年式戦闘機は、日本備の「上空機動支援」を戦闘機に応用した機体です。
前引き式移行: プッシャー式の抵抗を低減し、速度向上を実現。
研究会影響の航空開発加速により、1916年に実用化。
迎撃重視: 同期機銃の搭載で、敵機撃墜を可能に。
軽量構造で旋回性能を高め、初期空中戦に対応。
耐久性: 木製骨組・布張りを基調としつつ、エンジン周りを強化。
戦場環境への適応性を考慮。
限界: エンジン出力不足と構造強度の課題が残り、1920年代の改良型へ移行。
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これによって、日本空軍及び海軍航空隊の航空機は、プッシャー式から、前引き式へと移管することとなった。
1916年冬 所沢飛行場
一年式偵察機と5年式戦闘機の模擬戦は、圧倒的大差によって5年式に軍配が上がった。
特に、同調装置はその性能をいかんなく発揮し、模擬目標に向けて圧倒的な火力を提供したのだ。
「プッシャー式はもう駄目だな……、せめて後ろにプロペラが無ければ…上手く行くのになぁ。」
その言葉とともに、日本航空機界に於いてこの後10年以上、表側からその姿を消す事となるその設計思想。
しかし、それを諦めきれない者たちが少しずつ、其れ等を用いた機体の設計を細々と続け…、機体の最適化を成していく事となる。
大日本帝国空軍は、これより世界的な航空隊として歩んで行くこととなるのだ。




