203高地 4
1904年11月初旬、第三軍司令部大天幕。
評定の場は、異様な静けさに包まれていた。
中央の長机を囲み、乃木希典大将が上座に座り、その両脇に参謀長伊地知幸介少将、松川敏胤中佐、そして第三軍の主要参謀・連隊長級将校二十余名が並んだ。
暖炉の火は強く燃え、天幕内を橙色に染めていたが、外の寒風は容赦なく布を震わせ、時折冷気が隙間から忍び込む。
机上には、旅順要塞の詳細地図が広げられていた。
203高地、松岡山、椅子山、盤龍山、爾霊山――ロシア軍の鉄壁の防御線が、赤い線で克明に描かれている。
これまで二度の総攻撃で失った二万の将兵の血が、この地図に染みついているかのようだった。
乃木は、ゆっくりと立ち上がり、声を低く抑えて告げた。
「諸君、第三次総攻撃の計画を変更する。
これまでの正面突破を断念し、迂回包囲策を採用する。
詳細は、松川中佐より説明させる。」
天幕内に、ざわめきが広がった。どういうことか?連隊長たちの顔に、驚愕と疑念が浮かぶ。
伊地知は眼鏡を外し、無言で地図を睨んだ。
彼はすでに初稿を修正済みだったが、なお不安を拭い去れずにいた。
松川敏胤は立ち上がり、地図の前に進み出た。
三十歳そこそこの若さだが、声は落ち着き、眼光は鋭く燃えていた。
彼は地図を指し、静かに、しかし確信に満ちて語り始めた。
「諸君、この策は武田信玄の機動戦を基調とし、近代の銃砲に適用したものです。
核心は、『備』の再編と、地形を活かした大迂回です。
まず、第三軍を三つの主力群に分割します。
第一群:中央牽制部隊
歩兵二個連隊基幹、砲兵中隊を附し、203高地正面に最小限の圧力を継続的に加えます。
目的はロシア軍の注意を正面に固定すること。
昼間は散発的な射撃と偽の陣地構築を行い、夜間は沈黙を守ります。これにより、敵の探照灯と機関銃を正面に集中させます。
第二群:左翼迂回部隊
歩兵三個大隊基幹、工兵中隊、軽砲兵大隊を附します。
松岡山・椅子山方面から北側へ迂回。盤龍山北東部の谷地を縫い、夜間行軍を繰り返します。
各大隊をさらに数百名単位の『備』に分散。
備の編成は、鉄砲隊(小銃・機関銃隊)を前衛に、槍隊(刺刀装備の歩兵)を後続に配置。地形の死角を活用し、敵哨戒を回避します。目標は要塞北側背後への到達。軽砲兵を急展開し、側背からの集中射撃でロシア砲台を無力化します。
第三群:右翼迂回部隊
歩兵三個大隊基幹、騎兵連隊一個、軽砲兵大隊を附します。海岸沿いの低地と森林を活用し、東側へ大迂回。
秋山好古閣下の騎兵思想を取り入れ、騎兵を先行偵察に用い、最適経路を確保します。ここでも備単位の分散進撃を採用。目標は要塞東側補給路の遮断と、港湾施設への脅威作成です。
全体の同期は、無線と伝令を併用。欺瞞行動として、偽の正面攻撃準備を継続的に演出――虚の陣地構築、夜間移動の偽装灯火などを行います。
これにより、ロシア軍の予備隊を逐次投入させ、各個撃破を誘います。
砲兵運用は、福田雅太郎閣下の研究に基づき、重砲は正面牽制に留め、軽砲兵を迂回部隊に随伴させ、側背集中射撃を優先。敵砲台の射界を逆用し、死角から軟化させます。
工兵は、鉄条網・地雷原の突破を担当。夜間作業を多用し、迂回経路の確保を急ぎます。
最終段階では、三方向からの同時包囲を完成。正面牽制部隊が本格攻撃に移行し、側背・背後からの突入を同期。ロシア軍の指揮系統を混乱させ、降伏を強要します。
この策の利点は、歩兵の消耗を大幅に抑制すること。従来の総攻撃では、白兵戦で連隊が壊滅しましたが、本策では正面突撃を最小限に抑え、機動と地形利用で優位を確保します。損害は、従来の三分の一以下と見積もります。」
松川の説明は、詳細で論理的だった。
地図上の矢印が、赤から青へ変わっていく。
正面の太い矢印は細くなり、左右から回り込む曲線が、要塞を包むように描かれた。
天幕内に、沈黙が落ちた。
連隊長たちの顔に、驚愕が広がる。
これは、ドイツ教範の常識を覆す策だった。
分散、迂回、欺瞞――封建時代のような戦法が、近代の機関銃と重砲の戦場で通用するのか?
しかし、席の隅に座っていた数名の将校の表情は、違っていた。
秋山好古少将。
騎兵の専門家として招集されていた彼は、目を輝かせていた。
「騎兵を先行偵察に……まさに武田の騎馬軍団だ。広大な迂回運動で敵の退路を脅かす。これなら、騎兵の機動性が活きます。」
彼の胸に、島津家の撤退戦や武田の風林火山が蘇っていた。静かに、しかし確実に興奮が広がる。
福田雅太郎中佐。
砲兵出身の彼は、地図の側背射撃位置を指でなぞり、頷いていた。
「軽砲を随伴させ、死角から集中……島津の釣り野伏せそのものだ。重砲の固定運用を脱し、機動砲兵の時代が来る。」
彼の瞳に、確かな光が宿る。
明石元二郎大尉。諜報の専門家として一時欧州に派遣されていたが、急遽召集された彼は、欺瞞行動の部分で唇を歪めた。
「偽の陣地、灯火の偽装……上杉の川中島夜戦、北条の河越城奇襲。情報操作で敵を惑わせる。これでロシアの予備投入を誘える。」
静かに拳を握り、興奮を抑えていた。
荒木貞夫中尉と宇都宮太郎大尉。
若手として席の端に控えていた二人は、互いに視線を交わした。
荒木は、毛利の厳島や長宗我部の少数制圧を思い浮かべ、息を呑む。
宇都宮は、北条の防御反撃や徳川の関ヶ原を重ね、頷く。
彼らの胸に、研究会以来の夢が、ついに実戦で試される興奮が湧き上がっていた。
日本軍学研究会の初期メンバーたち――松川、秋山、福田、明石、荒木、宇都宮。
彼らは、密かに視線を交わし、静かに、しかし確実に興奮を共有していた。
古の教えが、ついに戦場で証明される時が来た。
松川は、最後に一つの提言を加えた。
「もう一つ。迂回部隊の将兵は、過酷な夜間行軍と長期間の潜伏を強いられます。
士気維持のため、食事時に兵糧丸を優先的に配布すべきです。
週に一度の補給で、一人二個を標準とし、迂回要員には追加支給を。
将兵の腹が満たされれば、士気は自ずと上がります。」
乃木は、ゆっくりと確かめるように頷いた。
「その提言も採用する。
諸君、この策は異端かもしれない。
だが、二万の将兵を失った今、これ以上の出血は許されぬ。
成功すれば、旅順は陥落する。
失敗すれば……第三軍の責任は、私が負う。」
天幕内に、再び沈黙が落ちた。
しかし、それはもはや疑念の沈黙ではなく、覚悟の沈黙だった。
やるしかない、人的資源は決して無限ではない。 これ以上の損耗は出来ない…。
将校たちが天幕を出る中、研究会メンバーたちは、互いに視線を交わした。
静かに、しかし確実に、古の灯火は広がっていた。
外では、旅順の夜風が吹き荒れていた。




