203高地 3
1904年10月下旬、第三軍参謀長宿舎天幕。
松川敏胤は、足早に天幕を潜り抜け、伊地知幸介少将の前に立った。
外套を脱ぎ、軍帽を脇に抱え、深く一礼する。
天幕内は暖炉の火が弱く燃え、地図と書類が机を埋め尽くしていた。
そんな中で尚、伊地知は眼鏡を外し、疲れた目で松川を見上げた。
「松川中佐か。司令官閣下からの急使か。」
伊地知はやっとの事であの老獪が動いたのかと、息巻いた。決断を下すのは将としての器、しかし第三次攻撃に躊躇するその姿に、あまりにも決断の遅さを憂慮していた。
松川は頷き、静かに言った。
「はい。閣下のご命令です。第三次総攻撃の計画を、迂回包囲策に変更せよ、と。」
伊地知の眉が、ぴくりと動いた。迂回包囲……、あまりにもその提案は彼の思案とは違った。そもそも迂回包囲など…と彼はゆっくりと立ち上がり、地図を指で叩いた。
「迂回包囲……? 正面を避け、側背へ回り込むという、あの異端の策か。」
伊地知の声には、明らかな不快が滲んでいた。
ドイツ陸軍大学校で学んだ彼にとって、教範は絶対だった。
決戦は正面にあり。分散は統制の乱れを招き、敵の逆襲を許す。
統制の乱れた軍等、烏合の衆に他ならない。それが、近代戦の鉄則だ。
「松川君。君の研究は知っている。陸軍大学校の夜遅くの議論、古書を回し読みする秘密の会合……。
その知的好奇心に対しては、経緯を表するところだ。
だが、これは戦場だ。旅順要塞は、ヨーロッパの最新工法で築かれた鉄とコンクリートの怪物だ。
正面を固め、機関銃と重砲で迎え撃つロシア軍を、谷間を這うような迂回で崩せると本気で思うのか?」
迂回包囲というものは、大博打に過ぎる。そもそもそのような事をやって、果たして兵の統制が持つものか?あまりにも想像の外である。
松川は、伊地知の広げた地図のうち、盤龍山の死角、北東部の谷地、森林地帯を指でなぞり、その地点を指で2度叩く。
「参謀長閣下。正面攻撃を二度繰り返し、我々はすでに二万の将兵を失いました。
ロシア軍は、203高地に全力を集中しております。監視の薄い北東部から、数百名単位の小部隊を夜間行軍で浸透させれば、背後に回り込めます。
騎兵で偵察を先行、軽砲兵を側背に展開。補給路を断ち、砲台の射界を逆用する。
正面は牽制に留め、歩兵の出血を最小限に抑えます。」
伊地知は首を横に振った。やはりこの男とは馬が合わない。
しかし、その言葉に対して制しておくのが、参謀長としての務めであると伊地知は口に出す。
「統制が取れなくなる。分散した部隊が孤立し、ロシアの予備隊に各個撃破される恐れがある。
ドイツの教範が教えるのは、重厚な正面突破だ。モルトケの遺産を、無視するのか?」
普仏戦争の折、プロイセン軍とフランス軍は正面での決戦を制した方が、戦争の主導権を握り結果プロイセンの快勝となった。
それは歴史的事実であり、そしてそれにより戦争の雌雄を決したのだ。
だが、その事実に対して松川の瞳が、鋭く燃えた。
「閣下。モルトケの教範は、プロイセン対フランスの平原戦を基にしています。
ここは旅順の丘陵地帯です。彼方此方に起伏に富んだ地形を活かせば、古の戦法が生きる。
武田信玄の機動は、数百年の時を超えても、通用するはずです。
司令官閣下は、すでにご決断なさいました。
この策を採用し、私に詳細立案を命じられました。」
伊地知は、息を吐いた。
老参謀の顔に、苛立ちと諦めが交錯する。乃木希典陸軍大将、この時54歳、日々肉体が衰えていく中に、遂に精神も衰えたか?と、そう思わんばかりである。
「乃木閣下が……あの頑固者が、そんな異端の策を?」
乃木に対する否定的な声を背に、松川は静かに続けた。
「閣下。第一次・第二次総攻撃の損害をご覧になりましたね。
連隊が壊滅し、大隊が中隊に縮小する惨状を。
これ以上、将兵を無駄に死なせるわけにはいきません。
死中活あり――死の状況に、活路を見出す。
これは、戯言ではありません。実戦で証明してみせます!!」
伊地知は、長く沈黙した。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てる。
目の前の若き将校は、自身の策に対して自信を持ってここにいる。
正直な話、伊地知とてわかっているのだ。このまま正面突撃を繰り返しても、旅順が…203高地が陥落する確証はないということを。
やがて、彼は眼鏡をかけ直し、地図に目を落とした。
「……分かった。司令官閣下のご決断なら、従うしかない。
だが、松川君。失敗すれば、君の首だけでは済まない。
第三軍全体の責任だ。」
それを聞いた松川は、ギラギラと輝く目を大きく見開き、深く一礼した。
「承知しております。
明日までに、詳細計画をまとめます。
騎兵の偵察ルート、迂回部隊の編成、砲兵の側背展開……すべてを。」
伊地知はため息をつき、椅子に座り直した。
もう、策などあまりにも無いのだと…、故にこれに賭けてみる事も思案にしなければならないと…。最悪の場合、腹を切る覚悟を持たねばと。
「好きにしろ。だが、夜明けまでに初稿を見せろ。それが出来なければ、私は閣下に再考を進言する。
初稿が上がれば、私も修正を加えるがな。」
松川は、再び敬礼し、天幕を出た。
外の寒風が、彼の頰を打つ。
しかし、胸の奥に、微かな炎が灯っていた。
古の灯火は、参謀たちの間で、静かに広がり始めていた。
伊地知は、一人残り、地図を睨んだ。
ドイツ式の鉄則と、古の異端…いや古き鉄則。
どちらが正しいのか――答えは自ずと、戦場が示す。
だが、彼の心の奥底で、わずかな不安が疼いていた。
その不安は当然のことであった。1600年から続いた徳川の時代、戦乱を起こすことなく廃れていったその形。
時代に取り残され、力を証明した信頼も何もないそれを、果たして実行に移すことなどできるのだろうか?と。
この策が失敗すれば、第三軍は壊滅する。
成功すれば……歴史が変わる。
外では、旅順の夜が、さらに深まっていた。
新たな動きが、闇の中で始まろうとしていた。




