外交官の苦悩
――日米の摩擦――
1913年夏、在米日本公使館・ワシントン。
夏の陽光が、ポトマック河の水面を銀色に輝かせていた。
公使館の執務室で、珍田捨巳は窓辺に立ち、遠くの街並みを眺めていた。
四十八歳の彼は、静かな眼差しで外の世界を見つめながら、胸の奥に渦巻く重圧を抑えていた。
日露戦争の勝利から八年。
日本は大国として歩み始めたが、その道は、予想以上に険しいものだった。
机の上には、カリフォルニア州の移民法改正案に関する新聞が広げられていた。
法案は、ついに施行された。
日本人移民の土地所有を制限する内容。
それは、単なる州法ではなく、日米関係の深い亀裂を象徴するものだった。
珍田は、新聞を手に取り、再び見出しを追った。
「黄色い脅威」——そんな言葉が、米国新聞の論調を支配していた。
日露戦争の勝利が、日本人の誇りを高め、移民の増加を促した。
しかし、米国側は、それをアジアでの日本の拡大主義と重ね、警戒を強めていた。
満洲の権益強化、樺太の資源開発。
これらが、米国の門戸開放政策と対立する。
珍田は、かつてのルーズベルト大統領の仲介を思い出した。
ポーツマス条約の恩人。
あの頃の米国は、日本をアジアの均衡者として歓迎した。
しかし、今のウィルソン政権下では、移民問題が政治化し、反日感情が表面化した。
公使館の会議室で、珍田は部下たちと協議した。
「カリフォルニア法の施行は、日米関係の転機だ。
米国は、我々の勝利を脅威と見なしている。」
部下の一人が、慎重に答えた。
「しかし、通商は拡大しています。
経済的結びつきが、協調を維持するはずです。」
珍田は、静かに首を振った。
「経済は結びつきを生むが、感情は分断を生む。
この法案は、表面上の問題だが、裏にはアジア政策の対立がある。」
珍田の苦悩は、夜毎深まった。
日本は大国となったが、米国はさらに大きい。
摩擦を避けつつ、移民の権利を守り、権益を維持する。
それが、外交官の使命だった。
しかし、心の奥で、無力感が広がっていた。
カリフォルニアの世論は、反日感情に傾いていた。
新聞の論調は、厳しかった。
ウィルソン大統領への書簡を起草したが、効果は限定的だろう。
珍田は、窓から外を見た。
ワシントンの街は、静かだった。
しかし、日米の摩擦は、静かに、しかし確実に高まっていた。
――日英同盟――
1913年秋、在英日本帝国大使館・ロンドン。
霧の朝が、ロンドンの街を覆っていた。
テムズ河の水面は灰色に沈み、遠くのビッグベンの鐘が、ぼんやりと響いていた。
大使館の執務室で、安保清種陸軍大佐は、窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。
四十五歳の彼は、駐在武官としてロンドンに赴任して2年が経過していた。
日露戦争の勝利がもたらした自信を胸に、欧州の軍事事情を観察する任務を負っていた。
安保の机の上には、英国新聞と軍事報告書が積まれていた。
表面上、日英同盟は堅固だった。
1902年の締結以来、英国は日本をアジアの同盟者として信頼し、日露戦争中の支援が両国の絆を深めた。
しかし、安保の心には、静かな不安が広がっていた。
欧州情勢の緊迫化と、英国の対日態度に、微妙な変化を感じ取っていたからだ。
バルカン半島の紛争が、列強の対立を深めていた。
オーストリアとセルビアの緊張、ドイツの軍備拡張、フランスの復讐心。
英国は、欧州大陸の均衡を維持するため、日本への依存を強めていた。
アジアでの日本協力が、英国のインド・中国権益を支える。
大使館の会議で、安保は大使に報告した。
「英国は、我々を友好国と見なしている。
しかし、中国大陸における行動を警戒する声が、大使館にも届いている。」
大使は、頷いた。
「満洲権益の拡大が、英国の中国政策と競合する。
新聞の論調も、微妙に変わり始めている。」
安保は、内心で苦悩していた。
日英同盟は、日本の大国地位を支えた。
しかし、英国の態度は、二面的だった。
同盟の継続を望みつつ、日本のアジア進出を牽制する。
奉天会戦の勝利と日本海海戦の完勝が、日本を脅威として映している。
英国の新聞は、時折、日本の大陸政策を「拡張主義」と批判した。
安保は、英国軍の将校たちとの交流で、その警戒を感じ取っていた。
軍事演習の招待を受け、英国の新戦艦ドレッドノート級を視察した時、将校の一人が言った。
「日本海軍の成長は、驚異的だ。アジアの均衡を、維持できるか。」
それは、友好の言葉に隠された警戒だった。
安保の苦悩は、欧州情勢の緊迫化で深まった。
バルカン危機が高まり、英国は欧州に注力せざるを得ない。
日本への期待は増すが、同盟の負担も増す。
満洲での権益拡大が、英国の中国権益と微妙に競合する。
安保は、報告書を起草しながら、考えた。
同盟は、必要だ。
しかし、英国の心は、完全に我々に向いていない。
大使館の庭で、安保は霧の朝を眺めた。
ロンドンの空は、灰色だった。
日英同盟は、表面上の友好を保ちつつ、裏側で緊張を孕んでいた。
――アジア独立国の悲鳴――
1913年冬、東京・外務省。
外務大臣牧野伸顕は、執務室の暖炉の前に立ち、窓から外の雪景色を眺めていた。
五十二歳の彼は、伊藤博文の側近として長年外交に携わり、日露戦争後のポーツマス条約交渉にも関与した人物だった。
勝利の余韻が残る中、牧野の心は、アジアの遠い声に苛まれていた。
机の上には、暹羅と波斯からの報告書が積まれていた。
暹羅は、英国・フランスの植民地圧力に苦しみ、波斯は英ロの分割協商に抗っていた。
両国は、日本をアジアの希望として見なし、支援を求めていた。
牧野は、報告書を手に取り、静かに読み返した。
暹羅の国王ラーマ6世からの書簡は、近代化の援助を感謝しつつ、英国の影響力増大を憂いていた。
波斯の立憲派は、日本顧問の指導を評価しつつ、英ロの干渉が深まる現実を訴えていた。
牧野の心は、重かった。
日露戦争の勝利は、アジアに独立の夢を与えた。
日本は、非植民地国として、列強を破った。
しかし、その勝利は、アジア諸国に期待を抱かせ、同時に悲鳴を上げさせていた。
日本は強くなったが、アジアの兄弟国を完全に守れない。
満洲・樺太の権益拡大が、列強の警戒を招き、支援の限界を生んでいる。
外務省の会議で、牧野はアジア局長に言った。
「暹羅と波斯の声は、我々の責任だ。
勝利が、彼らに希望を与えた。
しかし、我々の大陸進出が、列強の圧力を強めている。」
局長は、慎重に答えた。
「支援は続けています。
顧問派遣と経済援助で、独立を支えています。」
牧野は、首を振った。
「支援は、限界がある。
英仏の植民地政策、英ロの協商。
我々は、アジアのモデルとして期待されているが、力不足だ。」
牧野の苦悩は、アジアの悲鳴を聞くことだった。
日本は、勝利で大国となったが、アジアの独立国を完全に守れない。
支援は、日本の理想だが、現実は列強の均衡の中にある。
暹羅の国王は、日本を頼りにしつつ、英国の圧力を恐れていた。
波斯の立憲派は、日本顧問の指導を評価しつつ、英ロの影響を払拭できずにいた。
牧野は、暖炉の火を見つめた。
火は、静かに燃えていた。
しかし、心の奥で、アジアの声が響いていた。
「日本は、強くなった。
だが、アジアの兄弟は、まだ苦しんでいる。」
牧野は、書簡を起草した。
暹羅と波斯へ、支援継続の約束を。
しかし、心の奥で、無力感が広がっていた。
アジア独立国の悲鳴は、静かに、日本外交に響いていた。
牧野の苦悩は、消えなかった。




