民衆の暮らし
1913年夏、東京・本所の下町。
夏の夕暮れが、狭い路地を橙色に染めていた。
木造長屋の二階建ての一軒で、佐藤家の夕食の支度が始まっていた。
父親の佐藤源助は、四十五歳。江戸っ子らしい短気な性格で、軽工業の工場――小さな機械部品を作る工房――で働いていた。
若い頃、地頭は良かったが、家が貧しく進学を諦め、十五で丁稚奉公に出た。
今も、工場で旋盤を回しながら、世の中の不満をぶつぶつ呟くのが癖だった。
源助は、仕事着のまま縁側に座り、団扇で顔を仰いでいた。
今日も工場は暑く、汗が乾かないうちに帰宅した。
「また、米糠かよ。毎日毎日、米糠入りご飯じゃ、腹が減るぜ。」
源助は、不満げに言った。
日露戦争の勝利から八年。
軍が米糠食を推奨し、学校や新聞で栄養の話が持ちきりだった。
源助は、それが気に食わなかった。
江戸っ子の意地で、白米が一番だと思っていた。
台所から、妻の佐藤たけが、鋭い声で返した。
「文句言うんじゃないよ、源さん。
米糠が体にいいって、先生も新聞も言ってるじゃない。脚気で倒れるより、ましでしょ。」
たけは、四十二歳。
かかあ天下と近所で噂される強気な女性だった。
源助は、たけの前ではいつも弱かった。
若い頃、たけの気の強さに惚れて結婚したが、今も口では勝てない。
「わかったよ、わかった。お前の言う通りだ。」
源助は、団扇をパタパタ仰ぎながら、諦めたように言った。
長女の佐藤花子は、十六歳。
高等女学校で栄養学を専攻し、鈴木梅太郎のオリザニン研究に熱中していた。
花子は、台所で母を手伝いながら、夕食の米糠ご飯を味見した。
「お母さん、今日の米糠はいい匂いね。
学校で習ったけど、オリザニンがたくさん入ってる米糠は、体を強くするんだって。」
たけは、笑った。
「花ちゃんは、勉強熱心だね。
お父さんみたいに、文句ばっかり言わないでよ。」
花子は、微笑んだ。
彼女は、オリザニンの発見を、学校で学び、感動していた。
戦争の教訓が、科学を生んだ。
女性も、栄養学で国に貢献できる。
そんな思いが、花子の胸にあった。
次男の佐藤太郎は、十四歳。
中等部に通う少年で、海軍に憧れていた。
夕食の支度を聞きつけ、部屋から飛び出してきた。
「お母さん、今日も米糠ご飯?
でも、海軍の兵士さんは、みんな強くなったって新聞に書いてあったよ。」
太郎は、目を輝かせた。
彼は、海軍兵学校を目指していた。
兄のように、航空機研究部隊に入りたい夢もあったが、今は海軍の艦艇に憧れていた。
源助は、団扇を止めた。
「海軍か。お前も、兄貴みたいに軍人になる気か。」
太郎は、頷いた。
「うん!兄ちゃんは、陸軍士官学校で航空のこと勉強してるんだろ?僕も、海軍で飛行機乗りたいからさ!」
長男の佐藤一郎は、十八歳。
陸軍士官学校に進学し、家族に仕送りを送っていた。
この場面にはいないが、家族の話題の中心だった。
一郎は、航空機研究部隊への入隊を夢見て、猛勉強を続けていた。
たけは、夕食を運びながら言った。
「みんな、早く食べな。ご飯が冷めちゃうよ。」
源助は、ため息をついたが、箸を取った。
家族は、食卓を囲んだ。
米糠入りご飯、野菜の煮物、魚の焼き物。
質素だが、栄養バランスの取れた食事だった。
花子は、静かに思った。
オリザニンが、家族の健康を守っている。戦争の勝利が、こんな日常を変えた。太郎は、海軍の夢を胸に、ご飯を頬張った。
源助は、不満げだったが、家族の顔を見て、黙って食べた。
かかあ天下の家で、彼はいつも負けていた。
東北の農家——高橋家の一日
1913年秋、岩手県の山間部。
高橋家の農地は、里山に囲まれた小さな盆地に広がっていた。
秋の収穫期を迎え、稲穂が黄金色に輝き、風に揺れていた。
高橋家は、父・高橋伝次郎(48歳)、母・高橋すみ(45歳)、長男・高橋一郎(22歳)、三男・高橋三郎(17歳)、末っ子の娘・ミツ(9歳)の五人暮らしだった。
次男の二郎(20歳)は、徴兵で満洲の部隊に配属されており、家を離れていた。
伝次郎は、朝早くから畑に出ていた。
国の奨励で、村に貸し出されたトラクターが、今年から使えるようになった。
重い鋤を引く馬の代わりに、エンジンの音が響く。
伝次郎は、トラクターのハンドルを握り、土を耕していた。
「これなら、馬より早いな。
国が貸してくれるなんて、ありがたい。」
伝次郎は、独り言のように呟いた。
日露戦争の勝利から、国の奨励で機械が農村に入ってきた。
教習所で、村の若者たちがトラクターの使い方を習い、高橋家も一郎が講習を受けた。
馬の飼料代が浮き、作業が速くなった。
すみは、家で米を搗いていた。
搗き終わった米糠は、袋に分けられた。
一部は飼料に、一部は近所の油搾り屋へ持ち込み、買取に出す。
米糠油は、灯りや料理に使われ、残渣は肥料に戻る。
国の奨励で、米糠の買取価格が上がり、農家の収入が増えていた。
一郎は、父の隣でトラクターを補助していた。
長男として、家業を継ぐ彼は、毎日畑仕事に励んでいた。
戦争の勝利が、国の奨励をもたらした。
トラクターや新しい種、肥料。
一郎は、父に言った。
「父さん、このトラクターで、今年は収穫が増えそうだ。」
伝次郎は、頷いた。
「ああ。
二郎の仕送りも、助かる。
満洲で、元気でやってるらしいな。」
二郎は、徴兵で軍にいた。
満洲の部隊で、機械の整備を学んでいるという手紙が届いていた。
家族は、二郎の無事を祈っていた。
三郎は、家で本を読んでいた。
十七歳の彼は、農業大学への進学を目指していた。
国の奨励で、農村の優秀な子に奨学金が出るようになった。
三郎は、土壌学の本を広げ、米糠の肥料効果をメモしていた。
「大学に行って、新しい農法を学びたい。
国が奨励してるんだから、チャンスだ。」
三郎は、静かに決意を固めていた。
ミツは、九歳の末っ子。
家の周りを走り回り、トラクターの音に目を輝かせていた。
「お父さん、トラクターすごい!私も、乗せて!」
伝次郎は、笑った。
「大きくなったらな、ミツ。」
すみは、台所から声をかけた。
「みんな、昼飯の時間よ。
米糠の油で、野菜を炒めたわ。」
家族は、畑から戻り、食卓を囲んだ。
ご飯に、米糠油の炒め物、漬物。
質素だが、栄養のある食事だった。
一郎は、父に言った。
「二郎の手紙、来てたね。
軍で、機械のこと勉強してるって。」
伝次郎は、頷いた。
「戦争が終わって、国が強くなった。
機械も、農家に来るようになった。」
三郎は、本を閉じ、言った。
「大学で、学んでくるよ。
新しい農法で、村を豊かにする。」
ミツは、無邪気に笑った。
「お兄ちゃん、早く帰ってきて!」
高橋家は、静かに食事を続けた。
国の奨励が、農村を変え始めていた。
トラクターの音が、遠くに響いていた。




