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古の灯火  作者: 丸亀導師
日露戦争
2/82

203高地 2

乃木希典は、長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。


石油ランプの炎が、彼の影を天幕の布に長く伸ばし、揺らめく光の中で老獪な将軍の顔は、まるで古い能面のように見えた。

古の灯火は、朧気にしかし確かに灯った。


彼は机の上の鈴を鳴らした。

その音を聞きつけて、伝令が幕を開け入ってくる。

伝令は敬礼をして、乃木が何を命令してくるのかと、ギラギラとした目を彼に向けていた。


「第三軍参謀、松川敏胤中佐を、ただちに呼び出せ。」


伝令が去った後、乃木は再び地図の前に座った。

彼の指は、再び盤龍山の死角をなぞり、しかし確かに

今度は首を縦に振る、2度3度何かを確認するかのように。


三十分後、松川敏胤が天幕に入ってきた。急な呼び出しに対して、慌てたようしていたが、外套を脱ぎ、軍帽を胸に抱え、静かに敬礼する。


三十歳そこそこの若さだが、瞳にはすでに戦場の重みが宿っていた。いや、それも致し方ない事であろう。有史以来、これ程の大要塞を相手にした人物が、果たして存在しているだろうか?いや、いない。

近代要塞のその堅牢なその姿は、誰の目よりも明らかにその威容を放っている。


乃木は無言で『甲陽軍鑑』を差し出し、最後の頁を開いたまま、松川に向けた。

それを見た松川は、一瞬ギョッとしたかのように面食らっていたが、乃木の次の言葉で全てを理解した。


「この注釈を書いたのは、貴様か。」


松川は一瞬、息を止めた。心臓がヒンヤリとする。この老獪な将軍は、自らを叱咤するのか?それとも…、淡い期待が目の前に示される。その名を示すように、本が自らを指し示す。


やがて、静かに頷いた。


「はい。司令官閣下。」

「この……迂回包囲の策を、旅順要塞に対して実行可能と考えるか。」


乃木のその言葉に、固唾を飲み込むと直ぐにでも頭を切り替えて松川は地図に近づき、落ち着いた声で語り始めた。


「ロシア軍は、203高地と松岡山、椅子山の正面に全神経を集中しております。

それ故に、北東部の谷地と森林地帯は、監視が相対的に薄く、夜間行軍を繰り返せば、数百名単位の小部隊を背後に送り込むことが可能です。

騎兵を先行させて偵察を徹底し、軽砲兵を側背に急展開すれば、要塞の補給路を断ち、砲台の射界を逆用できます。

正面は、最小限の牽制射撃に留め、歩兵の消耗を抑えます。」


乃木は目を細めた。その戦法の異様さは、やはりこの男がこそ、この本に注釈を加えたのだと言うことを、改めて実感させるには十分な余白があった。


ドイツの物とも、フランスの物とも違う。まるでぽっかりと空いた大きな穴に、突如として現れたかのようである。


しかし、松川のその言葉に対して乃木のドイツ式教範の声が、脳裏で響く。 


「決戦は正面突破にあり。分散は統制の乱れを招く。」


正面突破、それはヨーロッパの洗浄では極当たり前のように繰り返された、戦闘正面での決戦思考。


しかし、そんな教範の声を遮るかのように、現実がそれを駆逐するかのように、二万の亡霊が、再び囁く。

第一次総攻撃の銃声。第二次総攻撃の土煙。

若者たちが、砲声に包まれ、機関銃の前に倒れていき、血の川が流れる旅順のその姿が…。


そんな乃木の事を知ってか知らずか、松川は言葉を続けた。


「閣下。この策は、武田信玄の戦法を、近代の銃砲に適用したものです。

死中活あり――死の状況に活路を見出す。

我々は、もう正面の肉弾で将兵を失う必要はありません。」


乃木は、ゆっくりと顔を上げ、松川を見据えた。

その瞳には僅かなる恐怖と、同時に希望を抱く光が宿っている。


「貴様は、この策が成功すると信じているのか。」


乃木は確認するかのように松川へと問いただす。それは己を奮い立たせる為か、はたまた疑義を持っているのか…?

しかし松川は、その言葉にわずかに間を置いて答えた。


「信じております。

ただ、成功の代償は、閣下のご決断にかかっております。」 


遅かれ早かれ、乃木は決断しなければならない。正面突撃を繰り返し、再び血の川を創り出すか?

はたまた、一縷の望みを前にしてその綱を掴むのか…?

その先にある物を見据えることは、誰であろうと無理なことだ。


近大戦を戦った事がある、武田の武者など何処にもいない。


しかし、松川の言葉は乃木の意気を奮い立たせるには充分な力を持っていた。


目の前のこの男は、決して乃木のことを疑ってかかっている訳では無い。ただ信じたいのだ。目の前にいる単なる老獪が、果たして現実を見据え決断を下せるのかという事を。


天幕内に、長い沈黙が落ちた。

外の風が、布を叩く音だけが響く。その音が木霊するかのように、二人の間に確かに道を指し示す。

乃木は、机の上の命令書を見つめた。


第三次総攻撃の原案――正面高地への全面突撃。

それは、数万の命を再び地に塗りつける非情な命令だった。


乃木は静かにしかし確かに、それを強く握りしめ

グシャリとそれを握り潰し。

新たなる命令書を即興で書き上げて、松川の眼の前につき出し、やがて乃木は静かに言った。


「貴様の案を採用する。

第三次総攻撃は、迂回包囲策をもって行う。

作戦の詳細は、明日までにまとめ、参謀長と協議せよ。」


松川の瞳に、驚きと決意が交錯した。信じていなかった訳では無い。しかし、ドイツ式の戦訓を取り入れた軍が、果たして古きこの戦を採用するかなど、わかったものではなかったのだ。


松川は狂喜を拳を強く握りつぶし、深く一礼しをした後声を抑えて答えた。


「恐縮に存じます。

閣下のご英断に、感謝いたします。」


この言葉とともに、松川は天幕を出ると大股で急ぎ参謀長である伊地知の元へと歩き出す。

第3軍司令官、乃木希典の名の下を引っ提げ、己の策を試すときが来たと、息巻いた。


松川が天幕を出た後、乃木は一人残り、再び『甲陽軍鑑』を手に取った。

最後の注釈を、指でなぞり確認するかのように、その言葉を紡ぐ。


「死中活あり。」


老獪な将軍の胸に、微かな疼きが残っていた。


外では、旅順の夜が深まっていたが、ロシア要塞の探照灯が、闇を切り裂き敵の侵入を拒んでいる。


だが、その光の届かぬ谷間と森林で、すでに新たな動きが始まろうとしていた。

古の灯火は、静かに、しかし確実に燃え広がり始めていた。


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