日露事後
ポーツマス条約の調印報が届いたその日、東京の街は、静かな興奮に包まれていた。
夏の終わりを告げる風が、街路樹の葉を揺らし、夕陽が建物の壁を橙色に染めていた。
新聞の号外が、街角で次々と配られ、人々はそれを手に立ち止まった。
「樺太全島割譲!満洲権益確保!ロシアに勝利!」
号外の見出しは、簡潔で力強かった。
賠償金なしという条件は、一部の新聞で指摘されたが、全体として勝利の喜びが勝っていた。
旅順の陥落、奉天の平原での大勝利、日本海での海戦の完勝。
これらの報が、次々と国民の胸に届いていた。
上野公園では、学生たちが集まり、号外を読み上げていた。
若い男たちは、拳を握り、声を上げた。
「日本は、大国となった!」
「ロシアの巨人を倒した!」
女性たちも、家族とともに公園を散策しながら、静かに喜びを分かち合った。
子供たちは、号外を手に走り回り、勝利の歌を口ずさんだ。
大阪の商店街では、商人が店先に日の丸を掲げ、無料の饅頭を配った。
「これで、商売も繁盛する!」
京都の寺院では、僧侶たちが勝利を祝う法要を行った。
鐘の音が、街に響き渡った。
農村では、収穫の秋を迎え、農民たちが田んぼで作業をしながら、勝利の報を語り合った。
「息子が、無事で帰ってくる。」
「満洲の土地が、日本のためになる。」
新聞は、連日、勝利の詳細を報じた。
奉天会戦の平原包囲、日本海海戦の丁字戦法。
陸軍の新戦法、海軍の完勝。
国民は、軍の変革を感じ始めていた。
東京の帝国劇場では、勝利を祝う演劇が上演された。
観客たちは、涙を流しながら拍手した。
国民の勝利への表現は、静かで、しかし深い喜びとして広がっていた。
それは、単なる軍事的勝利ではなく、日本が大国として歩み始めた瞬間だった。
1905年秋から1906年にかけて、日露戦争の勝利が日本にもたらした余韻は、軍内部に静かな変革の波を起こしていた。
ポーツマス条約の調印により、樺太全島の割譲と満洲権益の強化が確定した報は、国民の歓喜を呼び起こしたが、軍上層部では、勝利の裏側にある戦術的革新への注目が急速に高まっていた。
研究会――明治30年代後半に陸軍大学校の若手将校たちが密かに結成した非公式の秘密研究会――のメンバーたちは、戦争を通じてその存在を軍全体に知らしめた。
旅順攻囲戦での迂回包囲策と奉天会戦の平原機動戦は、彼らの研究成果が実戦で証明された瞬間だった。
当初は異端視されていた古の戦法の近代適用が、低損害勝利を実現した事実は、否定しようのない現実として軍に受け入れられ始めた。
松川敏胤中佐は、第三軍参謀として最も注目を集めた。
彼の立案した旅順戦法は、参謀本部に詳細報告され、児玉源太郎次長の目に留まった。
児玉は、松川を東京に呼び、直接戦訓を聴取した。
松川は、落ち着いた口調で、武田信玄の機動戦を基にした備の分散進撃と側背砲撃の効果を説明した。
児玉は、最初は懐疑的だったが、損害の軽微さとロシア軍の崩壊速度を数字で示され、認識を変えた。
「君の戦法は、ドイツ教範を超えている。
これを、全軍に広める必要がある。」
児玉の言葉は、松川の地位を一変させた。
彼は、参謀本部作戦課に異動となり、戦訓編纂の中心人物に任命された。
秋山好古少将は、騎兵の機動性が奉天で効果を発揮した功績で、騎兵監に昇進。
彼の主張――騎馬軍団の近代適用――は、研究会戦法の重要な柱の一つだった。
帰国後、秋山は騎兵学校の校長に就任し、新たな騎兵教範の策定を主導した。
偵察と急襲の役割を強化し、機械化への布石を打つ。
福田雅太郎中佐は、砲兵の側背運用が勝利に寄与したとして、砲兵監部に異動。
軽砲兵の随伴化を推進し、重砲の固定運用からの脱却を提唱した。
明石元二郎大尉は、欺瞞戦術の成功で注目を集め、諜報部門に配置転換。
彼の欧州経験が、研究会戦法の国際的評価を高める役割を果たした。
若手の荒木貞夫中尉と宇都宮太郎大尉は、研究会での研究が評価され、陸軍大学校の教官に抜擢。
彼らは、次世代の将校教育に、古の戦法の近代適用を組み込んだ。
研究会メンバーたちの台頭は、軍内部の世代交代を象徴していた。
従来のドイツ教範絶対視派は、勝利の現実を前に影響力を失い、研究会派が主流へと移行し始めた。
1906年、研究会は非公式ながら軍上層部の黙認を得て、戦術研究の中心機関として機能し始めた。
彼らの台頭は、単なる昇進ではなかった。
それは、日本軍の戦い方が、古の教えを基に近代的に変革される転機だった。
勝利の余韻の中で、メンバーたちは静かに、次なる挑戦を見据えていた。
そして、時は進み1906年春
陽光が窓から差し込み、講堂を明るく照らしていた。
陸軍上層部と各軍の代表将校が集まり、研究会戦法の正式命名式が行われた。
研究会メンバーは前列に座り、静かにその瞬間を待っていた。
大山巌元帥が、壇上に立ち、静かに口を開いた。
「日露戦争の勝利は、我が軍の新戦法によるものである。
旅順の包囲、奉天の平原決戦――これらは、古の教えを近代に活かした結果だ。
本日、ここに、この戦法を正式に命名する。」
児玉源太郎次長が、続いた。
「戦法の名は、『日本備』とする。
備は、古の機動塊を意味し、地形に適応し、様々な形態に移行する柔軟性を体現する。
日本備――これが、我が軍の基本形態である。」
講堂内に、静かな拍手が広がった。
研究会メンバーの顔に、満足の色が浮かんだ。
松川敏胤は、隣の秋山好古に視線を向けた。
秋山は、静かに頷いた。
福田雅太郎、明石元二郎、荒木貞夫、宇都宮太郎も、同じ思いを共有していた。
日本備
末尾に「戦法」を付けないのは、単なる戦術ではなく、軍の基本形態そのものを示すためだった。
地形によって兵科の形が変わり、平原では騎兵随伴の高速備、丘陵では分散歩兵の浸透備、島嶼では揚陸戦車の突撃備。
様々な形態に移行し、地形を味方につける。
それが、日本備の本質だった。
命名式後、将校たちは、新教範の配布を受けた。
表紙には、シンプルに「日本備」と記されていた
日露戦争終結後の陸海軍帰国と戦訓最適化
1905年秋から冬にかけて、日露戦争の終結に伴い、満洲・旅順から陸海軍の主力部隊が日本本土へ帰還した。
連合艦隊は対馬海戦の完勝を胸に、呉・佐世保へ凱旋。
第三軍をはじめとする陸軍部隊は、奉天会戦の勝利を携え、鉄道と船舶で順次帰国した。
帰還兵士たちは、国民の熱狂的な歓迎を受けつつ、戦場の記憶を背負っていた。
帰国後の陸海軍に待っていたのは、日露戦争における自軍と敵軍の動きに対する徹底的な最適化であった。
研究会戦法の成功が、軍全体の戦術・組織・装備の見直しを促した。
陸軍の最適化
陸軍は、研究会メンバーを中心に戦訓編纂委員会を設置。
旅順の迂回包囲と奉天の平原機動を分析し、従来のドイツ式教範を補完する形で新教範を策定した。
・機動塊の編成を標準化し、数百名単位の分散進撃を基本戦術に位置づけ。
・騎兵の偵察・急襲役割を強化し、軽砲兵の随伴運用を義務化。
・補給線意識を徹底し、鉄道・自動車の活用を推進。
・帰還部隊の将校たちは、研究会主催の講習会に参加。
旅順・奉天の成功事例を共有し、地形適応と側背攻撃の重要性を再確認した。
これにより、陸軍の戦術は史実より柔軟で機動的なものへ移行した。
海軍の最適化
海軍は、日本海海戦の完勝を基に、連合艦隊の戦訓を分析。
東郷平八郎と秋山真之を中心とする参謀団は、偵察・無線通信の効果を評価し、艦隊戦術の改良を進めた。
気球・無線を活用した偵察の強化。丁字戦法の洗練と夜戦雷撃の標準化。
陸軍の補給線意識を参考に、艦隊の燃料・弾薬持続力を向上させる計画を立案。
陸海協調の影響で、海軍は陸軍の機動戦法を海上に応用する議論を開始。
研究会メンバーの影響が海軍にも及び、水陸両用作戦の基礎研究が始まった。
両軍共通の最適化と影響
帰還後の最適化は、研究会が主導する形で陸海共同で行われた。
奉天会戦の平原包囲と日本海海戦の丁字戦法を比較し、「機動と連携」の原則を共通教訓とした。
―――――――
乃木家の居間は、静かな空気に包まれていた。
乃木希典は、帰国して間もない軍服姿で、座卓の前に座っていた。
顔には、戦場の疲労が残っていたが、目には穏やかな光が宿っていた。
長男の保典と次男の勝典は、父の前に並んで座っていた。
二人は、第三軍の歩兵として旅順攻囲戦に従軍し、無事帰還した。
顔には、まだ戦場の記憶が残っていたが、父の前にいる今、表情は柔らかくなっていた。
妻の静子は、傍らで茶を淹れていた。彼女の動きは、静かで優雅だった。希典は、二人の息子を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「無事で……よかった。」
その言葉は、最初は静かだった。しかし、声がわずかに震えていた。
保典と勝典は、いつもと様子の違う父の顔を見上げた。
父の目が、潤んでいることに気づいた。
希典は、目を伏せた。胸の奥から、何かが込み上げてきた。
旅順の戦場で、二人が戦死したという誤報が届いた時の絶望。
第一次・第二次総攻撃の惨状を思い浮かべ、息子たちを失う恐怖に苛まれた日々。しかし、二人は生きていた。
無事で、目の前にいる。
感情が、少しずつ高ぶってきた。
恥じる心があった。
将軍として、部下の命を預かりながら、自分の息子たちの安否にこれほど動揺したことを。
男として、涙を見せることを。
しかし、堤防は決壊した。
希典は、両手で顔を覆い、肩を震わせた。
嗚咽が漏れ、男泣きの号泣となった。
声にならない泣き声が、居間に響いた。
保典と勝典は、父の姿を見て、驚き、胸を締めつけられた。
父は、常に厳しく、感情を表に出さない人だった。
戦場で、部下の死を前にしても、涙を見せなかった父。
その父が、今、泣いている。
二人は、父の傍らに寄り、静かに肩に手を置いた。
言葉はなかった。
ただ、父の弱い姿を、初めて見た。
静子は、茶を淹れる手を止め、微笑んだ。
夫の涙を見て、胸が温かくなった。
戦場から帰った夫が、家族の前でだけ見せる姿。
息子たちが、無事でいることの喜び。
それは、微笑ましいものだった。
居間は、静かな涙と温かさに包まれた。
―――――――
日本陸軍内での改革が進展し始めたのと同じ頃、日本の医学界にも大きな波紋が生まれようとしていた。
鈴木梅太郎
日露戦争に於いて
陸軍内にあって江戸患いからの経験則を基に、米糠を中心にした兵糧丸等を提案した男の内の一人である。
陸軍内の糧食担当の知り合いから、脚気に良いものは無いか?と聞かれた彼は、米糠は効くというという事を伝えた。
そんな彼の下に陸軍から一つの依頼が流れて来た…。
脚気の原因を科学的に証明せよと言う内容であった。
日本備の詳細分析
日本備は、この代替歴史世界線における日本陸軍の基本戦法として、1906年頃に日本軍学研究会が提唱し、1910年代に全軍に定着した機動戦体系です。
日露戦争の戦訓を基に、古の戦法(武田信玄の備編成など)を近代的に再解釈したもので、ドイツ教範の重厚決戦主義から脱却し、地形適応・機動性・補給効率を重視した柔軟な戦法です。以下に、その詳細を構造的に分析いたします。
1. 基本原則
日本備の核心は、「地形を味方につけ、補給線を確保し、機動で敵を制する」ことにあります。
地形適応: 戦場地形を最大限活用し、正攻法の正面衝突を避ける。
平原では高速機動、丘陵・山岳では分散浸透、島嶼では揚陸突撃を基本とする。
機動塊編成: 数百名単位の自立機動部隊(備)を基本とし、分散進撃と集中火力を両立。
中央牽制を最小限にし、側背からの包囲を優先。
補給効率: 長期補給依存を避け、軽量装備と現地調達を組み合わせ、持続戦闘力を確保。
2. 編成と運用
部隊編成:
小隊レベル: 重擲弾筒と軽機関銃で自立火力。
中隊レベル: 軽迫撃砲随伴で曲射支援。
大隊以上: 野砲・重砲の機械化牽引で側背射撃。
騎兵・自動車・装軌車両を補助とし、偵察急襲を強化。
運用形態:
偵察優先: 航空機・騎兵で敵情把握。
分散進撃: 機動塊を複数展開し、敵集中を避ける。
包囲締め付け: 側背射撃と補給断絶で敵を崩壊させる。
3. 装備との統合
日本備は、装備開発を戦法に適合させる形で進化しました。
軽量火器: 明治38年式歩兵銃・明治40年式軽機関銃で携行性を確保。
曲射火器: 明治39年式軽迫撃砲・明治43年式重擲弾筒で地形死角対応。
機械化: 明治41年式騎兵自動車・明治44年式装軌トラクターで補給・機動を強化。
4. 史実との違いと影響
史実の日本軍はドイツ教範依存で重厚戦法を主流としましたが、本世界線では日本備の定着により、機動・適応戦法が標準化。
第一次世界大戦観戦で塹壕戦の限界を早期認識し、太平洋戦争期の島嶼防御で優位を発揮しました。
総力戦体制の基盤となり、資源効率化と質的優位を軍全体に浸透させました。
日本備は、地形・補給・機動の三位一体で、近代戦の柔軟性を体現した戦法です。
要するに、現代の軍事用語で表現するならば、日本備は以下の概念に相当します。
主な対応概念: Maneuver Warfare(機動戦)
特に、米軍のAirLand Battleや現代のMulti-Domain Operations(多領域作戦)の初期形態に近い。
地形を活用した分散機動、側背攻撃、補給線重視は、現代の機動戦の核心(速度・驚異・火力集中)と一致します。
補完的な概念:
Asymmetric Warfare(非対称戦): 資源の少ない側が機動と適応で優位を確保する点で類似。
Deep Battle(深層戦): ソ連軍の概念に近い側背包囲・補給断絶の思想。
Fire and Maneuver(射撃と機動): 分隊・中隊レベルの火力随伴と分散進撃が一致。
現代的特徴との比較: 日本備は、軽量火器(軽迫撃砲・軽機関銃)と偵察(航空機初期活用)を階層的に統合し、C4ISR(指揮・統制・通信・コンピュータ・情報・監視・偵察)の原始形態を体現。
現代のNetwork-Centric Warfare(ネットワーク中心戦)の先駆けと言えます。
この世界線では、日本備の原則が太平洋戦争期まで継承され、島嶼防御や機動戦の基盤となりました。




