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古の灯火  作者: 丸亀導師
日露戦争
14/83

狭間

1905年3月下旬、連合艦隊旗艦・三笠、呉軍港沖。


春の海は穏やかで、波が静かに艦体を揺らしていた。海鳥が鳴き、魚が泳ぎ、陽光が甲板を照らし、遠くの水平線が淡く輝く。


連合艦隊は、バルチック艦隊の来航に備え、呉と佐世保で整備と訓練を繰り返していた。

艦艇の塗装が新しくなり、砲塔の動きが滑らかになり、乗員たちの顔に緊張と期待が交錯していた。


士気は良し、何よりも彼らの肉体は脚気に侵されていない。西洋式の飯は、彼らの肉体をより強固にし、その予兆すら許していない。


一生懸命に訓練を行う彼らの傍ら、東郷平八郎司令長官は艦橋に立ち、遠くの水平線を睨み、参謀たちと作戦を練っていた。

彼の傍らには、いつも通り無言の決意が宿っていた。


作戦参謀・秋山真之中佐は、艦橋の一隅で地図を広げ、静かに考え込んでいた。


三十歳代半ばの細身の体躯、鋭い眼光。その先には地図がある筈である。しかし、この男の瞳には海図など映っていないかのようだ。真剣なまなざしと、その極限にまで研ぎ澄まされた刀のような鋭い感覚。


それとは裏腹に、彼の手には、いつものように炒り豆の小袋があった。

豆を一粒口に放り込み、ゆっくりと噛みしめながら、届いたばかりの電報を再読した。

カリカリという音が、艦橋の静けさをわずかに破る。


「奉天会戦大勝利。ロシア軍主力壊滅、クーロパトキン退却開始。我が軍損害軽微!」


真之は、豆を噛む音を立てながら、微笑んだ。

陸軍の動きが、彼の予想を超えていたからだ。

満洲軍の報告書はすでに届き、研究会戦法の詳細が一部明らかになっていた。


正面牽制と左右翼の大迂回、騎兵の機動偵察、軽砲兵の側背運用。

古の武田信玄や島津氏の戦法を、近代の火器で再現したものだ。

平原での大包囲が成功し、ロシア軍30万が崩壊寸前に追い込まれた。


損害は、予想の半分以下。

第三軍の健在が、全軍の戦力を支えていた。


真之は内心嬉しいものを見ていた。

聞きに及んでいた事であるが、まさか陸軍が凝り固まった頭をすげ変えるかのように、綺麗さっぱり動きを変えたのだと。


兄・好古からの私信も届いていた。


「研究会戦法が、奉天で花開いた。

平原での大包囲が成功し、ロシア軍は崩壊した。

騎兵の機動が鍵だった。

次は、海の番だ。お前も、古の水軍を活かせ。」


真之は、炒り豆をもう一粒口に含んだ。

兄・好古がそのように嬉しげに一筆書くのだから、並大抵のことではないと。

カリカリという音が、静かな艦橋に響く。陸軍内の改革の波が、海軍にも届いていた。


研究会は、陸軍の若手将校たちが中心だったが、その思想はすでに海軍の一部にも波及していた。


古の水軍戦術――厳島の包囲、木津川口の鉄甲船、村上水軍の機動。

真之自身、丁字戦法を構想する際、孫子の正奇の原則とともに、日本古来の水軍戦を参考にしていた。

陸軍が平原で古の風を吹かせたなら、海軍は海上でそれを継ぐ番だ。


奉天の勝利は、戦争の帰趨を決した。

ロシア陸軍は壊滅し、バルチック艦隊が来航しても、満洲の補給は絶望的。

奴らは、最後の賭けに出るだろうと。

極東へ、長い航海の果てに、疲弊した艦隊を繰り出してくる。

しかし、日本海軍は準備を整えていた。


連合艦隊の艦艇は、整備を終え、砲塔の動きは滑らか、無線通信の訓練は繰り返されていた。

気球による偵察も強化され、敵艦隊の位置把握が鍵となる。

東郷長官が、傍らに近づいた。


「真之、奉天の報を読んだか。」


真之は、敬礼し、答えた。


「はい、長官。陸軍の新戦法が、ロシア軍を粉砕したもようです。いやはや鮮やかなものです。資料の中からしか得られない貴重な情報を、それを基に新たに組み替える。

平原での包囲戦――古の教えが、生きていたとそう思えます。」


東郷は、それを聞いて静かに頷いた。


「陸軍が変ったのだ。

我々海軍も、変らねばならぬな。

洗礼ばかり追うのではなく、我々が自らの手で様々な物事を見極めなければならない。

バルチック艦隊は、必ず来る。真之奴らを、対馬で迎え撃つぞ?」


真之は、炒り豆の袋をしまい、地図を指した。


「長官。陸軍の迂回戦法を、海戦に応用できます。

敵艦隊の進路を予測し、正の艦隊で正面を固定、奇の艦隊で側面を突く。丁字戦法を、さらに洗練させましょう。」


それを聞いた東郷の目が、輝いた。

「よし。それならば偵察を強化せよ。

気球と無線を活用し、敵の位置を正確に把握する。艦隊運用の連携も逐次行わねばな。」


連合艦隊の参謀たちは、奉天の勝利を胸に、日本海海戦の準備を加速させた。

陸軍の改革の波が、海軍にも届いていた。古の風が、海の上にも吹き始めた。


真之は、再び炒り豆を口に含んだ。カリカリという音が、未来の勝利を予感させた。

バルチック艦隊は、必ず来る。日本海で、迎え撃ち敵艦隊を猛撃撃破し、完膚なきまでに……叩く。


陸軍の灯火が、海軍の風を呼び起こした。日露戦争は、終局へと向かっていた。艦橋の外では、乗員たちが訓練を続けていた。

砲塔の旋回、無線通信の演習、気球の揚収。


すべてが、バルチック艦隊を迎え撃つための準備だった。


奉天の勝利は、海軍の士気を高め、決戦への決意を固めた。

真之は、地図を眺めながら、兄の言葉を思い出した。

古の教えは、陸から海へ、広がっていく。

日本軍は、変わり始めていた。

春の風が、海を渡り、未来の勝利を運んでくるようだった。


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