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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
131/135

経済圏会議2


一九四一年(昭和十六年)九月。

帝都・東京、霞が関の地下最高会議室から各国の全権特使たちが一時退出した直後。

分厚い鋼鉄の扉が完全に閉ざされ、防音のロックが掛かったことを確認した瞬間、大日本帝国を代表する外務大臣は、それまで微動だにさせなかった肩の力をふっと抜き、革張りの椅子に深く沈み込んだ。


「……大臣。ハンカチを」


背後に控えていた若き書記官が、震える手で真っ白な麻のハンカチを差し出した。

受け取った大臣の額には、先ほどの冷徹な演説の最中には一滴たりとも見せなかった、滝のような冷や汗がびっしりと浮かんでいた。


「……すまんな」


大臣はハンカチで顔を覆い、長く、重い息を吐き出した。

その手が、微かに、しかし確かに震えているのを書記官は見逃さなかった。無理もない。この地下室にいる日本側の人間は皆、表面上は泰然自若を装いながらも、その内面では国家の存亡という重圧に押し潰されそうになり、文字通り戦々恐々としていたのだ。


『……もし、彼らが本当に「中立」を選んだらどうなる? もし、ドイツが欧州の安定を優先し、イタリアがイギリス海軍との衝突を恐れて我々を見捨てたら?』


大臣の脳裏には、総力戦研究所が弾き出した「最悪のシミュレーション結果」が、悪夢のようにこびりついていた。

条約上、彼らに参戦の義務はない。それは紛れもない事実である。そして、もし彼らがその「権利」を行使し、日本単独でアメリカ、イギリス、そして背後のソ連を相手に太平洋とインド洋で戦うことになれば。 


いかに無敵の機動部隊とSTEL貨物船があろうとも、地球の半分を敵に回しての消耗戦になれば、大日本帝国は長くて三年、早ければ一年半で完全に国力をすり減らし、敗北する。資源が枯渇し、本土が焦土と化すのは火を見るより明らかだった。


「……大臣。我々の『ブラフ』は通用するでしょうか。もしドイツの総統が、我々の足元を見透かして中立を宣言すれば……帝国は完全に孤立します」


書記官が、押し殺したような声で尋ねた。


「ブラフではない。これは物理学であり、数学だ」


大臣は震える手を強く握り締め、自らに言い聞かせるように答えた。 


「我々は彼らに、条約という『紙の鎖』ではなく、インフラという『鉄の鎖』を巻き付けた。彼らの経済は、我が国の資源供給と市場なしには絶対に機能しない。彼らが生き残るための計算式には、もはや『日本と共に戦う』という解しか残されていないのだ。……我々はただ、彼ら自身がその計算を終え、絶望とともに受け入れるのを待つしかない」


『そうだ。彼らは必ず来る。来なければ、彼らも死ぬのだから』

大臣は固く目を閉じ、神仏ではなく、自国が築き上げた冷酷な「システム」の力を信じて祈った。

彼らが演じた「余裕」と「参戦義務の免除」は、同盟国を自発的に地獄の釜へ飛び込ませるための、帝国史上最大の、そして最も危険な賭けだったのである。



【広蒼国(南越共和国)代表団・控室】

同じ頃。霞が関の別室に設けられた広蒼国代表団の控室では、本国(広州)の政府首脳と繋がれた暗号有線電話の受話器を握りしめた特使が、悲鳴のような声を上げていた。


「ですから! 日本は我々に『参戦の義務はない』と明言したのです! 中立を宣言すれば、広蒼国はアメリカと戦争をしなくて済むのですよ!」


しかし、受話器の向こうから返ってきた広蒼国大総統・李宗仁の声は、酷薄な現実を突きつけるものであった。


「『愚か者め。中立を宣言して、どうやって国を食わせるつもりだ? 我々が産出するタングステンとアンチモンを買ってくれるのは誰だ? それを運んでくれるSTEL船は誰のものだ? アメリカか? イギリスか? 違う、日本だ!』」


電話越しの怒声に、特使は身を縮めた。


「『もし日本が米英に敗れれば、ユーラシア・ブロックの経済圏は崩壊する。我が国に投下された日本資本のインフラが止まれば、数百万の労働者が失業し、内乱が起きる。それだけではない。日本という後ろ盾を失えば、北に逃げ込んだ蒋介石の残党や、ソ連の支援を受けた共産党が再び我が国に牙を剥くぞ!』」


『……そんなことは分かっている! だが、世界一のアメリカと戦争をするなど、狂気の沙汰ではないか!』


特使は内心で叫んだが、口に出すことはできなかった。


「『特使よ。我々は独立国だ。しかし、その独立は日本の経済システムという土台の上にしか存在しない。土台が沈めば、我々も沈むのだ。……日本に伝えろ。広蒼国は、大日本帝国と共に新秩序を防衛するため、米英に対して宣戦を布告する、と』」


ガチャリ、と無情にも電話が切られた。

特使は力なく受話器を置き、天井を仰いだ。

義務がないからこそ、戦わなければならない。国家の生存という鎖は、いかなる軍事条約よりも強靭に、彼らの首を締め上げていた。



地中海同盟イタリア代表団・控室】 


「……イル・デュチェ(ムッソリーニ統帥)は、何と仰っている?」


イタリア特使は、暗号電報の解読を終えた駐在武官に、震える声で尋ねた。

イタリアは今、新興の地中海帝国として絶頂期にあった。スエズ運河から地中海に至る航路を掌握し、日本の製品をヨーロッパ全土に売り捌くことで莫大な利益を得ていた。


しかし、もしイギリス・アメリカと開戦すれば、地中海は一瞬にして「血の海」と化す。イギリスの地中海艦隊がアレクサンドリアとジブラルタルから出撃し、イタリアの生命線である海上物流を完全に封鎖しにかかるだろう。


「……統帥からのご決断です。我が国は、日独と歩調を合わせ、対米英への宣戦を布告する、とのことです」


武官の言葉に、特使は両手で顔を覆った。


『ああ、ローマの栄光が、極東の火の粉によって焼かれていく……! イギリスの戦艦と正面から撃ち合うなど、我が海軍にできるはずがない!』


「統帥閣下も、苦渋のご決断だったようです。しかし……」


武官は、電報の続きを淡々と読み上げた。


「『もしここで日本を見捨てれば、我が国の産業を支える工作機械も、エチオピア植民地を維持するための物資も、すべて止まる。それだけではない。我々が日独のブロックから脱落すれば、北のドイツが我が国を「裏切り者」としてアルプスを越えて侵攻してくる口実を与えることになる。我々は進むも地獄、退くも地獄なのだ』……と」


義務がない。その言葉は、彼らにとって「自由」ではなく「見捨てられる恐怖」を意味していた。

日本の経済圏から切り離されることは、すなわち国家の緩やかな死を意味する。イタリアは、自らの意思で、巨大なイギリス海軍との絶望的な海戦へと船出する決意を固めるしかなかった。



北中同盟ドイツ代表団・控室】

最も冷徹で、最も高度な計算が行われていたのは、ドイツ代表団の控室であった。

特命全権公使の目の前には、ベルリンの総統官邸から直接送られてきた、長文のテレタイプ(印刷電信)の出力紙が置かれていた。


「……総統閣下は、日本の真意を完全に見抜いておられる」


公使は、出力紙を読みながら、薄く笑い、そして低く呻いた。


『「日本は我々に参戦を要求しなかった。それは我々を尊重したからではない。我々が自らの意思で、彼らのために血を流すよう『設計』されていることを知っているからだ」……か。全くもって、忌々しいほどに優秀な同盟国(極東の猿ども)だ』


ドイツは、中欧・東欧を完全にブロック化し、「無血の繁栄」を謳歌していた。ヒトラーにとって、二正面作戦は絶対に避けるべき愚行であった。


しかし、ドイツの圧倒的な重工業(戦車、航空機、火砲の生産)を支えているのは、日本のSTEL貨物船がインド洋と喜望峰を回って運んでくる、南米の資源と東南アジアのゴム、そして広蒼国のタングステンであった。

もし日本がアメリカの太平洋艦隊に敗北し、シーレーンが崩壊すれば。


ドイツの戦車は半年でキャタピラのゴムを失い、装甲の硬化剤を失い、工場は稼働を停止する。そして、経済が止まった瞬間に、東で息を潜めているソ連が必ず牙を剥く。


「……公使閣下。総統からの最終指令は」


副官が緊張した面持ちで尋ねた。


「総統は、感情を完全に排し、我が第三帝国の生存のみを基準に冷徹な判断を下された」


公使は立ち上がり、襟を正した。


「『日本が沈めば、ドイツも沈む。我々はすでに、一つの巨大な機械の歯車なのだ。ならば、機械が破壊される前に、全力で敵の歯車を叩き壊すしかない』」


公使は、テレタイプの紙を暖炉の火に投げ込んだ。


「本国へ打電しろ。我が国は日本の開戦と同時に、アメリカ合衆国ならびに大英帝国に対し、完全なる戦争状態に入る。……デーニッツ提督に伝えよ。『すべてのUボート(潜水艦)を大西洋に解き放て。アメリカの輸送船を、一隻残らず海の底へ沈めろ』と」


『……我々は、義務ではなく、自らのエゴイズムによって、この狂気の世界大戦に身を投じるのだ。これこそが、総力戦の真の姿か』


公使は、窓の外に広がる帝都の空を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。



【再び、地下最高会議室】


数時間の休会を経て、各国の代表たちが再び円卓に着座した。

部屋の空気は、先ほどまでの「混乱と激昂」から、「死を前にした静寂と覚悟」へと完全に変質していた。

彼らの顔には、迷いはなかった。あるのは、自らの手で自国を戦火に投じるという、重く苦しい決断を下した者特有の、暗い影だけであった。


日本の外務大臣が、再びゆっくりと立ち上がった。

その顔には、先ほど控室で見せていた恐怖や焦燥の欠片もなく、再び完璧な「冷徹なる帝国の体現者」としての仮面が被せられていた。


「……皆様。十分な時間はございましたか。各国の政府より、最終的なご決断を伺いたいと存じます」


広蒼国の代表が、静かに立ち上がった。


「我が広蒼国は、新秩序の防衛と、アジアの完全なる独立のため……大日本帝国と歩調を合わせ、米英に対する宣戦を布告します。我が国は、義務としてではなく、自由なる独立国としての『意志』において、皆様と共に戦います」


次に、シャム(タイ)、満州(韃漢国)などの共栄圏の代表たちが、次々と立ち上がり、自発的な参戦を宣言した。彼らの声には微かな震えが混じっていたが、その言葉に淀みはなかった。

そして、イタリア特使が重々しく口を開いた。


「我が地中海同盟もまた、ローマの栄光とユーラシアの繁栄を死守するため、イギリスおよびアメリカとの全面戦争に突入する決意を固めました。我が海軍は、本日をもって地中海を封鎖します」


最後に、ドイツの特命全権公使が立ち上がった。

彼は日本の外務大臣と真っ直ぐに視線を合わせ、冷たく、響き渡る声で宣言した。


「北中同盟を代表し、我がドイツ第三帝国は、アメリカ合衆国ならびに大英帝国に対する宣戦を布告する。……我々は共に生きるか、共に死ぬかだ。我が国の誇るUボート艦隊と装甲師団は、我々のブロックを脅かすあらゆる敵を物理的に粉砕する用意がある」


すべての宣言が、地下室に響き渡った。


『……勝った』


日本の外務大臣の心臓が、歓喜と安堵で大きく早鐘を打った。

帝国史上最大のブラフ、いや、物理法則を用いた「一蓮托生の強要」は、完璧に機能したのだ。

これで、大日本帝国は孤立することなく、世界規模の多正面作戦によってアメリカとイギリスの国力を完全に分散させることができる。ドイツが大西洋を荒らし回り、イタリアが地中海を塞げば、アメリカは太平洋だけに全力を注ぐことは絶対に不可能になる。


しかし、大臣はその歓喜を微塵も顔に出さなかった。

彼は深く、静かに頭を下げた。


「……皆様の、気高く、そして合理的なるご決断に、大日本帝国政府を代表して心よりの敬意を表します。我々はもはや、不可分の運命共同体です。必ずや、この忌まわしい旧秩序(米英)の支配を打ち砕き、我々の手で真の繁栄を勝ち取りましょう」


大臣は顔を上げ、円卓を囲むすべての「共犯者」たちを見渡した。


「これより、我が大日本帝国海軍・機動部隊は、太平洋において最初の、そして決定的な『鉄槌』を下します。……歴史の針は、今、完全に我々の手によって進められました」


大臣は、会議の完全なる終了を告げるべく、最後にその言葉を口にした。


「――世に平穏のあらん事を」


それは、これから何千万人もの命を飲み込むことになる世界大戦の火蓋を切る合図としては、あまりにも静かで、皮肉に満ちた祝詞であった。




コレは、地球という惑星そのものもを盤面として、地政学と経済学、及び軍事の観点から導き出された、(そなえ)である。

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