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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
130/136

経済圏会議


一九四一年(昭和十六年)九月。

帝都・東京、霞が関。地下数十メートルに構築された、分厚いMBFとコンクリートに守られた極秘の最高会議室。


本来ならば、冷暖房が完備されたこの空間は極めて快適であるはずだった。しかし現在、円卓を囲む各国の全権特使たちが発する異常なまでの熱気と、絶え間なく吹かされる葉巻の煙によって、部屋の空気は息苦しいほどに濁りきっていた。


円卓の中心には、一枚の不鮮明なモノクロ写真が置かれている。

タスマン海において、所属不明の潜水艦(アメリカ海軍)の雷撃を受け、無惨に海面へと没していく日本の大型貨客船『天洋丸』の最期の姿であった。


「……以上が、我が国が独自の情報網(ステルス潜水艦の観測)によって得た、決定的な『事実』のすべてです」 


大日本帝国を代表してこの場を仕切る外務大臣は、感情を一切交えない、氷のように冷徹な声で状況説明を終えた。


「もはや、ワシントンとの間にいかなる外交的対話の余地も残されてはおりません。ジュネーヴでの包括的経済封鎖トータル・エンバーゴに続き、彼らは明確な殺意をもって我が国の民間船を撃沈した。……大日本帝国政府は、この事象を明白なる武力攻撃と認定します。我々は、自存自衛のため、アメリカ合衆国ならびに大英帝国に対する武力行使(開戦)の最終準備に入りました」


その宣言が発せられた瞬間、会議室に重く、ねっとりとした沈黙が落ちた。

この場に集められているのは、ただの外交官ではない。

地球の半分を支配する巨大な三つの経済圏――すなわち、日本の『大東亜共栄圏』、ドイツの『中欧同盟(北中同盟)』、そしてイタリアの『地中海同盟』を代表する、最高位の意思決定者たちである。


最初に沈黙を破ったのは、かつての広西軍閥から独立を果たし、今やアジア南部における最強の工業・資源国家へと成長した『広蒼国こうそうこく』の代表であった。

 

「待っていただきたい! 武力行使だと!? 帝国がアメリカと直接事を構えれば、太平洋のシーレーンは完全に戦場と化す! 我が広蒼国が産出するタングステンやアンチモンは、すべて帝国のSTEL貨物船によって運ばれているのだぞ! もし輸送網が破壊されれば、我が国の経済は一ヶ月で干上がる!」 


広蒼国の代表は、顔を真っ赤にして卓を叩いた。


『馬鹿な、馬鹿な馬鹿な! 日本のインフラと経済圏に依存して国を富ませたのは正解だったが、まさか本気で腐っても世界一の工業国であるアメリカと全面戦争を始める気か!? もし日本が負ければ、我々は米英の植民地奴隷に逆戻りだ。いや、それ以前に、報復として我が国の港にアメリカの爆撃機が飛んでくるかもしれない!』 


彼の脳裏には、独立国家としてのプライドと、日本の庇護なしでは一日も立ち行かない脆弱な経済基盤の板挟みによる、猛烈な恐怖が渦巻いていた。 

その広蒼国代表の激昂に対し、円卓の向かい側に座るドイツの特命全権公使が、冷ややかな視線を向けた。


「喚くな、アジアの成り上がり者が。事態は貴国だけの問題ではない。我が『北中同盟』とて同じことだ」


ドイツ公使は、銀のシガレットケースから新しい煙草を取り出し、ゆっくりと火を点けた。その手は微かに震えていたが、声はゲルマン民族の冷徹さを保っていた。


「……日本が太平洋で戦端を開けば、アメリカは間違いなく大西洋でも牙を剥く。現在、我がドイツはソ連を北欧で押し留め、中欧諸国を完全にブロック化して『無血の繁栄』を謳歌している。総統閣下は二正面作戦と消耗戦を何よりも忌避しておられるのだ。日本の暴走で、我々が築き上げた欧州の要塞に火の粉が降りかかるのは、正直に申し上げて極めて遺憾である」


口ではそう言いながらも、ドイツ公使の頭の中では、恐るべき速度で『算盤』が弾かれていた。


『クソッ! もし日本がアメリカの太平洋艦隊に敗北し、ユーラシア・ブロックの東の扉が破られれば、我が国の重工業を支える希少金属レアメタルや天然ゴムの供給は完全に途絶する。ルーマニアの油田だけでは、いずれ限界が来る。……我々の経済は、もはや日本の技術と資源供給網(STEL)という血管に完全に繋がれてしまっているのだ。日本という頭部が死ねば、ドイツという心臓も止まる!』


隣に座るイタリアの特使もまた、額に脂汗を浮かべながらハンカチで顔を拭っていた。


「ま、全くですな。我が地中海同盟も、スエズ運河を通じて日本の物資を欧州へ中継することで莫大な関税と利益を得ている。イギリスの地中海艦隊が我々の港を封鎖すれば、イタリア経済は破滅だ。……日本政府は、我々同盟国を道連れにして集団自殺をするおつもりか!」


『冗談ではない! ローマの栄光は経済的繁栄の上にあるのだ。イギリス海軍と正面切って撃ち合うなど、我が国の海軍力では荷が重すぎる。だが、日本の支援がなくなれば、新興のアフリカ植民地(エチオピア等)のインフラは瞬時に崩壊する……!』


会議室は、非難と怒号、そして自己の保身を訴える激しい言葉の応酬によって、文字通りの白熱状態へと突入した。

シャム(タイ)の代表は頭を抱え、南越の代表は日本の軍事力をアテにして強気な発言を繰り返し、ドイツとイタリアは「なぜ我々まで巻き込むのか」と暗に日本を責め立てた。 


彼らは皆、頭の芯では理解していた。

日本の経済ブロックという「甘い毒」にどっぷりと浸かり切った今、自分たちだけがこの戦争から逃げ出すことなど物理的に不可能であることを。


しかし、いざ「世界大戦」という人類史上最悪の絶望の淵に立たされた時、小国も大国も関係なく、国家の指導者たちは剥き出しの恐怖と責任転嫁の衝動に駆られずにはいられなかったのである。


一時間。二時間。


不毛な激論と、終わりの見えない恐怖の共有が続いた後。

ずっと沈黙を保ち、彼らの喚き声をただ静かに書き留めていた日本の外務大臣が、ゆっくりと立ち上がった。

その瞬間、部屋の空気が一気に凍りついた。

日本側から、いよいよ「同盟国としての参戦の強要」が発せられると、誰もが身構えたからだ。


「……皆様。一つ、誤解を解いておかなければなりません」


大臣の声は、拍子抜けするほど穏やかで、しかし絶対的な威厳を持っていた。


「先ほどから皆様は、我が国が皆様を『道連れ』にするかのように仰っている。しかし、ここにある条約の条文を、もう一度正確に読み返していただきたい」


大臣は、分厚い革張りのバインダーを開き、大東亜共栄圏の各構成国との経済協定、ならびに日独伊の同盟条約の写しを円卓の中央に滑らせた。


「我が国と皆様を結んでいるのは、絶対的な『経済・インフラ連携』の条約であり、他国からの侵略に対する『共同防衛』の条約です。……しかし、どこを探しても**『我が大日本帝国がアメリカ合衆国に対して先制攻撃を行った場合、同盟国は自動的に参戦し、共に戦わなければならない』という、直接的な攻勢参戦義務を定めた条項は一切存在しません**」


「な、なんだと……?」


広蒼国の代表が、呆然とした声を漏らした。


「事実です。我が国は皆様に、莫大な資本を投下し、技術を提供し、共にブロック経済の果実を分かち合ってきました。しかし、皆様の国の軍隊の指揮権まで奪った覚えはない。……つまり」


大臣は、各国の代表たちを一人一人、静かに見据えた。


「来るべき対米英戦争において、皆様には、我が大日本帝国と共に血を流す『義務』は一切ありません。」


『……!!!』


会議室の全員の心臓が、その言葉のあまりの異常さに大きく跳ねた。


「広蒼国も、シャムも、中欧同盟も、地中海同盟も。皆様は、日本がアメリカと戦争を始めたという事実に対して『中立』を宣言し、自国の軍隊を一切動かさず、港を閉ざして嵐が過ぎ去るのを待つという選択肢を、国際法上も、我々との条約上も、完全に保障されています。我が国は、参戦を拒否したからといって、皆様の国を武力で制裁するような真似は決して致しません」


それは、あまりにも予想外の「解放の宣言」であった。

強制的に戦争に引きずり込まれると信じて疑わなかった彼らの前に、突如として「逃げ道」が提示されたのだ。


『罠か!? いや、日本の上の連中が、こんな見え透いた嘘をつくはずがない。条文上、確かに我々に参戦の義務はないのだ!』


ドイツ公使の額から、一筋の汗が流れ落ちた。


『ならば、我々は中立を保てるのか? アメリカとイギリスの艦隊を相手にするのは日本だけに押し付け、我々は無傷のまま欧州で高見の見物を……』


しかし、ドイツ公使のその安易な思考は、次の瞬間に自らの手で粉々に打ち砕かれた。


『……駄目だ!! そんなことをすればどうなる!? 日本が単独で米英と戦い、万が一敗北すれば、あるいは日本の護衛艦隊が太平洋で全滅すれば、ユーラシア・ブロックの物流は完全に停止する! 義務がないからといって我々が中立を保てば、結果的に我々は「日本という最強の防波堤」を見殺しにし、その後、無傷で残った米英ソの連合軍に各個撃破されて、真綿で首を絞められるように経済的・物理的に餓死するだけだ!!』


イタリア特使も、広蒼国の代表も、全員が同じ「冷酷な真理」に気づき、顔を青ざめさせていた。

日本の上の連中は、彼らを法的な「義務」で縛るような三流の真似はしなかった。


法で縛れば、彼らは必ず不満を抱き、背後から裏切る。

だからこそ日本は、彼らに「完全な自由」を与えたのだ。

**「一緒に戦う義務はない。見捨てたければ、いつでも我々を見捨てて構わない。ただし、我々が死ねば、お前たちも必ず死ぬという『経済の物理法則』の中で、お前たち自身で答えを出せ」**と。



これほど冷酷で、これほど完璧な「一蓮托生いちれんたくしょうの強要」が他にあるだろうか。



彼らはもはや、他国に命令されたからではなく、自らの国家が生き残るための「自発的な意志」として、底なしの世界大戦という地獄へ飛び込むしか道がないことを悟らされたのである。

息が詰まるほどの静寂が、再び会議室を支配した。

彼らの頭の中では、独立国としての意地、恐怖、そして冷徹な計算が、ショート寸前の算定器のように凄まじい勢いで火花を散らしている。


その沈黙を切り裂くように、日本の外務大臣が深く頭を下げ、会議の第一部の終了を宣言した。


「……皆様の国家が、自らの生存と未来のために『最も合理的な判断』を下されることを、我々は信じて疑いません。各国の首脳陣との通信回線は開かれております。本会議はこれより数時間の休会を挟み、皆様の最終的な『ご決断』を伺いたいと存じます」


大臣は身を翻し、重い鉄の扉へ向かって歩き出した。

そして、部屋を出る直前に立ち止まり、背中を向けたまま、静かに、しかし予言者のような響きを持った声で締めくくった。


「――世に平穏のあらん事を」


扉が閉まる重厚な音が、残された者たちの耳に、まるで世界の終わりを告げる弔鐘のように響き渡った。


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