奉天会戦 終
1905年3月10日、満洲軍総司令部・奉天近郊。
大山巌元帥は、総司令部の天幕内で、地図を広げた机の前に立っていた。
奉天会戦は、日本の勝利と言う形で、実質的に終了した。
ロシア軍の主力は北方へ退却を開始し、平原に散在する残敵の掃討が、最後の作業として残されていたが、抵抗も散発的であった。
天幕の中では、児玉源太郎次長をはじめ、黒木為楨、奥保鞏、野津道貫、乃木希典の各軍司令官と参謀長たちが、同席していた。
天幕内は、勝利の余韻と、次の戦略への緊張が交錯する空気に満ちていた。
大山は、地図上の赤い矢印――ロシア軍の退却路――を指でなぞった。
クーロパトキンの軍は、奉天市を放棄し、哈爾濱方面へ向かう一本の道を急いでいた。
補給の途絶と逐次投入の誤りが、30万の大軍を崩壊寸前に追い込んだ。
研究会戦法の成功が、この結果を生んだことは、誰の目にも明らかだった。
「残敵掃討を、迅速に完了せよ。」
大山の声は、静かだが確固とした響きを帯びていた。
各軍司令官たちは、頷き即座に命令を下した。
第一軍は左翼の残敵を、第三軍は右翼を、中央の第二軍と第四軍は奉天市内の清掃を担当する。
騎兵支隊を先行させ、歩兵の機動塊が追撃を加える形を取った。
掃討の報告は、次々と入ってきた。
ロシア軍の退却列は、雪解けの泥濘に足を取られ、隊列が乱れていた。
棄てられた重砲、弾薬箱、負傷兵の担架。
俘虜となったロシア兵たちは、疲弊しきった顔で日本軍の前に跪いた。
彼らの軍服は泥にまみれ、目は虚ろだった。
昨日まで、平原を支配していた巨人が、こうも惨めになるものか。哀れなものだ…。
児玉源太郎は、地図を眺めながら、静かに考えていた。
ロシア軍の敗北は、単なる戦術の失敗ではない。
補給線を断たれ、地形を味方につけられなかった結果だ。
研究会戦法が証明したように、近代戦は機動と適応の勝負であると。
クーロパトキンの逐次投入は、古い決戦主義の限界を示した。
乃木希典は、第三軍の報告を聞きながら、複雑な思いを抱いていた。
旅順での苦闘が、この勝利を生んだ。
だが、退却するロシア軍の姿は、勝利の喜びを純粋なものにさせなかった。
敵もまた、人間だという事をまざまざと見せつけられていた。
同じように、家族を思い、命を賭けて戦っていた。
黒木為楨は、左翼の掃討状況を報告し、騎兵の急襲で、ロシア軍の後衛が崩壊。散在する小部隊は、次々と降伏した。これこそが、士気の低下による部隊の崩壊であると、プロイセンの文献の通りの姿に、真実を見た。
奥保鞏は、中央の清掃を進言した。
奉天市内には、負傷兵と棄てられた装備が残り、疫病の危険があった。
野津道貫は、右翼の状況を伝えた。
第三軍との連携で、敵の退路を脅かし、俘虜が増加しているのだ。
大山は、皆の報告を聞き、静かに結論を下した。
残敵掃討は、3月15日頃までに完了する見込みだった。
ロシア軍の主力は、哈爾濱へ逃れ、満洲での抵抗力を失った。
日本軍の損害は、全体で約4万。ロシア軍は、9万を超える損失を被ったと推定された。
総司令部では、勝利の余韻が広がっていたが、それは純粋な喜びではなかった。ロシア軍の退却姿は、戦争の無常を教えてくれた。時代の節目であると……。
近代の火器と機動が、古い決戦主義を打ち砕いた。
次は、我が身かもしれない。
米英や他の列強が、日本軍の新戦法を学び、対抗してくる日が来るだろう。
しかし、その思いは、新たな決意を生んだ。
研究会戦法をさらに研鑽し、地形・補給・人心を味方につける軍隊を、完成させる。
満洲の大地は、日本軍の未来を照らす灯火となった。
掃討の作業は、静かに進んだ。
雪の平原に、勝利と悲哀が交錯する中、日本軍は北進の準備を始めた。
一方、東京・大本営では、齎された奉天会戦の速報の集計を急いでいた。
1905年3月11日、東京・参謀本部作戦課。
奉天会戦の速報が、電信機の音とともに届いたのは、午前10時頃であった。
暗号解読係が急ぎ内容を書き写し、作戦課長・田中の手元に届けられ、田中は電文を一瞥し、息を呑んだ。
「奉天会戦大勝利。ロシア軍主力壊滅、クーロパトキン将軍退却開始。我が軍損害軽微、総兵力なお健在。」
短く、しかし決定的な一文。
署名は満洲軍総司令官・大山巌。
室内にいた将校たちが、一斉に顔を上げた。
寺内正毅陸軍大臣が、静かに立ち上がり、電文を手に取った。
普段は冷静沈着な寺内の瞳にも、驚愕と喜びが宿っていた。
「大勝利……だと?」
寺内は低く呟き、続けて詳細報告を読み進めた。
会戦は約12日間で決着。
日本軍の左右翼大迂回が成功し、ロシア軍の補給路を遮断、奉天市を包囲。
クーロパトキンは逐次投入の誤りを犯し、主力30万が崩壊寸前に至った。
日本軍総損害は約4万名。
ロシア軍は9万を超える損失を被り、北へ大退却を開始した。
大本営の壁に掲げられた満洲方面の大図が、寺内の背後に広がっている。
その図上で、奉天は長らく赤い敵勢力圏として描かれていたが、今や青い日本軍の矢印が北方へ伸び、敵を押し退けていた。
「これは……日露戦争の帰趨を決した。」
寺内は静かに言った。
大本営では、奉天会戦を長期消耗戦と予想し、第三軍の北進余力を懸念していた。
しかし、この速報はすべてを変えた。
研究会戦法の影響が、各軍に広がり、機動と迂回が勝利をもたらした。
田中が口を開いた。
「詳細によると、第三軍の戦法を全軍に適用したとのことです。
正面牽制と左右翼大迂回、騎兵の機動偵察、砲兵の側背運用……。ロシア軍の逐次投入を、各個撃破した模様です。」
寺内は腕を組み、深く考え込んだ。
旅順の低損害陥落に続き、奉天の大勝利。
ドイツ式教範を超えた、日本独自の戦法が証明された瞬間だった。
「ただちに天皇陛下にご報告申し上げる。
また、講和準備を急げ。ロシアは、もう持たぬ。」
室内の将校たちは一礼し、動き始めた。
電信機が再び活気づき、指令が次々と発信されていく。
しかし、作戦室の隅で、若手の参謀数名が小声で囁き合っていた。
「損害4万……予想の半分だ。研究会戦法が、ここまで効果を発揮するとはなぁ……。」
「ロシア軍30万が、12日で崩壊か。平原で、包囲されるなど……考えられん何かの間違いじゃないのか?」
彼らは、興奮と驚愕を抑えきれなかった。
参謀本部では、従来の正面決戦を信じていた者も多かった。
だが、この速報はすべてを変えた。
古の教えが、近代の戦場で、決定的な勝利をもたらした。
寺内は窓辺に立ち、東京の空を見上げた。奉天の勝利は、単なる一会戦の勝ちではない。
日露戦争の終結を告げ、日本軍の新時代を切り開くものだった。
大本営の一室で、新たな戦略図が広げられ始めた。
戦争は、終局へと向かおうとしていた。
古の灯火は、満洲から東京へ、静かに広がっていた。
史実の奉天会戦の損害
奉天会戦(1905年2月21日〜3月10日)は、日露戦争最大の陸上戦として知られ、両軍の損害は以下の通りです(公式記録と推定値に基づく):
日本軍: 総死傷者約70,000〜75,000名(戦死約15,000名、負傷約60,000名)。
この損害は、正面攻撃の繰り返しとロシア軍の機関銃・重砲によるもので、総兵力約25万に対して約28〜30%の損耗率でした。
ロシア軍: 総死傷者約90,000〜95,000名(戦死約20,000名、負傷約75,000名)。
総兵力約30万に対して約30%の損耗率で、逐次投入の誤りと補給難が主因です。
代替歴史世界線での奉天会戦の損害
本世界線では、研究会戦法(機動迂回包囲・側背砲撃・欺瞞作戦)の全面適用により、戦闘期間が短縮(約10〜14日)され、損害が史実の約半分に抑えられます。推定値は以下の通りです:
日本軍: 総死傷者約35,000〜40,000名(戦死約8,000名、負傷約30,000名)。
機動戦の成功により正面突撃を最小限に抑え、総兵力約25万に対して約14〜16%の損耗率。研究会戦法の地形適応と分散機動が、機関銃損害を大幅に軽減しました。
ロシア軍: 総死傷者約90,000〜100,000名(戦死約22,000名、負傷約75,000名)。
史実並みかそれ以上の損耗率(総兵力約30万に対して約30〜33%)。逐次投入の誤りと側背包囲による混乱が、史実より深刻化しました。




