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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
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羊飼い


一九四〇年(昭和十五年)末から一九四一年初頭。

北半球において、ユーラシア・ブロック(日独伊)と旧秩序連合(米英仏ソ)の対立が経済封鎖という名の「冷たい世界大戦」へと突入していた頃。その巨大な地殻変動の最も鋭利な断層は、誰もが予想だにしなかった南太平洋の穏やかな島国――ニュージーランドにおいて、致命的な亀裂を生み出していた。


クック海峡を挟んで北島と南島に分かれるこの国は、かつては大英帝国の忠実な羊毛供給地であり、白人入植者パケハの楽園であった。


しかし、大日本帝国が実用化した無尽蔵の航続距離を持つSTEL船舶の登場と、環太平洋に構築された圧倒的な「円・ブロック経済」の波は、この南の果ての島国をも完全に飲み込んでいたのである。


問題は、その波の恩恵が「島を真っ二つに引き裂く」形で現れたことにあった。



ニュージーランド北島、オークランド港。

かつてはイギリスへ向かう冷凍船が細々と出入りするだけだったこの港は今、昼夜を問わず眩いアーク灯に照らされ、巨大なガントリークレーンがうなり声を上げていた。

港を埋め尽くしているのは、大日本帝国船籍の大型貨物船や、南越(広蒼国)からの資材運搬船である。


「よし、第二ブロックの資材の荷下ろしは完了した! 次は日本から届いた水力発電用のタービンだ、慎重に運べ!」


現場で大声を張り上げ、港湾労働者たちを指揮しているのは、逞しい体躯を持ち、顔や腕に伝統的なタトゥー(タモコ)を刻んだマオリ族の青年であった。

史実において、そしてかつての大英帝国の支配下において、マオリ族は土地を奪われ、白人社会の底辺で安価な肉体労働に従事するだけの存在であった。しかし、現在のオークランドの光景は全く違っていた。


「見事な手際ですね、テ・ランギ現場監督。この調子なら、ロトルア地熱発電所の建設も予定より一ヶ月は前倒しできそうです」


ヘルメットを被った日本の商社マンが、図面を片手に流暢な英語でマオリの青年に話しかけた。その態度は、白人植民者が現地人を扱うような傲慢なものではなく、純然たる「ビジネスパートナー」に対する対等な敬意に満ちていた。


「ああ、日本の『新しい技術』と『金』のおかげさ。あんたたちが来てから、俺たちマオリはただの荷物運びじゃなくなった。重機を与えられ、技術を教わり、正当な『賃金』をもらって、自分たちの先祖の土地に新しい灯りを点しているんだ」


マオリの青年は、誇らしげに胸を張った。

これが、大日本帝国の「上の連中(頭脳集団)」が南太平洋に仕掛けた、極めて高度で冷酷な経済浸透の姿であった。


日本はニュージーランド北島に対し、莫大なインフラ投資(発電所、道路、港湾設備)を円建てで実行した。その際、イギリス系の白人既得権益層を意図的に迂回し、先住民であるマオリ族の有力者たちと直接的な雇用・協力関係を結んだのである。


日本の狙いは明確だった。大英帝国への忠誠心に縛られた白人エリート層よりも、「白人支配からの脱却と権利向上」を望むマオリ族に資本と技術を与え、彼らを経済の主役に押し上げた方が、遥かに効率よくこの国を日本の経済ブロックに組み込めるからだ。 



北島が日本資本の流入によって空前の好景気に沸き返る一方、首都ウェリントンのニュージーランド議会では、国の存亡を揺るがす恐るべき政治的圧力が首脳たちを締め上げていた。


「……日本大使からの最終通告です。我が国が『人種的差別撤廃案の付帯決議』の完全な国内法制化に応じない限り、来月以降のニュージーランド産農産物の買い付けを全面停止し、進行中のすべてのインフラ工事から日本資本を引き揚げる、と」


外務大臣の報告を聞いたニュージーランド首相は、執務室の革張りの椅子に深く沈み込み、頭を抱えた。


大日本帝国が国際社会の場で突きつけていた『人種差別撤廃案』。かつてのパリ講和会議で英米によって葬り去られたこの崇高な理念は、圧倒的な国力とユーラシア・ブロックを手にした今の帝国にとって、欧米の植民地支配を根底から解体するための「最も強力で合法的な外交兵器」となっていた。


「日本は、我が国の国内法にある『白人パケハの特権』と『マオリ族に対する法的な不平等』を完全に撤廃しろと要求してきている。マオリ族に白人と全く同じ政治的権利、土地所有権、そして企業経営権を付与する新法を制定しろと……!」


「……総理。もしそんな法案を議会で通せば、南島のイギリス系地主たちが黙っていません。この国は根底からひっくり返ります!」


「だが、日本の要求を拒否すればどうなる!? イギリス本国はドイツのブロック経済に締め上げられて、我が国の羊毛やバターを買う余裕など完全に失っているのだぞ! アメリカはパナマ運河の騒ぎで太平洋を渡ってこられない。我々は今、日本の『円』と『市場』なしでは、三ヶ月で国家破産デフォルトするんだ!」


首相の叫びが、執務室に虚しく響いた。

経済の完全な依存。それは軍隊による占領よりも遥かに冷酷な支配であった。 


ニュージーランド政府は、国家の経済的命脈を保つため、もはや日本の要求を飲み込み、旧来の白人至上主義的な法体系を自らの手で解体する(人種平等を法規化する)しか道が残されていなかったのである。



そして、北島主導の中央政府が「日本の圧力に屈してマオリへの権利譲渡(人種平等法案)」に動いているという情報は、クック海峡を隔てた南島――クライストチャーチやダニーデンといった、一九世紀以来の伝統的なイギリス・アメリカ系資本が根を下ろす地域に、爆発的な怒りと恐怖を巻き起こした。


南島・カンタベリー平野。

見渡す限りの広大な牧草地帯を所有する、大英帝国にルーツを持つ大牧場主シープ・バロンの邸宅に、南島の有力者たち、政治家、そして退役軍人たちが密かに集まっていた。


「ウェリントンの裏切り者どもめ……! 誇り高き大英帝国の臣民たる我々が、有色人種マオリと同等の権利に引き下げられ、極東の黄色い猿どもの経済的奴隷になるなど、断じて認められるか!」


テーブルを力強く叩いたのは、第一次世界大戦のガリポリの戦いを生き抜いた、南島出身の退役将校であった。


「我々の祖先が血と汗で開拓し、イギリスの法と秩序を根付かせたこの神聖な土地を、日本の金で買収された野蛮人どもに引き渡す気か! ウェリントンの政府は完全に日本の傀儡だ!」


南島の経済構造は、北島とは全く異なっていた。彼らは長年、広大な土地で羊を飼い、その羊毛や肉をイギリス本国やアメリカへと輸出することで富を築き、白人としての特権階級を形成してきた。


日本の最新インフラや貨物船など、彼らにとっては自分たちの伝統的な生活と既得権益を破壊する「悪魔の機械」に他ならなかった。


「……落ち着きたまえ、将軍」 


激昂する退役将校を宥めたのは、部屋の隅の暗がりに座っていた、仕立ての良いスーツを着た男だった。

彼はニュージーランド人ではない。ワシントンから秘密裏に派遣されてきた、アメリカ国務省(あるいは海軍情報局)の特命工作員であった。


「合衆国政府も、そしてロンドンの大英帝国政府も、ニュージーランド南部の皆様の『正当な怒り』と『白人キリスト教世界の防衛』を全面的に支持しております。日本とマオリによる不当な経済支配を、我々は決して座視いたしません」


アメリカの工作員は、アタッシュケースを開け、その中に入った分厚いドル紙幣の束と、いくつかの書類をテーブルの上に滑らせた。


「ウェリントンの政府が法案を強行採決した場合、皆様が『南島の分離独立』、あるいは『正当な自治権の回復』を宣言するための資金です。さらに、沿岸の隠し港を通じて、合衆国から旧式ではありますが小銃と機関銃、そして弾薬を非公式に提供する用意があります。……もちろん、表向きは『民間の有志による支援』という形をとりますがね」


ジュネーヴでの「経済封鎖」に参加しつつも、直接的な軍事行動を起こす口実を持たない米英にとって、このニュージーランドの内部対立は「日本に一泡吹かせるための最高の代理戦争プロキシ・ウォーの舞台」であった。


日本の手先となった北島を混乱させ、南島に親米英の強力な橋頭堡を築くこと。それは、太平洋の南半球における日本の覇権を切り崩すための、千載一遇の好機だったのである。


「……合衆国と大英帝国からの支援が確約されるのであれば、もはやウェリントンの臆病者たちに付き合う義理はない。我々は武器を取り、自らの土地と誇りを自らの手で守り抜く」


大牧場主たちと退役軍人たちの目に、暗く、狂気じみた決意の火が灯った。

彼らはもはや、同じ国の国民としての融和など欠片も望んでいなかった。自分たちが永遠に支配者でいられる「白人だけの国」を守るためならば、国を二つに割ることも辞さない覚悟を決めたのである。


一九四一年(昭和十六年)春。

ニュージーランド議会は、日本の経済的圧力に屈する形で、事実上の「白人特権の解体と、マオリ族の完全な経済的・政治的権利の回復」を定める新法規を採決にかけた。


その結果は、国を決定的に破滅へと向かわせる引き金となった。

採決の直後、南島の議員たちは一斉に議場を退席。彼らはクライストチャーチに戻ると、ウェリントンの中央政府の正統性を否定し、**『南島臨時自治政府(あるいは南島連盟)』**の樹立を一方的に宣言した。


中央政府の警察と軍隊もまた、出身地や思想によって真っ二つに割れた。

北島の部隊は政府(と日本の後ろ盾)に忠誠を誓い、マオリの若者たちが次々と「祖国防衛」のために義勇兵として志願した。


一方、南島に駐屯していた部隊の大半は臨時政府側に寝返り、大農園の労働者や白人の若者たちを動員して、沿岸部の防衛陣地と、クック海峡を見下ろす砲兵陣地の構築を開始した。


「クック海峡を封鎖しろ! ウェリントンの犬どもと、日本の船を一隻たりとも南の海に近づかせるな!」


南島の民兵たちは、アメリカから密輸されたブローニング機関銃やスプリングフィールド小銃を手に、目を血走らせて海峡を睨みつけた。

一方、北島のオークランド港には、騒乱の激化を理由に「在留邦人と日本資産の保護」という名目で、大日本帝国海軍の巡洋艦が静かに、しかし威圧的な砲身を向けて入港してきていた。


もはや、平和的な解決の糸口はどこにも存在しなかった。

日本の「経済と人種平等のドクトリン」に支えられた北島と、米英の「既得権益と白人至上主義の死守」に支えられた南島。

南太平洋の楽園は今、二つの巨大な世界帝国の思惑と、民族の誇りが激突する「熱戦の火薬庫」へと姿を変え、最初の一発の銃声が鳴り響くその瞬間を、息を殺して待ち受けていたのである。


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