教本
一九四〇年(昭和十五年)二月。
帝都・東京の片隅にある古びた木造アパートの一室で、一人の青年がインクの匂いにまみれながら、原稿用紙に向かってカリカリと丸ペンを走らせていた。
青年の名は、武良と言った。
この十八歳の青年は、現在、陸軍省教育総監部から「ある特命」を受けていた。
「……あー、くそっ。この『昭和〇九年式自動小銃』の機関部、線が多すぎてベタ塗りが面倒くさいな……」
茂はボサボサの頭を掻きむしりながら、手元の軍用銃の青写真と睨めっこをしていた。
彼に与えられた任務は、兵器の設計図を引くことでも、戦場で銃を撃つことでもない。
**「新兵や志願兵に向けた、世界一わかりやすくて『面白い』兵器・戦術教本の漫画を描くこと」**であった。
事の発端は、陸軍の訓練教官たちの切実な悩みだった。
「上の連中が次々と配備してくる新型兵器のせいで、歩兵の戦術がガラリと変わっちまった。農村から来たばかりの若い新兵に、分厚くて文字ばかりの教範を読ませても、五分でいびきをかき始める。これでは実戦に間に合わん!」
かつての日本軍の歩兵分隊は、「一人が軽機関銃を持ち、残りの兵士は全員ボルトアクションの小銃(大正一五式)を持って突撃する」という単純なものだった。
しかし、あの「アムール川の戦い」以降、日本の分隊火力は劇的な進化を遂げていたのである。
そこで白羽の矢が立ったのが、雑誌でコミカルな絵を描いていた若き漫画家、武良だった。
「絵解きで、紙芝居のように楽しく戦術を教える」。それが陸軍の出した結論だったのだ。
「武良くん、進捗はどうだね!」
アパートの襖が勢いよく開き、陸軍省から派遣された若い連絡将校が顔を出した。
茂は、描きかけの原稿をひらひらと振って見せた。
「ええ、なんとか。でも少尉殿、上の連中も無茶を言いますよ。こんな複雑な兵器の構造を、素人に一目で分からせろだなんて」
「そこを君の漫画の才能でなんとかしてくれ! 特に今回の改訂版の目玉は**『分隊火力の完全な入れ替え』**だ。ここを面白おかしく、かつ正確に伝えないと、演習で怪我人が出る」
茂は、インク壺にペンを浸し、新しい原稿用紙に向かった。
そこには、デフォルメされた二頭身の兵士たちが、漫符(汗のマークや、集中線)を散らしながらコミカルに動き回る姿が描かれている。
「まずはこれですね。これまでの主役だった『大正一五年式小銃』が、分隊長の号令とともに、全員の手に握られた『昭和〇九年式自動小銃』にスッと入れ替わるシーン」
茂が描いたコマの中では、兵士たちが重いボルトを手でガシャコンと引くのをやめ、代わりにマガジンを下からカチャッと差し込み、引き金を引いたまま「ドドドドド!」と弾幕を張っている。敵のソ連兵(を模したキャラクター)が、その弾幕に驚いてひっくり返っている。
「うむ! 素晴らしい躍動感だ!」
少尉が腕を組んで頷いた。
「今や我が軍の分隊主力火器は、完全にこの〇九年式自動小銃だ。歩兵全員が機関銃のように弾をバラ撒ける。これを『面の制圧』という言葉を使わずに、絵だけで分からせる君のセンスは最高だよ」
「で、次がこれです。お払い箱になったかと思われた旧式の『大正一五年式小銃』を持った兵士が、木の上に隠れてニヤリと笑っているコマ」
「そう、そこが重要なんだ武良くん!」
少尉は身を乗り出した。
「大正一五式は、連射こそできないが、あの細長くて重い六・五ミリ弾の特性のおかげで、遠距離での命中精度は〇九式より遥かに高い。上の連中もそこは分かっていてな。大正一五式には立派な『狙撃眼鏡』を取り付け、分隊に一〜二名配置される『選抜射手』専用の武器として生産を継続することになったのだ」
茂の原稿では、自動小銃を持った兵士たちが「ドドドド!」と敵を足止めしている隙に、木の上にいる大正一五式を持った狙撃手が、スコープ越しに敵の機関銃手を「ピシャッ!」と一発で仕留める連携プレイが見事に描かれていた。
「なるほどねぇ。自動小銃で敵を釘付けにして、旧式の小銃で精密に眉間を撃ち抜く。……上の連中も、えげつない戦い方を考えるもんだ」
茂は、自分の描いた漫画ながら、その冷徹なまでの分隊戦術の合理性に舌を巻いた。
「最後は、これです。一番気をつけなきゃいけない『MBF胸甲』の注意書き」
茂が描いたのは、MBFの胸甲を着て「俺は無敵だー!」とバンザイ突撃をしている兵士が、上官にハリセンでスパーン! と叩かれているコミカルなコマだった。
「『MBFは敵の弾を弾くが、魔法の鎧ではない! 過信して突っ突っ込む奴は死ぬぞ!』……という説明ですね。先日聞いた『自分たちの銃で撃てば抜けるから過信しない』っていう理屈、新兵には難しすぎるんで、こういうギャグ調にしました」
「完璧だ! これなら、どんな田舎から出てきた若者でも、一度読めば分隊の役割と装備の使い方が頭に入る!」
少尉は出来上がった原稿を大事そうにカバンにしまい、茂の肩をポンと叩いた。
「助かったよ、武良くん。これで春からの訓練が随分と楽になる。上の連中も、君の原稿料には色をつけてくれるはずだ」
「へへっ、そいつは助かります。これで美味いバナナでも買えますよ」
茂はペンを置き、大きく伸びをした。
窓の外には、一九四〇年の帝都の平和な青空が広がっている。
彼自身はまだ、この時自分が描いた「兵器」と「戦術」が、間もなく海の向こうの巨大な国家との間で、世界中を巻き込む凄惨な戦争で使われることになるなどとは、夢にも思っていなかった。
「……ま、僕としては、戦争の道具より、お化けや妖怪の絵を描いてる方がずっと楽しいんですけどね」
茂は残ったインクで、原稿用紙の隅に小さな目玉をデフォルメしたような落書きをちょこんと描き込み、ふふっと笑った。




