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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
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中欧同盟



一九三九年(昭和十四年)二月。


ベルリン、新総統官邸。

大理石が敷き詰められた壮麗な「大理石のギャラリー」には、眩いばかりのフラッシュの閃光と、穏やかな笑い声が満ちていた。


「総統閣下、この度の素晴らしい提案に、我が国を代表して心より感謝を申し上げます」


ポーランド外相ユゼフ・ベックが、満面の笑みを浮かべて右手を差し出した。

それに応じたアドルフ・ヒトラーは、軍服ではなく仕立ての良いダブルの背広に身を包み、柔和で、しかしどこか底知れぬ深さを持った瞳でベックの手を固く握り返した。


「感謝するのは私の方です、ベック外相。我々ドイツとポーランドは、もはや過去の国境線という古びた概念で争うべき時代を終わらせた。我々を繋いでいるのは鉄条網ではなく、マルクという血液と、両国を豊かに結ぶ鉄道網インフラなのですから」


その周囲では、ルーマニアの外相や、リトアニア、ラトビア、エストニアといったバルト三国の代表たちが、シャンパングラスを片手に和やかに談笑している。


史実において、この時期のベルリンは小国を恫喝し、領土を割譲させるための「恐怖の館」であった。しかしこの世界線では全く違う。ここは、欧州の中央を占める国々が、互いの利益を最大化するための**「巨大な共同体シンジケートの設立総会」**の場と化していた。


公式の調印式と晩餐会が終わった後、ヒトラーは各国首脳を官邸の奥にある防音設備の整った私室へと招き入れた。

重厚なオーク材の円卓の上には、一枚の巨大なヨーロッパ地図が広げられている。


「さて、諸君。外面の良い外交辞令はここまでにして、我々の『真の生存戦略』について語り合おう」


ヒトラーが静かに口を開くと、部屋の空気が一変した。

彼は、淹れたてのカモミールティーのカップを両手で包み込みながら、その視線を地図の西フランスと東(ソ連)へと向けた。


「私は……戦争が嫌いだ。心底、憎んでいる」


その言葉に、ポーランドとルーマニアの代表はわずかに眉を動かした。再軍備を宣言し、最新鋭の戦車や航空機を次々と生み出している国の指導者が発する言葉としては、あまりにも異質だったからだ。


しかし、ヒトラーの目には嘘はなかった。彼の網膜の裏には、一九一四年のフランドルの泥濘が、今もこびりついている。


「諸君も知っての通り、私は先の大戦で一介の伝令兵として、西部戦線の最前線を這いずり回った。雨と血で濁った泥水、腐乱した友軍兵士の死臭。そして何より、肺を焼き尽くすマスタードガスの恐怖。……何百万という若者の命と莫大な国家予算をすり潰しながら、何ヶ月経っても数キロの陣地しか奪えない、あの絶望的な消耗戦(塹壕戦)。戦争とは、国家が犯す最も愚かで、最も非効率的な『政治の失敗』だ」


ヒトラーは、カップを置き、静かに立ち上がって自国の同盟国である極東の島国――大日本帝国――の地図を指差した。


「私が政権を執って以来、我が国の参謀本部が最も徹底的に研究したのは、クラウゼヴィッツの戦争論ではない。大日本帝国が極東やメソポタミアで実践してきた『備戦術』だ」

「備戦術……ですか?」

バルト三国の代表が小首を傾げた。

「そうだ。戦う前に、戦う必要のない状況を物理的に作り上げる『ロジスティクスの魔術』だ。日本軍は、敵の塹壕に突撃する代わりに、鉄道を引き、橋を架け、兵站を完璧に整備し、現地の経済を自国のブロックに組み込んだ。敵対する勢力は、弾を撃つ前に『経済的に飢え、補給を絶たれ、抵抗する意志そのものを無意味化される』。我々ドイツが過去数年間、メフォ手形という錬金術を使ってやってきたことは、まさに彼らの模倣だよ」


ヒトラーの言葉は真実であった。

史実のダンツィヒ(グダニスク)回廊問題で、ドイツとポーランドは血みどろの対立をした。しかしこの世界線では、ドイツは莫大なインフラ投資を行い、ダンツィヒを


「ドイツ資本とポーランド労働力が融合する、莫大な関税収入を生み出す自由貿易特区」へと変貌させていた。


ルーマニアのプロイェシュティ油田には、ドイツの最新の採掘機材と精製プラントが無償で提供され、代わりに産出される石油の優先購入権を得ている。

血を流して領土を奪うより、インフラを整備して経済圏マルク・ブロックに組み込んでしまった方が、遥かに安上がりで、恨みも買わず、恒久的な富をもたらす。ヒトラーはそれを日本の成功から完全に学習していたのである。


「現在、我々の経済は完全に一つの巨大な『内臓』として機能している。ドイツの心臓(重工業)が動けば、ポーランドの筋肉(労働力と農業)が動き、ルーマニアの血液(石油)が循環する。……だが、この美しい循環を壊そうとする者たちがいる」


ヒトラーの顔から笑みが消え、冷酷な政治家の顔が表れた。


「東のスターリンだ。奴の国は計画経済の失敗を覆い隠すため、必ず肥沃な東欧の土を求めて侵略の牙を剥く。そして西の英仏。彼らは我々が豊かになることを許さず、いまだに我々を分断し、自らのドルとポンドの奴隷に戻そうと画策している」


ヒトラーは、円卓を囲む各国の首脳たちを一人一人、強い眼差しで見つめた。


「諸君。現状の『経済的な連携』だけでは、彼らの暴力には対抗できない。もしソ連の戦車がバルトやポーランドの国境を越えれば、諸君の国は灰燼に帰し、それに繋がる我が国の経済も死ぬ。もし英仏が我が国を封鎖すれば、諸君の国に流れ込むマルクの価値も紙屑となる」


ベック外相が、小さく息を呑んだ。

ヒトラーが何を言わんとしているのか、皆が理解し始めていた。


「我々はもはや、運命共同体なのだ。経済だけでなく、国家の存亡そのものをひとつの船に乗せる時が来た。本日、我々はこれまでの経済協定を破棄し、新たな次元の条約へと昇華させる。……すなわち、**『中欧共同防衛同盟(中欧同盟)』**の結成だ」


ヒトラーは、流れるような動作で一冊の美しい革張りのバインダーを卓上に開いた。


「この同盟は、いかなる他国への侵略も目的としない純粋な防衛同盟だ。しかし、もしソ連、あるいは英仏が、この同盟国のいずれかの国境を侵犯した場合……それは全同盟国に対する直接的な宣戦布告と見なし、我がドイツ国防軍は、持てる一〇〇%の最新鋭武力をもって、諸君の国土を完全防衛することを約束する」


それは、甘く、そして絶対に逃れることのできない「悪魔の契約」であった。

小国である彼らにとって、ソ連の脅威は目前に迫る現実だ。英仏は口では「守る」と言うが、遠く離れた彼らが本気で助けに来てくれる保証はどこにもない。


しかし目の前のドイツは違う。彼らのインフラはすでに血管のように自分たちの国に繋がっており、ドイツの最新鋭の戦車師団と空軍は、数時間で援軍として駆けつけてくれる位置にあるのだ。


「……総統閣下。この同盟に署名すれば、我が国は事実上、ドイツと外交・軍事の歩調を完全に合わせることになります。つまり、ソ連だけでなく、英仏とも完全に敵対する覚悟が必要になる」


ルーマニア外相が、震える声で確認した。

ヒトラーは、優しく、しかし有無を言わせぬ絶対的な確信を込めて頷いた。


「その通りだ。一蓮托生いちれんたくしょう。我々は共に生き、共に繁栄する。さもなければ、各個撃破されてバラバラに死ぬだけだ。……諸君、私は泥濘の中で死にたくはない。だからこそ、諸君という決して突破されない『平和と繁栄の壁』が必要なのだ。共に、新しいヨーロッパを創ろうではないか」


沈黙が部屋を包んだ。

しかし、それは迷いの沈黙ではなかった。圧倒的な経済力と、背後に控える巨大な軍事力、そして「戦争を避けるための合理性」という誰も反論できない大義名分を前に、彼らに「NO」と言う選択肢など最初から存在しなかったのだ。


やがて、ポーランドのベック外相がペンを取り、契約書にサインをした。

それを皮切りに、ルーマニア、リトアニア、ラトビア、エストニアの代表が次々とペンを走らせる。


一九三九年二月。

一発の銃弾も撃つことなく、アドルフ・ヒトラーは欧州の東半分を完全に自国の「防衛の盾(そして経済の心臓)」として組み込むことに成功した。


大日本帝国が極東で築き上げた広域ブロック経済の模倣は、ここ欧州において、最も強固な**『中欧同盟』**という名の不可侵の巨大要塞を完成させたのである。


イギリスとフランスが、東欧という「ドイツを背後から牽制するためのカード」を完全に、そして永遠に失った瞬間であった。



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