奉天会戦 4
1905年3月3日から3月8日頃までの約6日間、奉天会戦の後期は、日本軍の機動戦が頂点に達し、ロシア軍の防御線が全面的に崩壊寸前に追い込まれた時期であった。
雪解けの泥濘が平原を覆い、戦場の移動をさらに困難にしたが、日本軍の研究会戦法は、この悪条件を逆手に取り、分散機動と側背火力の連携を極限まで発揮した。
ロシア軍は、包囲の危機に直面し、逐次投入の誤りを繰り返しながらも、陣地の維持に必死の抵抗を続けた。
この後期の展開は、研究会戦法の平原適用が頂点を極め、日本軍の優位を決定的なものとした。
日本軍の総兵力は、左右翼の迂回部隊が敵背後で完全に連結し、中央部隊が牽制から本格攻撃へ移行する形で、全線にわたる圧力を強めた。
ロシア軍は、補給路の遮断と側面の崩壊により、指揮系統の混乱が深刻化し、決戦の場を失いつつあった。
泥濘の大地は、両軍の運命をさらに複雑に絡め取り、戦いの激しさを増幅させた。
包囲網の完成——左右翼の連結
3月3日、日本軍の左翼第一軍と右翼第三軍の先鋒機動塊は、ついにロシア軍背後で連結を果たした。
平原の北方、雪解け水が流れる低地帯で、騎兵支隊が両翼の連絡を確保。
この連結は、奉天市全体を半包囲する形を生み、ロシア軍の退路を狭めた。
第一軍の騎兵は、敵の残存輸送隊を次々と急襲し、補給の最後の糸を断ち切った。
第三軍の軽砲兵は、背後高地から集中射撃を継続し、ロシア軍の後方陣地を軟化させた。
砲弾の着弾音が平原に響き渡り、煙柱が立ち上る様子は、日本軍の浸透成功を象徴していた。
研究会戦法の核心が、ここで完全に発揮された。
分散した機動塊は、泥濘地帯を避ける経路を選択し、敵の集中火力を回避しながら前進。
側背からの砲撃と騎兵の撹乱が連携し、ロシア軍の陣地を内側から崩壊させた。
日本軍の将校たちは、旅順の成功を平原規模で再現する興奮を抑えつつ、慎重に包囲網を締め上げた。
騎兵の機動性は、泥濘の影響を受けつつも、平原の広大さを活かし、敵の側面を急速に脅かした。
3月4日、連結がさらに強化され、奉天市の北方包囲がほぼ完成。
日本軍の機動塊は、敵背後で陣地を構築し始め、軽砲兵の射撃位置を固定化した。
ロシア軍の補給路は完全に脅威にさらされ、奉天市内の食糧・弾薬が枯渇の危機に陥った。
中央の転換——第二軍の本格攻撃
中央第二軍は、3月4日頃から牽制を本格攻撃へ移行した。
これまで散発射撃で敵の注意を固定していた部隊は、重砲の集中射撃を加え、ロシア軍正面高地への圧力を強めた。
歩兵は塹壕線から前進し、機関銃・軽迫撃砲の支援下で敵陣地に接近。
泥濘の影響で移動が遅れたが、研究会による曲射火力の活用が突破口を開いた。
軽迫撃砲の曲射弾が敵塹壕を軟化させ、歩兵の突入を支援した。
中央攻撃の転換は、左右翼の包囲を補完するものだった。
ロシア軍は、正面の脅威増大に予備隊を投入せざるを得ず、側面の弱体化をさらに進めた。
第二軍の動きは、敵の逐次投入を誘導し、全線での分断を加速させた。
平原の視界が開けているため、偽装前進と本格攻撃の切り替えが敵を惑わせ、ロシア軍の対応を遅らせた。
3月5日、中央部隊は正面高地のいくつかを奪取。
機関銃陣地の制圧と重砲の無力化が成功し、奉天市正面の防御線に亀裂が入った。
泥濘地帯での歩兵進撃は苦労を伴ったが、軽迫撃砲の随伴が近接火力を提供し、損害を抑えた。
ロシア軍の抵抗と混乱
クーロパトキンは、3月3日以降、包囲の現実を直視せざるを得なくなった。
左右翼の補給路遮断と背後浸透が報告され、奉天市の孤立が目前に迫っていた。
彼は、残存予備隊を側面へ急派したが、泥濘地帯での移動遅延と日本軍の騎兵撹乱により、効果的な反撃が難しかった。
ロシア軍の陣地は、多層配置の利点を失い、内側からの砲撃で崩壊が始まった。
ロシア軍の将校たちは、旅順の敗北を繰り返す恐怖に駆られつつ、平原での決戦を諦めきれなかった。
機関銃陣地は正面で消耗を続け、重砲は側背射撃に無力化され、士気は急速に低下した。
補給の途絶が飢えと寒さを助長し、負傷者の治療が滞った。
クーロパトキンの指揮所では、退却の検討が始まりつつも、決戦継続の命令が繰り返された。
ロシア軍の思考は、伝統的な決戦主義に縛られ、日本軍の機動戦を「一時的な混乱」と過小評価しようとしたが、現実はそれを許さなかった。
3月6日〜7日、ロシア軍は全線で抵抗を続けたが、分断された陣地間の連絡が途絶え、指揮系統の混乱が深刻化した。
逐次投入された予備隊は、日本軍の側背火力と騎兵急襲に苦しみ、効果を発揮できなかった。
平原の広大さが、逆にロシア軍の弱点となり、日本軍の機動優位を際立たせた。
ロシア軍の兵士たちは、補給不足と連続砲撃で疲弊し、陣地の維持が限界に近づいていた。
後期の深化——全線の圧力増大
3月7日〜8日、日本軍の圧力は頂点に達した。
左右翼の機動塊が奉天市を完全に包囲し、中央部隊の攻撃が敵正面を崩壊寸前に追い込んだ。
軽砲兵の側背射撃が敵陣地を軟化させ、歩兵の浸透を支援した。
騎兵の撹乱は、敵の反撃を封じ、補給路の完全遮断を実現した。
ロシア軍は、全線で抵抗を続けたが、分断された陣地間の連携が失われ、指揮の統一が崩壊し始めていた。
クーロパトキンは、奉天市の維持を優先しつつ、退却の準備を密かに進めていたが、日本軍の包囲網はそれを許さなかった。
後期の6日間は、日本軍の新戦法が平原で頂点を極め、ロシア軍を決定的な危機に陥れた。
雪解けの泥濘が戦場を覆う中、日本軍は地形を味方につけ、進撃を継続した。
研究会戦法の灯火は、満洲平原を照らし、決戦の終局へと導いていた。




