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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
108/136

一九三七年(昭和十二年)二月。


大日本帝国は当時、生糸シルクに代わる安価な化学繊維――「人造絹糸レーヨン」の生産において、世界一の輸出大国となっていた。


総力戦研究所が構築した安価な電力網と、高度な化学工業の恩恵を受けた帝国のレーヨンは、欧米の市場を席巻し、大英帝国の綿織物産業を瀕死の重傷に追い込んでいた。アメリカやイギリスからすれば、日本は「不当に安いシャツやストッキングをばら撒く、目障りな繊維の国」という認識であった。


しかし、その「目障りな繊維」が、やがて大艦巨砲と鋼鉄の時代そのものを終わらせる「悪魔の素材」へと化けることになろうとは、この時、造り出した日本国内の工員たちですら予想だにしていなかった。


山口県、帝国人造絹糸・岩国工場。

瀬戸内海に面したこの巨大な化学工場では、木材パルプから抽出されたセルロースを薬品で溶かし、無数の細い糸として紡ぎ出す作業が二十四時間体制で行われていた。

二月十四日の深夜。


新設されたばかりの「高圧・高温乾燥炉(電気炉)」の区画で、致命的なバルブの操作ミスが発生した。

本来であれば、乾燥中のレーヨン糸から発生するガスを排気し、適度な酸素と温度を保つべき排気弁が、機械的なトラブルによって完全に固着・密閉されてしまったのである。


「おい、乾燥炉の温度計がおかしいぞ! 規定値の三百度を振り切っている!」


「ブレーカーを落とせ! 電源を切れ!」 


工員たちの怒号が飛び交う中、STEL(蒸気タービン・エレクトリック)発電から供給される無尽蔵の電力が、ショートを起こした発熱体へと流れ込み続けた。

密閉された分厚い鋼鉄の炉内は、酸素が完全に遮断された状態(無酸素状態)のまま、温度が五百度、八百度、そして一〇〇〇度を超える異常な極限環境へと突入していった。


「逃げろ! 爆発するぞ!」


深夜の工場内にサイレンが鳴り響き、工員たちが蜘蛛の子を散らすように避難した。

数時間後。

ようやく電源が遮断され、異常加熱が収まった工場内は、目を覆うような惨状を呈していた。

爆発こそ免れたものの、炉の隙間から噴き出した不気味な黄ばんだ煙が充満し、工場中が息の詰まるような焦げ臭さに包まれている。壁や天井、そして床に至るまで、ドロドロとした黒いタール状の液体がべっとりとこびりつき、異様な光景を作り出していた。


「……あーあ。こりゃあ始末書どころじゃ済まないぞ。乾燥待ちだった最高級のレーヨン糸が、全部パーだ」


翌朝。防毒マスクを被った工場長と技術者たちが、完全に冷え切った乾燥炉の分厚い扉を、バールとジャッキを使って無理やりこじ開けた。

彼らは、炉の中がドロドロに溶けたスラグ(鉱滓)か、あるいは真っ白な灰の山になっていると予想していた。

ギギギギ……ガコンッ!

重い扉が開くと、中から大量の灰がどさりと崩れ落ちてきた。

周囲のレーヨンは、異常な高温によって完全に炭化し、無残な灰へと姿を変えていた。

しかし――。


「……なんだ、これは?」


灰をかき分けた工場長は、息を呑んだ。

炉の中心部。周囲の灰やタールに守られるようにして、**「黒光りする、長さ一メートルほどの奇妙な塊」**が横たわっていたのである。

それは、まるで太古の地層から掘り出された化石か、あるいは宇宙から落ちてきた隕石のように見えた。表面は黒曜石のように滑らかで、鈍い光沢を放っている。

一人の工員が、革手袋越しにその塊を持ち上げようとして、驚きの声を上げた。


「か、軽いです! こんなに大きいのに、二十キロくらいしかありません! 木の塊みたいだ!」


「馬鹿な。一〇〇〇度以上の炉の中で、木材が燃え残るはずがないだろう。ハンマーで叩き割ってみろ。中に燃えカスが詰まっているはずだ」


工場長の指示に従い、工員が工具箱から大型の鉄のハンマーを取り出し、思い切りその「黒い塊」を殴りつけた。

カキィィィィンッ!!!

火花が散り、甲高い金属音が工場に響き渡った。

工員は「痛ぇっ!」と叫んでハンマーを放り出した。その黒い塊は割れるどころか、傷一つ付いていなかった。逆に、殴りつけた鋼鉄のハンマーのヘッドの方が、見事に欠け落ちていたのである。


「鉄のハンマーが、弾き返された……? 鉄よりも軽くて、鉄よりも硬いのか?」


工場長は震える手でその黒光りする塊に触れた。


一九三七年、二月。


彼らはまだ知らなかった。無酸素状態の極限の熱が、レーヨン(セルロース繊維)の非炭素成分をすべて揮発させ、炭素の原子だけを六角形の強固な結晶構造(グラファイト結合)へと再配列させたという事実を。


それは、史実のアメリカや日本がさらに数十年後の冷戦期にようやく実用化に漕ぎ着ける究極の素材――「PAN系(あるいはレーヨン系)炭素繊維カーボンファイバー」の偶発的な巨大結晶体が誕生した瞬間であった。



その「異常な硬度を持つ黒い塊」の噂は、民間工場の事故報告書から特務機関の網に引っかかり、わずか三日後には帝都・東京の総力戦研究所・地下実験室の分析台の上へと運ばれていた。


「……信じられん」


白衣を着た材料工学の主任技官が、電子顕微鏡から目を離し、冷や汗を拭った。

彼の周囲には、刃こぼれしたダイヤモンド・カッターの刃と、曲がりくねった高張力鋼のドリルビットが散乱していた。


「所長。岩国のレーヨン工場で偶然生成されたこの『黒い塊』ですが……構成成分の九九%が、純粋な炭素です」


「炭素だと? 石炭や鉛筆の芯の親戚が、高張力鋼のドリルをへし折ったとでも言うのか?」


所長が眉をひそめた。


「ええ。炭素原子が、異常に強固な六角形の網目状に結合しています。重量は鉄の四分の一(比重一・五〜二・〇)。しかし、引張強度と弾性率は、現在我が軍が使っている最高のニッケルクロム鋼の数倍から十倍に達します。しかも……熱に極端に強い。三〇〇〇度のバーナーで炙っても、全く溶けません」


それを聞いた瞬間、いつもは冷徹な所長の顔に、明らかな「戦慄」と「歓喜」が入り混じった表情が浮かんだ。


現在、帝国が誇る無敵の装甲素材「MBF(特級硬化繊維素材)」は、防弾性には優れているものの、植物繊維と糊がベースであるため、「熱(数百度の高温)」には弱いという唯一にして最大の弱点を持っていた。ゆえに、戦車や歩兵の装甲には使えても、高熱を発するエンジンの燃焼室や、超高速で回転するタービンブレードには使えなかったのである。


しかし、もしこの「黒い炭素のカーボン」を、MBFのように繊維状に編み込み、あるいは樹脂で固めることができたら?


「……技官。この炭素の塊は、どうやって生まれた?」


「岩国工場の報告書によれば、レーヨン糸を『無酸素状態』のまま、異常な高温で蒸し焼き(熱分解)にした結果とのことです。現在、当研究所の設備で、その生成プロセスを意図的に再現・最適化するプロジェクトを立ち上げました」


「素晴らしい。完璧だ」


所長は、黒光りする炭素の塊を素手で撫でた。


「我々は今、次なる次元への『鍵』を手に入れた。鉄よりも軽く、熱で溶けず、いかなる金属よりも強靭な素材。……これがあれば、あのシコルスキーが飛ばした回転翼機ヘリコプターのローターはさらに巨大化できる。航空機の機体は鳥のように軽くなる。そして何より……」


所長の脳裏には、極秘裏に進められているもう一つの狂気のプロジェクト――「レシプロエンジン(プロペラ)」の限界を超え、高温のガスを後方へ噴射して音速の壁を破る**「噴流推進機関ジェットエンジン」**の構想図が浮かんでいた。


ジェットエンジンの実用化を阻んでいた「数千度の熱と遠心力に耐えられるタービンブレードの素材がない」という物理的な壁が、この黒い炭素の塊によって、今、あっさりと打ち砕かれたのである。


「直ちに、帝国人造絹糸・岩国工場を総力戦研究所の直接管轄下に置け。そして、全国のレーヨン工場に『設備投資』の名目で無酸素焼成炉を導入させ、この『黒き鋼(炭素繊維)』の大量生産体制を確立するのだ」


しかし、所長からの「直ちにこれを量産し、航空機の素材として実用化せよ」という厳命に対し、主任技官は首を横に振らざるを得なかった。


「……所長。理屈の上では、これは革命的な素材です。しかし、この『塊』のままでは装甲板にも、ローターブレードにも加工できません。我々が必要としているのは塊ではなく、編み込むことができる**『繊維(糸)』**なのです」


そこから、総力戦研究所の技術者たちによる、血の滲むような「再現と繊維化」の試行錯誤が始まった。


彼らは地下実験室に小型の電気炉を組み上げ、岩国工場で起きた「バルブの固着による無酸素状態での異常加熱」という事故環境を人為的に再現しようと試みた。


最高級のレーヨン糸を束ねて炉に入れ、空気を抜いて加熱する。

しかし、最初の数ヶ月は失敗の連続であった。


温度の上げ方が急すぎると、レーヨンはただの脆い炭の粉になって崩れ落ちた。逆に温度が低すぎると、セルロースの非炭素成分が抜けきらず、中途半端な強度の黒焦げの糸にしかならなかった。


「駄目だ。炭素原子の六角形の網目構造(グラファイト結合)が、綺麗に一方向に揃ってくれない。バラバラの方向を向いて結合してしまうから、少し曲げただけでポキリと折れてしまうんだ」


「無酸素状態にするだけでは足りないのか……? 事故の時、あの乾燥炉の中では他にどんな物理的条件が働いていたというんだ?」


春が過ぎ、蒸し暑い夏がやってきても、彼らは「黒い塊」を「黒い糸」に変換する方程式を見つけ出せずにいた。

転機が訪れたのは、事故から半年が経過した一九三七年、八月のことである。


連日の徹夜で目を血走らせていた若手技官が、岩国工場の事故報告書の「ある一文」に目を留めた。


『事故発生時、乾燥炉内の巻き取りローラーは停止せず、レーヨン糸に対して**極限まで張力(引っ張る力)**がかかり続けていた模様』


「……これだ!! 主任、張力テンションです!」


若手技官が叫んだ。

「炭素原子が結合していく瞬間に、糸を強く引っ張り続けていなければならないんだ! そうすれば、炭素の六角形の結晶が、糸の繊維方向に沿って綺麗に整列するはずです!」


ただちに実験装置が改良された。

レーヨン(プレカーサー)を、まずは二〇〇度〜三〇〇度の空気中でゆっくりと酸化(耐炎化)させる。その後、酸素を完全に遮断した不活性ガスの炉内で、**強い力でピンと張り詰めながら(張力をかけながら)**一〇〇〇度以上の超高温で蒸し焼き(炭素化)にする。


数日後。


改良された実験炉の扉が開かれた。

そこにあったのは、もはやただの炭の塊でも、脆い粉でもなかった。


黒真珠のような鈍い光沢を放つ、髪の毛よりも細い「漆黒の糸」の束であった。

主任技官が震える手でその一本をつまみ上げ、両手で思い切り引っ張ってみた。


……切れない。鋼のピアノ線のように、いや、それ以上に強靭なしなりを持っている。


「……成功だ。炭素の結晶方向が、完全に繊維と直列に揃っている。引っ張り強度は、我が軍の最高級特殊鋼の五倍以上だ」


偶然の事故から半年。

天才的な閃きと、泥臭い実験の繰り返しによって、大日本帝国はついに「PAN系(レーヨン系)炭素繊維カーボンファイバー」の意図的な生成プロセスを、世界で初めて理論化し、実証したのである。


「これで、やっと工場プラントの設計図が引けます」


煤だらけの顔で笑う技官たちを前に、所長は深く頷いた。


「よくやった。これより、この新素材を『特一号炭素繊維』と呼称する」


所長はすぐさま内線電話を取り上げた。


「……直ちに、帝国人造絹糸をはじめとする国内の主要レーヨンメーカーの幹部を招集しろ。極秘裏に『無酸素焼成・連続延伸炉』のプラント建設を指示する。表向きは、『欧米市場へ向けたレーヨン増産のための設備投資』とでもしておけ」


一九三七年秋。

半年間の徹底的な基礎研究を経て、ようやく日本のレーヨン工場群の一部が「炭素繊維の量産プラント」へと静かに改造され始めた。


そして、この「表向きのレーヨン増産」というカモフラージュの動きこそが、ワシントンやロンドンの情報部に『日本はただの安いシャツの大量生産に乗り出しただけだ』という致命的な誤解(過小評価)を与え、彼らの慢心を誘うことになったのである。


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