垂直回転
一九三六年、冬。
ドイツ・ベルリンでの熱狂的なオリンピックが幕を閉じ、次なる一九四〇年の開催地が「帝都・東京」に決定したことで、日本国内はかつてない祝祭の空気に包まれていた。
銀座の目抜き通りには「祝・紀元二千六百年 東京オリンピック」の豪奢なネオンサインが瞬き、モボやモガたちは来るべき平和の祭典に胸を躍らせている。アムール川での凄惨な防衛戦の真実を知るのは一部の軍上層部のみであり、一般市民にとっての帝国は、ただひたすらに豊かで、光り輝く未来の象徴であった。
静岡県、御殿場演習場。
十二月の刺すような空っ風が、富士山の雪を巻き上げて吹き下ろしてくる広大な荒野の中央に、ひどく奇妙な形をした機械が置かれていた。
それは飛行機には見えなかった。固定翼(主翼)が存在せず、むき出しの鋼管フレームで組まれた機体の上部には、巨大な三枚の回転翼が天を指して取り付けられている。そして、長く伸びた尾部の先端には、小さなプロペラが横向きに据え付けられていた。
「……イーゴリ。気温は氷点下二度だ。エンジンオイルの粘度は規定値内、キャブレターの凍結兆候もなし。いつでもいけるぞ」
防寒着に身を包んだ技術将校が、流暢なロシア語で声をかけた。
その視線の先で、奇妙な機械の操縦席(ただの剥き出しの椅子だ)に座り、計器盤を食い入るように見つめていた大柄な男が、ゆっくりと頷いた。
彼の名は、イーゴリ・シコルスキー。
かつて帝政ロシアで巨大な多発航空機を設計し、ロシア革命の動乱を逃れて白軍の残党と共に極東へ渡った天才航空技術者である。
史実の彼はアメリカへ亡命し、苦難の末にヘリコプターの実用化に漕ぎ着ける。しかしこの世界線において、彼は日本の庇護下にある「シホテルーシ共和国」の国籍を取得し、大日本帝国・総力戦研究所の特別客員技師として、この御殿場の地で己の生涯の夢に挑んでいた。
彼の夢。それは「滑走路を必要とせず、空中に静止し、垂直に離着陸できる飛行機械」――すなわち**回転翼機**の完成であった。
「感謝する、ナカジマ大尉。……私の故郷キエフの冬に比べれば、この程度の寒さは春風のようなものだ」
シコルスキーはゴーグルを下ろし、頭上の巨大な回転翼を見上げた。
ヘリコプターの概念自体は、レオナルド・ダ・ヴィンチの時代から存在した。しかし、それを実用化する上で、世界中の技術者たちが「二つの巨大な壁」にぶつかって挫折していた。
一つは、機体が回転翼の反作用でコマのようにクルクルと回ってしまう問題。
もう一つは、**「自重を支えて空気を叩き続ける、巨大なローターブレード(回転翼)の強度と重量の矛盾」**である。
木製のブレードは遠心力と振動で根元から折れ飛び、金属製のブレードは重すぎて当時のエンジンの出力ではまともに浮き上がることができなかった。
「私がアメリカやヨーロッパに渡っていれば、この機体はあと十年は飛ばなかっただろう」
シコルスキーは、革手袋で操縦桿を握り締めながら呟いた。
「だが、ここには『魔法の紙』がある」
彼の頭上で静かに待機している三枚のメインローター。それは木でもジュラルミンでもなく、大日本帝国が世界に誇る**MBF(特級硬化繊維素材)**によって成型されていた。
総力戦研究所の材料工学班がシコルスキーの要求に合わせて特別に積層・プレスしたこの「MBF製ローター」は、木材のように軽く、最高級の特殊鋼のように強靭で、なおかつ回転時の異常振動を繊維の層が吸収してしまうという、回転翼機にとってまさに「奇跡の素材」だったのである。
「第一回、浮揚テストを開始する。周囲、退避せよ!」
ナカジマ大尉の号令とともに、整備兵たちが機体から離れた。
シコルスキーがイグニッションスイッチを入れ、スターターを回す。
背後に搭載された「星型七気筒・空冷発動機」が、初冬の静寂を切り裂いて爆音を轟かせた。青白い排気煙が富士の風に流される。
シコルスキーはクラッチを慎重に繋いだ。
バタバタバタバタ……!!
巨大なMBF製ローターが、重々しい風切り音を立てて回転を始める。
回転数は徐々に上がり、御殿場の枯れ草が猛烈なダウンドラッシュ(吹き下ろしの風)によって円形に薙ぎ倒されていく。
トルクの反作用で機体が右へ回転しようとする力を、尾部の小さなテールローター(これもMBF製だ)が空気を横に押し出すことで完璧に打ち消している。機体は微動だにしない。
「回転数、規定値に到達。……行くぞ!」
シコルスキーは、左手に握った「コレクティブピッチ・レバー」をゆっくりと引き上げた。
三枚のローターブレードの角度が同時に変わり、空気を強烈に下へと叩きつける。
発動機が一段と高い咆哮を上げた。
次の瞬間。
「……浮いた!」
見守っていた技術将校の一人が、思わず声を漏らした。
車輪を支えていたサスペンションが伸びきり、無骨な鋼管フレームの機体が、まるで目に見えない糸で天から引っ張り上げられたかのように、ふわりと地面から離れた。
一メートル、三メートル、五メートル。
シコルスキーの操る回転翼機「試作・VS―1(ウラジミール・シコルスキー1型)」は、高度五メートルの空中でピタリと静止した。
前へ進むでもなく、落ちるでもなく、ただその場で「空中に釘付けにされたように」ホバリングを続けている。極端に難しいとされた姿勢制御は、彼が考案したスワッシュプレート(回転翼の傾きを制御する円盤)の精緻なメカニズムと、日本製の寸分違わぬ精密なベアリング加工技術によって、完璧に克服されていた。
シコルスキーは空中で右手に握った操縦桿をわずかに前へ倒した。
機体は、まるで生き物のようにスッと前進を始める。
操縦桿を手前に引けば、後退する。
左へ倒せば、機首の向きを変えずに左へとカニ歩きのようにスライドした。
「ハハッ……! 飛んだぞ、飛んだ! 私の計算は間違っていなかった! 日本の素材が、私の理論に追いついたのだ!」
凍てつく風を全身に浴びながら、シコルスキーは操縦席で満面の笑みを浮かべ、ロシア語で歓喜の声を上げた。
革命で故郷を追われ、失意の中で描いたスケッチブックの中の空想が、極東の地でついに現実のものとなった瞬間であった。
約十分間の完璧な展示飛行を終え、機体が再び元の位置へふわりと着陸した。
発動機が停止し、ローターの回転が徐々に止まっていく。
通常の国であれば、ここで軍の高官や見物人たちが駆け寄り、シコルスキーを肩車して万歳三唱を叫ぶところだろう。
しかし、ここは徹底した合理主義の牙城、大日本帝国である。
防寒外套の襟を立ててテストを見守っていた総力戦研究所の幹部と参謀たちは、誰一人として歓声を上げなかった。彼らはストップウォッチを止め、手元の野帳に万年筆で猛烈な勢いで数式やメモを書き込んでいた。
「……見事な静止安定性だ。発動機を現在の二〇〇馬力から、中島飛行機が開発中の『栄』型(一〇〇〇馬力級)に換装し、MBFローターの直径をあと三メートル拡大した場合のペイロード(積載量)を直ちに計算しろ」
所長が、横に立つ分析官に冷徹な声で命じた。
「ハッ。現在の自重から逆算すると、完全武装の歩兵一個分隊(一〇名)、あるいは一トン前後の物資を搭載し、時速一五〇キロで巡航可能になると推定されます」
「航続距離は?」
「燃料タンクを増設すれば、最低でも三〇〇キロは確保できるかと」
参謀の一人が、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「滑走路がいらない、ということは……ジャングルのど真ん中や、絶海の孤島、あるいは切り立った山岳地帯にも、この機体は『降りられる』ということだな?」
「その通りです。また、艦艇の甲板からの発着艦も極めて容易です。……もし、この機体に『電探』と爆雷を積んで上空に静止させれば、敵の潜水艦は海面に顔を出すことすらできなくなります」
彼らの脳内には、すでに目前の実験機への感動など微塵もなかった。
あるのは、この「垂直に空を飛ぶ機械」をいかにして量産し、太平洋に点在する島々への兵站の要として組み込み、米英の潜水艦網を粉砕するかという**「次なる戦争のドクトリン(基本原則)」**の構築であった。
「……シコルスキー技師の要望通り、開発予算を現在の五倍に引き上げろ」
所長は野帳を閉じ、富士の山頂を見上げながら言った。
「この『回転翼機』の存在は、最高機密とする。オリンピックで浮かれる新聞記者どもには、絶対に嗅ぎつけさせるな。我々がこれを公の場に出すのは、太平洋で米英の艦隊が沈没し、海に浮かぶ彼らの水兵どもを『救助』してやる時だけだ」
「御意」
一九三六年、冬。
世界がまだ「時速一〇〇キロで走る戦車」や「大砲の撃ち合い」という二次元の戦争に囚われていたこの時。
大日本帝国は、シコルスキーの天才的な頭脳とMBFというオーパーツを融合させ、戦場を真の三次元へと引き上げる**「垂直の神話(ヘリコプターの実用化)」**という、途方もないジョーカーをその手札に加えたのであった。




