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古の灯火  作者: 丸亀導師
戦間期
104/136

大粛清

一九三六年、五月中旬。

極東アムール川岸の泥濘が、三十万の赤軍将兵の血と肉で完全に覆い尽くされていた頃。そこから六千キロ以上離れたソビエト連邦の首都モスクワは、五月というのに凍てつくような暗い氷点下の空気に包まれていた。

クレムリン宮殿の最奥。分厚い防音扉で閉ざされた執務室には、ひりつくような沈黙が張り詰めていた。


「……もう一度言え。同志」


重厚なマホガニーの机の奥深く、パイプの煙を燻らせながら座る男――ヨシフ・スターリンが、氷のように冷酷な声で低く唸った。その視線の先には、極東方面軍からの急報を持参した参謀本部の高級将校と、内務人民委員部(NKVD)の長官が、文字通り全身をガタガタと震わせて直立していた。


「ほ、報告いたします、偉大なる同志スターリン……。第、第一特別赤軍を中心とする極東の攻勢部隊三十万は……全滅、いたしました」


「全滅、だと? 撤退ではないのか。戦線が崩壊したのかと聞いているのだ」 


「ち、違います……! 文字通り、『消滅』したのです! 生き残った部隊は一つもありません! 司令部も、五個狙撃兵師団も、三個戦車旅団も、文字通り地図上から跡形もなく……!!」


将校の悲鳴のような報告に、スターリンの分厚い髭がピクリと動いた。

三十万の軍隊が、わずか数日で「消滅」するなど、軍事常識ではあり得ない。包囲されたとしても、数万の捕虜が出るか、あるいは散発的なゲリラ戦に移行するはずだ。

しかし、届いた断片的な通信(その多くは、日本軍の妨害電波の網の目をすり抜けた死に際の絶叫だった)が示す事実は、あまりにも異様だった。


『空から悪魔が降ってきた』 


『我々の砲弾が弾かれる。歩兵が一人で機関銃並みの弾幕を張ってくる』


『見えない。敵の姿が見えないのに、頭上から正確に砲弾が降ってくる』 


『助けてくれ。包囲されている。逃げ場がない、空にも、陸にも……』


スターリンは、机の上に放り出された極東からの電報の束を、忌々しげにパイプの吸い口で弾き飛ばした。

彼には理解できなかった。いや、**「理解することを拒絶した」**のだ。


大日本帝国という極東の島国が、レーダー、電磁式シーケンサーによる自動火器管制、そしてMBF(鋼紙)という未知の新素材を組み合わせた「完全に自動化された防衛システム」を構築しているなどというSF小説のような現実を。

もし、それが真実であるならば。


ソビエト連邦が五カ年計画で国民を飢えさせながら築き上げた重工業も、誇り高き赤軍の機械化部隊も、すべては日本の前では「旧世紀のガラクタ」に過ぎないということになる。共産主義の優位性という国家の根幹が、根底から崩れ去ってしまう。


「……あり得ない」


スターリンはゆっくりと立ち上がり、執務室の中を歩き始めた。その足音だけが、不気味に響く。


「日本の資本家どもが、我らが赤軍を正面から打ち破ることなど、科学的にも歴史的にもあり得ない。三十万の兵が、一機の弾丸も残さずに消滅するなど……」


スターリンが立ち止まり、NKVD長官を鋭く睨みつけた。その目には、狂気と恐怖が入り混じった濁った光が宿っていた。


「答えは一つだ。**裏切り(サボタージュ)**である。極東の将軍どもは、日本のスパイと結託し、意図的に我が赤軍を死地に追いやり、国家を裏切ったのだ。トロツキストの残党どもが、軍の中枢に巣食っている証拠だ!」


NKVD長官は、血の気を失った顔で深く頷いた。


「おっしゃる通りです、同志スターリン! これは純然たる反革命的陰謀に違いありません。直ちに軍内部の『害虫』を一掃せねばなりません!」


日本の圧倒的な技術力と、それを運用する冷徹なシステムによって敗北したという事実。

その残酷な現実から目を背けるため、スターリンは己の軍隊の敗北をすべて「内部の反逆者によるサボタージュ」へとすり替えた。自らの失政を隠蔽し、権力を維持するための、史上最も血生臭い言い訳。


ここに、ソビエト連邦全土を恐怖のどん底に陥れる**「大粛清ザ・グレート・パージ」**の狂風が吹き荒れることとなる。


***


その日の夜から、モスクワをはじめとするソ連全土の主要都市で、黒い自動車チョールナヤ・マールシャが深夜の街を走り回り始めた。

極東の作戦立案に関わった参謀本部の将校たち。

補給線の遅れを指摘していた鉄道人民委員部の官僚たち。


「日本の兵器は我が国のものより進んでいるかもしれない」と口走ったことのある兵器開発局の技師たち。

そして、かつてのロシア内戦を戦い抜いた、赤軍の誇り高き老将たち。

彼らは深夜、ベッドから引きずり出され、わけもわからぬままルビャンカ(NKVD本部)の地下室へと連行された。

彼らに突きつけられた容疑は、すべて同じだった。


『日本の特務機関と内通し、極東第一特別赤軍を意図的に壊滅させた反革命罪』


である。


「私は裏切ってなどいない! 日本軍の火力が異常だったのだ! 彼らの歩兵は、一人で数十発を連射できる未知の小銃を持っていた! 戦車は三七ミリ砲で……」


「黙れ、ファシストの犬め! 偉大なるソビエトの工業力が、猿どもに劣るはずがなかろう!」


革のコートを着たNKVDの尋問官たちは、真実を語る軍人たちを容赦なく拷問した。

ペンチで爪を剥がされ、眠りを奪われ、家族の命を脅かされた将官たちは、やがて心が折れ、NKVDが用意した荒唐無稽な「自白書」に血だらけの手でサインをしていった。 


『私は日本のスパイであり、意図的に部隊を分断させ、補給を遅らせて、三十万の同志を殺しました』


自白書にサインをした者は、その日のうちにモスクワ郊外の処刑場へと送られ、後頭部に弾丸を撃ち込まれて次々と土の穴に放り込まれていった。

極東軍の司令官クラスはもちろん、大隊長、中隊長クラスに至るまで、少しでも極東の敗北の「真実」を知る者、あるいはそれを疑う知性を持つ者は、片っ端から処刑、あるいはシベリアの強制収容所グラグへと送られた。


赤軍の指揮系統は、日本の空挺部隊に破壊されるまでもなく、スターリン自身の疑心暗鬼と恐怖によって、内側から完全に解体されていったのである。


***


「将校の数は三万人を削った。だが、まだ足りない。日本の恐怖を忘れるためには、より強力な『盾』が必要だ」


スターリンは、大量の処刑リストにサインをしながら、血走った目で地図を見つめていた。

極東のアムール川国境から、モスクワまでの広大な空間。日本軍がその気になれば、あのSTEL装甲列車と重装甲襲撃機に乗って、ウラル山脈を越えてくるかもしれないという恐怖が、独裁者の心を蝕んでいた。


彼は直ちに、国家の戦略を根本から覆す命令を下した。


一、極東地域における日本との一切の国境紛争を厳禁とする。シホテルーシ・韃漢国境から軍を五十キロ後退させ、徹底した遅滞防御陣地のみを構築せよ。


二、ヨーロッパ・ロシアに集中している重要工業地帯(戦車工場群)を、日本機の爆撃が絶対に届かないウラル山脈の東側、あるいは奥深くへと移転させよ。


三、日本の三七ミリ戦車砲、および機関砲の水平射撃を完全に弾き返す『絶対装甲』を持つ新型戦車の開発を、無制限の予算と権限をもって直ちに開始せよ。


スターリンのこの絶望的な命令により、ソ連の戦車開発局は狂気の発明へと駆り立てられることになる。

日本のMBF(鋼紙)による避弾経始に対抗し、さらに分厚い鉄の塊を斜めに配置した重装甲戦車。後に「T―34」あるいは「KV―1」と呼ばれることになる怪物たちの設計図が、日本の超技術への恐怖という名の産声とともに、ウラルの奥深くで引かれ始めていた。

だが、それはまだ数年先の話である。


今のソビエト連邦は、指導者の狂気によって自らの手足を切り落とし、血の海の中で悶え苦しむ巨大な熊に過ぎなかった。


*** 


東京、霞が関。総力戦研究所・地下大作戦室。

ソ連全土を吹き荒れる「大粛清」の生々しい報告を、内閣情報局の暗号解読班が次々と持ち込んでいた。


「モスクワのNKVD本部から、極東軍管区への粛清命令を傍受。すでに赤軍の将官クラスの六割が逮捕、あるいは処刑された模様です」


「極東の国境線からは、ソ連軍の完全な撤退を確認。彼らは自ら鉄道のレールを引き剥がし、橋を落としながら後退しています」


報告を聞いていた統合軍の幕僚たちは、あまりの呆気なさに言葉を失っていた。


「三十万をすり潰した結果が、これか。スターリンは、我々に敗北した理由を分析するどころか、その事実を隠すために自らの軍隊を処刑している」


総力戦研究所の所長は、手にしていた報告書を机に置き、冷たく笑った。


「システムが、完全に機能したということだ」


所長は、壁に掲げられた巨大なユーラシア大陸の地図――今や、アムール川を境にして完全に赤色の脅威が後退したその地図を、誇らしげに見上げた。


だが、参謀の一人が口を開いた。


「誇るのは良いことだ。だが、敵も学習する。我々は常に先手先手を取り、戦わずして勝つ方法を身に着けなければならない。

勝利とは既に、戦う前から決しているのだ…。」


その言葉に一同は沈黙を作り、自らが浮かれていたことに反省の色を見せた。


「少なくとも…我々は人間でなければならない…。死者は、丁重に葬るべきだ。」


極東シベリアにおいて、数万或いは十数万ともいえるのソ連人民の死体が、密かにしかし確かに葬儀を行われた。

彼等の祖国、ソ連が締め出し苦しめたロシア正教のその形をとって…。




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