春季攻勢
第一章 泥濘
一九三六年、四月下旬。
長く厳しいシベリアの冬が終わりを告げ、広大な大地を覆っていた分厚い雪が溶け出し、見渡す限りの泥濘が黒々とした姿を現し始めていた。
高度三〇〇〇メートル。アムール川南岸の国境線上空を、単発の機体が滑るように飛行していた。
大日本帝国空軍・昭和九年式連絡機。
全幅一二・五メートルという、単発機としては異例の高アスペクト比を誇る細長い主翼が、冷たい春の気流を的確に捉えている。機首に搭載された空冷星型九気筒発動機は、七八〇馬力の唸りを上げながら、金属製二翅定速プロペラを力強く回していた。
「……見ろ。対岸のタイガ(針葉樹林)の中だ。雪解けの泥濘を無理矢理掘り返して、何かを隠蔽している」
後部偵察席に座る観測員が、段差のない温室型キャノピー越しに眼下を見下ろし、操縦席に向けて音声無線で告げた。
彼の足元には、機体底部に備え付けられた大型の高解像度航空カメラが、一定のシャッター音を響かせながら連続撮影を行っている。
昭和九年式連絡機は、徹底した軽量化と航続距離の延伸に特化した機体である。最高速度は三一五キロ。引き込み脚の重量増加と故障リスクを嫌い、あえて固定脚を採用しているが、空気抵抗を極限まで減らす流線型のスパッツ(脚カバー)を被せることで速度低下を防いでいる。
浮いた重量のすべては、二〇〇〇キロという長大な航続距離を生む燃料と、後部座席に据え付けられた一一ミリ単装旋回機銃、そしてその予備弾薬四〇〇発へと回されていた。ドッグファイトを避け、「敵より先に見つけ、後方機銃で牽制しながら逃げ切る」という生存性最優先の設計思想が見事に機能している。
「機関車から吐き出される黒煙の数が異常だ。シベリア鉄道の支線から、次々と何かが降ろされている……戦車だ。BT戦車と野砲の群れが、泥濘の中にうごめいている」
観測員は、後部の一一ミリ機銃のグリップから手を放し、長距離通信用の大型無線機のスイッチを入れた。
「こちら『極北一号』。ハバロフスク要塞区司令部へ。アムール川北岸、セクター〇四にて敵の大規模な集結を確認。繰り返す――」
この日、昭和九年式連絡機が持ち帰った鮮明な航空写真は、ただちに専用の通信回線を通じて、数千キロ離れた帝都・東京の霞が関へと送られた。
***
東京、総力戦研究所・地下大作戦室。
壁一面を覆う巨大なユーラシア大陸の地図の前に、白衣を着た分析官と、各軍の幕僚たちが集まっていた。
「航空偵察の報告、ならびにシベリア鉄道における石炭消費量の異常な増加データから、敵の動員数を割り出しました」
主任分析官が、手元の計算尺と電磁式計算機から弾き出された分厚いレポートを机に置いた。
「ソ連極東赤軍、第一特別赤軍を主力とする約三〇万の兵力。BT戦車およびT―26軽戦車など装甲車両約二〇〇〇輌。さらに各種火砲数千門。彼らの補給線の処理能力から逆算して、これ以上の規模の集結は不可能です。まさに、彼らの出せる『限界値』です」
統合軍参謀本部の将官たちは、その数字を見ても誰一人として焦りの色を見せなかった。彼らは数年前から、ソ連が国力回復ののちに必ず極東へ浸透してくる確率が極めて高いと予測し、そのための「自動化された防衛陣」を構築し続けてきたからである。
そこへ、内閣情報局(諜報部)の人間が静かに入室してきた。
「モスクワの『奥』から情報が入りました。スターリン周辺の人事に、不可解な動きがあります。極東方面軍の幹部数名が、理由もなく更迭され、内務人民委員部(NKVD)の監視下に置かれました。……スターリンは焦っています。五カ年計画の歪みから生じた国内の不満を逸らすため、何としても『外』での目に見える勝利を欲している。結果を出せない将軍は、そのまま粛清の対象となるでしょう」
「なるほど。後がないソ連の将軍たちは、雪解けの泥濘が乾き切るのを待つ余裕すらない、というわけか」
総力戦研究所の所長が、冷ややかに呟いた。
事態はここから、かつての日本からは考えられないほどの驚異的な速度で動いた。
統合軍参謀本部の報告を受けた内閣は、ただちに国会へ定期連絡と状況説明を実施。「国土防衛および同盟国救援のための、統合軍による即時武力展開」の許可を求めた。
事前の根回しと、総力戦研究所が提示した「完璧な勝利の計算式」を前に、国会は全会一致でこれに同意。煩雑な政治的対立や軍部と政府の軋轢は、この世界線には存在しない。
同時に、日本政府は同盟国である韃漢国およびシホテルーシ共和国に対し、最高レベルの防衛警報を発令。
「北の金床」韃漢国の兵器工場群は24時間操業体制へと移行し、新京のターミナルからは弾薬と補充兵を満載したSTEL(蒸気タービン・エレクトリック)装甲列車が、標準軌の鉄路を北へ向けて疾走し始めた。
帝国の巨大な「防衛システム」が、静かに、そして完全に起動したのである。
***
そして、一九三六年五月上旬。
アムール川の氷が完全に溶け去り、泥濘が春の風によってわずかに固まり始めたその日。
ソ連極東赤軍は、ついにアムール川の渡河作戦を開始した。
「ウラー(万歳)! 偉大なる同志スターリンのために!」
政治将校の怒号と機関銃の威嚇射撃に背中を押され、カーキ色の軍服を着たおびただしい数のソ連歩兵が、ゴムボートや粗末な木舟に乗り込み、濁流へと漕ぎ出した。その後方からは、ポンツーン(浮橋)を架設するための工兵部隊と、渡河の順番を待つBT戦車の群れが、泥濘に足を取られながら黒煙を上げてひしめき合っている。
彼らの目には、対岸のシホテルーシ・韃漢の国境線は静まり返っているように見えた。塹壕に兵士がひしめいている様子もない。
「日本軍の防衛線など、たかが知れている! 一気にウラジオストクまで押し潰せ!」
前線指揮官が叫んだその時だった。
対岸の小高い丘――ハバロフスク要塞区(オレホヴァヤ山)の地下深くで、帝国の「脳」が冷酷な判断を下した。
高台で回転する巨大な昭和九年式・統合電探が、川面を埋め尽くすソ連軍の舟艇と、対岸に密集する戦車群を完璧に捕捉していた。そのデータは有線ケーブルを通じて地下深くの電磁論理式・シーケンサー(算定器)へと送られ、瞬時に最適な「砲撃諸元」へと変換される。
ズガァァァァァン!!!
天地を揺るがす轟音とともに、要塞の斜面を覆っていた偽装網が吹き飛び、八八艦隊計画の遺物である巨大な「四一センチ連装砲」が火を噴いた。
重さ一トンを超える大口径徹甲榴弾が、数十キロの空間を切り裂き、ソ連軍の集結地点――ポンツーン架設現場のど真ん中に正確に直撃した。
「な、なんだと……!?」
ソ連兵たちが見たのは、戦車ごと数十名の兵士が、泥と水柱とともに天高く吹き飛ばされる地獄の光景だった。
それを合図とするように、河川封鎖のために分散配置されていた一〇基の一四センチ砲、そして一五センチ加農砲陣地が一斉に自動統制射撃を開始した。
アムール川の川面は、一瞬にして沸騰したかのような大爆発の連続に包まれた。
着弾の誤差は恐ろしいほどに少ない。人間の勘や目視に頼らない、算定器による完璧な弾道計算。ソ連の木舟は次々と転覆し、冷たい濁流の中へ数千の兵士が投げ出されていく。
運良く対岸へ取り付いたソ連兵たちも、そこでさらなる絶望を味わうことになった。
「突撃! 岸へ上がれ!」
泥まみれになりながらモシン・ナガン小銃を構えて土手を登り切った彼らを待っていたのは、シーケンサー制御によって自動で首を振る「無人トーチカ」だった。
掩体壕の中から突き出された一一ミリ重機関銃と三七ミリ砲が、火線の網の目を形成し、上陸したソ連兵の群れを水平射撃で薙ぎ払った。一一ミリ弾は歩兵を容易く両断し、三七ミリ弾は強引に渡河してきたT―26軽戦車の装甲を紙のように貫いて炎上させた。
泥まみれになりながら土手を登り切った彼らの前に、二重斑点迷彩とMBF(鋼紙)製胸甲に身を包んだシホテルーシ・韃漢統合軍の歩兵分隊が立ちはだかる。
「分隊、射撃用意!」
分隊長の鋭い声が飛ぶ。
一般歩兵たちが手に持つ大正一五式歩兵銃が、覘孔式照準器越しにソ連兵を精密に捉え、一発一発、確実に排除していく。
「――制圧射撃開始!」
分隊長が、自らにのみ与えられた特権的な火器――昭和〇九年式自動小銃の引き金を引いた。
フルオートマチックから放たれる六・五ミリ弾の連射音が、戦場を支配した。MBF製の直銃床と二脚に支えられたその射撃は、跳ね上がりを完璧に抑え込み、密集して上陸してきたソ連兵の集団を一瞬で薙ぎ払った。
そんな最中、ソ連の狙撃兵が放った一発の弾丸が、日本軍兵士の胸に直撃した。
しかし、兵士はわずかに後ずさっただけで、すぐに姿勢を立て直し、小銃の引き金を弾き続けた。五ミリ厚のMBF胸甲が、モシン・ナガン弾の貫通を完全に防いだのである。
「化け物だ……奴ら、死なないのか……!」
泥水の中に倒れ込んだソ連の若い徴集兵は、自分たちに向けて一歩一歩近づいてくる迷彩服の「死神」たちを見上げながら、絶望の涙を流した。
帝国とその同盟国が築き上げた、兵站、情報、そして個人の圧倒的な火力の極致。
ソ連軍が誇る「人海戦術」という時代遅れの戦法は、このアムール川の泥濘の上で、帝国の「システム」という冷徹な機械装置によって、完全にすり潰されようとしていた。
これはもはや、戦争という名の「一方的な屠殺」の始まりであった。




