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古の灯火  作者: 丸亀導師
死中活
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第1話 203高地 1

(そなえ)

とは、戦乱の世における領国の防衛体制を指す。大名は城郭を拠点に、領内を複数の支城や砦で固め、動員可能な兵力を常備した。これにより、他国からの侵攻に備え、領土の維持と拡大を図った。厳しい生存競争の中で、備の強弱が大名の興亡を決した。

風林火山。

疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山。

――『孫子』兵勢篇

知彼知己、百戦不殆。

だが、人は己を知らず、敵を知らず、ただ殺し合う。

――『孫子』虚実篇

兵は詭道なり。

欺き、欺かれ、血を流す。それが人間の定めだ。

――『孫子』始計篇

備は数百の兵を一つの塊とし、地形を活かし、鉄砲隊を前衛に、槍隊を後続に置く。

敵の正面を避け、隙を突き、背後へ回り込む。

死中活あり。

だが、死の中にある活など、本当に存在するのか?

――『甲陽軍鑑』巻末注釈

戦いは水の流れに似たり。

高きより低きに就き、敵の虚に乗じて実を攻む。

しかし、水はいつか海に呑まれ、消える。

――『六韜』龍韜

明治三十年代後半、東京・陸軍大学校の書庫。

埃と黴の匂いが淀む薄暗い部屋。

ドイツ式教範が神棚のように飾られる時代に、若き将校たちは、誰も知らぬ夜に、古書を貪った。

時に声を荒げ、時に罵り、時に分かち合い、時に笑い合い…。

彼等は見果てぬ過去を思いやりながらも、今を生きるものとして、其れ等を糧とせんとそれに生きる。

しかし、時の流れというものは残酷の一言であり、彼らのその言葉の尽くは戯言と一言に断じられる。


『この物は古く、故に今にして、意味もなし。』


恥辱を隠し、ノートを隠し、古の言葉を、近代の銃砲という新たな殺戮器械に重ね合わせる者たちがいた。

彼らは知っていた。

人間は変わらない。

時代が変わっても、兵器が変わっても、ただ殺し、殺されるだけだ。

それでも、何かを変えようと、愚かにも抗う。

「死中活あり」

その言葉は、ある手によって書き加えられた注釈に、虚しく息づいていた。





時は移り、1904年10月、旅順攻囲戦の第三軍司令部天幕。

外では寒風が咆哮し、布を裂かんばかりに震わせる。

石油ランプの炎が、絶え間なく揺らめき、影を歪める。

風が凪ぐ地面より、砂埃が立ち上ることなくそこからは、止め処無く死臭が風に乗っていた。


乃木希典は机に突っ伏していた。

二万を超える将兵の名が、亡霊のように脳裏を這い回る。

強く拳を握りしめ、歯軋りをしても過去は戻ってくることはない。 握りしめられたペンは折れんとばかりに犇めいている。


若者たちの顔、叫び、血。

すべてが無駄だったのか。

すべてが、ただの繰り返しだったのか。

第三次総攻撃の命令書は、まだ署名されていない。

署名すれば、また数万が死ぬ。遅かれ早かれ自らが任を解かれれば、全てが進むであろうということを理解しながらも、只々それを拒みたかった。


人間が、また人間を殺す。機関銃の音が鳴り響き、砲弾が空を切り、人影が霧散する…。

それを思い出すのならば、いっその事腹を切って死んでしまいたいと、そう思う程に…。


そのとき、隅の卓上で、乾いた音がした。

パラパラパラと、何かが小気味良く風に撫でられる音である。

なんの音であろうか…、そう例えば…本が捲られる時の、あの快活な音である。


ふと乃木はその音が気になった、一体こんなところで誰が本なぞ読んでいるのかと、ぶつけようの無い怒りの矛先がそちらに向うとし、乃木はゆっくりと顔を上げた。


そこには古びた一冊の本があった。

『甲陽軍鑑』

それは古くは戦国の時、武田氏の戦略・戦術を纏めた古い軍学書である。

まるでそれが自らを指し示しているように、動きそして乃木の手はゆっくりと…しかし確実にそれに伸びていき、手に取った。


幾つかのページをゆっくりと目に映しながら、一つの頁を目に映す。


『備は数百の兵を一つの塊とし、地形を活かし、鉄砲隊を前衛に、槍隊を後続に置く。敵の正面を避け、隙を突き、背後へ回り込む……。』


その行が嫌に目につく…


「隙を突き…背後に回り込む……。……!」


乃木は飛び起きると、命令書の紙切れをどこへとも飛ばし、軍略図へと目を移す。

片手に持ったその本を、それとは逆の手で地図を滑らかに指が滑り……、ある一箇所を指し示す。


旅順の地形が、鮮やかに浮かび上がった。203高地の東側、盤龍山の死角。ロシア軍は正面を固め、機関銃と砲台を集中させていたが、森林と丘陵の凹凸は、死角を生んでいた。あそこなら、小部隊が潜り込めば……。


乃木は息を呑んだ。

それは、戦国時代の古い戦法だった。明治陸軍が捨て去ったはずの、封建的な戦術。ドイツの軍制に忠実であるべき第三軍の司令官が、そんなものを思い浮かべること自体が、冒涜にさえ感じられた。

故に彼は指を留め、首を横へと振った。


「統制が乱れる。味方が散開し、敵の逆襲を招く恐れがある」。


そう自らに言い聞かせ、乃木は本を閉じた。だが、心の奥底で、何かが動き続けていた。


再び本を見つめ、指先で足早にめくり最後の頁へと至る。


ふと、そこには細かな字で、注釈が記されていた。

「備は数百の兵を一つの塊とし……死中活あり。」

署名は、第三軍参謀 松川敏胤。

乃木の瞳が、わずかに揺れた。

老いた将軍の胸に、忘れかけていた何かが、疼いた。

人間は変われるのか。


戦争は、変えられるのか。

死の中にある活など、本当に――

古の灯火が、近代の戦場に、虚しく、しかし確実にともり始めようとしていた。

それは、希望か、それとも新たな絶望の始まりか。

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