【第19話】民の虚
審問院炎上の翌日、王都は静まり返っていた。
炎は鎮められ、鏡のひびも応急で覆った。
だが、街路を歩けば耳に届くのは囁きだった。
「救世主殿は本当に真を語っているのか」
「鏡が黒く染まったのを見た……虚を抱いているのは救世主ではないのか」
「もしかして、アルドの言う通りだったのでは……」
民の目は恐怖と疑念に揺れていた。
俺を讃えていた声が、今は針のように背を刺す。
◇
評議の席も荒れていた。
商人上がりの議員が声を張る。
「救世主殿が真ならば、なぜ鏡は黒く染まったのだ!」
アスヘルが机を叩いて応じる。
「虚が流し込まれたからだ! 救世主殿はそれを焼き払った!」
だが、彼の声は届かなかった。
老学匠サナトが目を伏せ、低く言った。
「……人は、見たものを信じる。たとえその奥に真があっても、目に映った虚の方が強く残る」
胸の《審判》が淡く光る。
——虚を望む心を、どう裁く。
◇
その夜、広場に人々が集まった。
中心に立つのは、アルドの仮面を被った影だった。
「救世主は虚を抱いている!」
「審問院の鏡は黒く染まった! それが証だ!」
民衆の一部が叫ぶ。
「救世主殿を信じる!」
「いや、もう裏切られたのだ!」
怒号が飛び交い、石が投げられる。
混乱の渦が広場を覆い始めた。
俺は群衆の前に立ち、声を張り上げた。
「聞け! 虚を望む心こそが、お前たちを滅ぼす!」
だが、言葉は届かない。
「救世主殿が虚を焼けるなら、今ここで示せ!」
「仮面の男を裁け!」
影は笑い、仮面を外した。
現れたのは——王都で見知った顔。
先日裁かれたはずの旧貴族の家令だった。
「俺は裁かれた。だが、生きている! つまり、審判など虚だ!」
民衆がざわめき、動揺が広がる。
◇
俺は胸の《審判》を呼び覚まし、家令を見据えた。
光が走り、黒煙が口から漏れた。
「嘘だ」
俺の言葉と同時に、《虚言灼》が炎を上げる。
家令は悲鳴を上げ、地に崩れた。
その姿を見て、一部の民は安堵し、また一部はさらに怯えた。
「やはり救世主は嘘を焼いた!」
「いや……また人を殺した!」
虚を暴いても、心は揺らぐ。
真実を見せても、望む虚にすがる者は後を絶たない。
◇
夜更け。
審問院の残った壁に寄りかかり、俺は息を吐いた。
アスヘルが駆け寄る。
「救世主殿……このままでは民が割れてしまう」
セリオも拳を握りしめる。
「信じる者と疑う者、街が二つに裂ける……」
サナトがゆっくり近づき、言った。
「救世主よ。虚を裁くだけでは足りぬ。人の心を導く言葉が必要だ。……虚を望む心ごと抱く力が」
胸の奥で、神々の声が重なった。
——次の審判は、人の心そのもの。
——焼くだけではなく、示せ。
俺は夜空を仰ぎ、低く誓った。
「ならば俺は——虚を焼き、真を示し、そして導く。どれほど孤独でも」
星々は曇天の合間から、かすかに光を落としていた。