【第18話】審問院炎上
翌朝、王都はざわめきに包まれていた。
夜半に審問院の外壁に黒い印が刻まれたというのだ。
「救世主は虚を抱いている」
「審判の鏡は欺かれている」
その噂は火のように広がり、民衆は怯え、評議の中にも不信が芽生え始めていた。
俺は広間に集まった評議員たちを見渡した。
「アルドは、審問院そのものを崩そうとしている。昨夜、俺は彼らの影を見た。虚を操り、人心を惑わす者たちだ」
だが、商人出の評議員が立ち上がり、声を荒げた。
「影の結社など幻だ! 見えぬ敵を口実に、救世主殿が権力を独占しようとしているのではないか!」
広間にざわめきが走る。
アスヘルが席を蹴って立ち上がり、叫んだ。
「黙れ! 私は見た! 救世主殿は虚を焼いた! もし結社が存在しないなら、あの黒印は何だ!」
互いの声がぶつかり、評議は混乱の渦に呑まれていった。
◇
夜。
審問院に戻ると、鏡の前に立っていたはずの守衛が消えていた。
広間には焦げ臭い匂いが漂い、壁の石が赤く燻っている。
「罠か……」
そう呟いた瞬間、天井から黒い煙が降りてきた。
煙は形を変え、外套の人影となる。
「ようこそ、救世主。ここが“虚”の炉になる」
結社アルドの影たちが姿を現した。
その中心に立つのは、昨夜の仮面の男。
「審問院を燃やせば、お前の秩序は崩れる。民は虚を望む。我らはその望みを叶える」
俺は槍を構え、胸の《審判》を呼び覚ます。
「ならば裁く。虚に溺れるお前たちを」
◇
影たちが一斉に動いた。
黒煙が刃となり、床を裂く。
俺は《護域》を展開し、光の壁でそれを受け止めた。
火花が散り、石が砕ける。
背後から声がした。
「救世主殿!」
アスヘルとセリオが駆け込んできた。
アスヘルは聖典を握り、セリオは刃を構える。
「ここで止めなければ、都が虚に呑まれる!」
俺は頷き、力を解き放つ。
「《虚言灼》!」
炎が走り、影の一人が悲鳴と共に崩れる。
だが仮面の男は微動だにしない。
「無駄だ。我らの虚は“真実を望む心”すら利用する」
鏡が突然、黒く染まり始めた。
虚が流し込まれ、真偽を示すはずの鏡が濁る。
群衆が外で叫んでいるのが聞こえる。
「鏡が……! 鏡が黒く染まった!」
「救世主は嘘をついていたのか!」
俺は歯を食いしばり、炎槍を鏡に突き立てた。
「——《審判》!」
光と炎が爆ぜ、鏡に絡みついていた虚が剥がれ落ちる。
仮面の男が初めて後退した。
「……ほう。お前は鏡そのものを裁けるのか」
◇
影たちは退き際に呪を残した。
「次は民だ。お前が守ろうとする者たちが、自ら虚を求めて滅ぶだろう」
黒煙が霧散し、広間には焦げ跡と鏡の亀裂だけが残った。
セリオが駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
俺は槍を下ろし、鏡を見据えた。
表面には確かに光が戻った。だが、その端には深いひびが走っていた。
神々の声が胸の奥で囁く。
——虚を操る者は滅ぼせる。
——だが、虚を“望む心”は滅ぼせぬ。
俺は拳を握りしめた。
審問院は焼かれかけ、秩序は揺らぎ始めている。
——次に裁くべきは、敵ではなく“民の心”かもしれない。