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【第1話】断罪の鐘が鳴るとき

 朝の大聖堂は、染み込んだ祈りの匂いがした。古びた石の床と、無数の蝋燭が吐く甘い煙。その中央で、白い法衣の少女が震える肩を抱いている。王国が誇る聖女——リュミエル。

 その前に、俺は立っていた。片膝をつかされ、両手は背で束ねられ、縄の食い込みが脈打つたび痛む。


 鐘が一度、くぐもって鳴る。祭壇の後ろ、緋の衣の大司教がゆっくりと立ち上がった。

「告発はひとつ。冒険者レオン、そなたは聖女に狼藉を働こうとした」

 ざわめきが、石壁に薄く反響する。俺は頭を上げ、見た。


 リュミエルが、怯えたように瞳を伏せ、唇を噛む。けれど、その指先は微かに笑っていた。

「違います。俺は……助けただけです」

「助けた?」

 脇に控える煌びやかな甲冑が、ゆらりと動く。勇者アルバード。パーティの顔。昔は同じ火を囲んで笑ったこともあった。

「見苦しい言い訳だな、レオン。お前、最初から無能だったろ。雑用係のくせに聖女のそばにいる理由がない」

 言葉が冷えた刃になって、胸の奥を軽く切った。


 俺は昨夜を思い出す。

 リュミエルが一人で聖堂の裏庭にいた。黒衣の男が二人、影から伸びて手を伸ばした。俺は飛び出し、男たちの手首を払って、背中で彼女を庇った。それだけだ。

 倒れた男の懐からは、確かに“皇都語”で書かれた札が出てきた。王都を混乱させようとする異国の間者だろう。俺はそれを拾い、司直に渡そうとした。——そこで、リュミエルが叫んだのだ。「触らないで、いや!」と。


 誰も真実を見ない。聖女の涙のほうが、俺の言葉より重い。

 大司教は重々しく首を振った。

「無辜の乙女を守るのは騎士の役目であるが、疑義は残る。あいにく、昨夜の警備記録にもそなたの申告はない。聖女の心の安寧を第一とし、ここに裁断を下す」

 鐘が二度鳴る。

「レオン、王都より永久追放。身分と特権は剥奪。王都七門を終生くぐること能わず」

 祭壇の左右から、信徒と兵士の吐息が漏れる。良かったね、これで安全よと囁く声。

 アルバードが肩を竦める。

「処刑じゃないだけありがたく思え。雑用、荷物持ち、火の番。お前の“仕事”は誰にだってできる」

「……ああ、そうだな」

 俺は笑わなかった。笑うと、どこかが壊れそうだったから。


 リュミエルが、ほんの少しだけ唇を上げて俺の耳元に顔を寄せる。

 香の匂い。

「あなたは役目を終えたの。ねえ、わかる?」

 囁きは滑らかで、氷みたいに冷たかった。


 縄を引かれ、俺は立ち上がる。誰かが小石を投げた。誰かが唾を吐いた。

 鐘が三度、鳴り終わるころには、俺は大聖堂の外にいた。


     ◇


 王都の北門を出ると、街道はしばらく穀倉地帯の中を真っ直ぐに走り、その先で黒い丘陵に飲み込まれる。さらに向こう側は、地図にも曖昧にしか記されない灰色の帯——辺境。

 護送の兵士は二人だけ。縄付けの囚人ひとりに過剰な手は要らないのだと、彼らは靴音を重ねて語った。

「王都に未練は?」

 一人が退屈しのぎなのか、問うてくる。

「ない」

 あるのは、焼けた喉と、踵に刺さる砂利の感触と、心臓のあたりに居座る重みだけ。

「お前みたいなの、時々いるぜ。勇者様の足を引っぱって追放。辺境に消える。で、だいたい一週間もたない」

「そうか」

「忠告しとく。人里から外れるな。魔物は夜が早い」

 兵士はそこで言葉を切り、どうでも良さそうに鼻を鳴らした。


 夕暮れが落ちるころ、俺は縄を解かれ、革袋と干し肉をひと切れだけ渡された。

「ここが境だ。道は一本。西に折れれば交易村がある。……運が良けりゃ、な」

 彼らは笑い、踵を返す。

 俺は誰に見送られるでもなく、背中に広がる王都の灯りから目を逸らした。あの光の下で、俺は長い時間を過ごした。火の番、寝ずの番、誰かが落とした短剣の研ぎ直し。笑われても構わなかった。必要とされるなら、それで良かった。

 けれど、必要とされるというのは、案外もろい橋だ。


 風が変わる。草の匂いが減り、土が冷たくなる。丘陵の向こう側は、本当に灰色だった。低い灌木が風で擦れ、遠くで何かが鳴く。

 ここからが“辺境”なのだろう。


 夜は早く、そして重い。星の位置も、王都で見上げたものより幾分近いように思えた。

 焚きつけを拾い、火打石を叩く。火は簡単には起きない。三度、五度、十度。指先に小さな火傷が増える。

 ようやく火が灯り、干し肉を齧る。硬い。噛みしめるたび歯茎が痺れる。

 眠ろう、と決めたところで、低い唸り声がした。


 群れだ。

 灌木の影から、眼光が揺れる。狼に似ているが、背が高い。背骨が浮き、皮膚は油で濡れたように黒い。

 一匹、二匹——五。

 火を高く掲げる。ひとつが怯むが、もうひとつが前に出る。

 腰の短剣は、王都を出るときに没収された。あるのは、折れかけの枝と、火だけ。

「来いよ」

 声は思ったよりも落ち着いていた。恐怖の底には、ときどき透明な場所がある。

 一匹が跳ねる。俺は枝を横に払う。歯が枝に食い込び、火の粉が散る。

 もう一匹が脇から噛みつこうとして、火に怯んで引いた。

 三匹目が背中に回ろうとする。

 駄目だ、と直感した。数が違う。武器が違う。運も違う。


 その瞬間、地面が低く鳴った。

 ——まだ、終わらぬ。


 声は、地の底から湧いた。耳ではなく、骨で聞いた。

 狼の群れが一瞬だけ動きを止める。彼らもまた、その声を感じたのだ。

 火が揺れ、影が裂け、足もとがわずかに沈む。

 灌木の間に、青白い輪が浮いた。石ではない。水でもない。光の輪。

 輪の内側は暗い。けれど、その暗さは恐ろしくなかった。懐かしいものに似ていた。

 足が勝手に前へ出る。

 狼たちが遠吠えを上げる。間近の一匹が牙を剥く。

 俺は火を投げた。

 炎が狼の顔に当たり、悲鳴が上がる。群れが散るように下がる一瞬、その隙に俺は輪の中へ踏み込んだ。


     ◇


 石の冷たさが消え、代わりに空気が湿る。

 そこは、広間だった。天井は見えないほど高く、壁は黒いガラスのように滑らかで、無数の文字が淡く流れていた。

 中央に、水鏡がある。水面は風もないのにさざめき、覗き込むと、俺の顔ではなく、星の群れが映った。

 そして——


 そこに“いる”と、すぐにわかった。

 数ではない。ひとつであり、いくつでもある気配。大聖堂の香の匂いではなく、海潮と霧雨と、古い森の匂い。

 声が、空間のすべてから同時に落ちた。

 ——人を見捨てぬ心、よくぞ抱き続けた。

「……誰だ」

 問いはかすれた。乾いた喉がやっとのことで動いた。

 ——我らは古き契り。かつてこの地に結ばれながら、忘れられ、祈りを失い、深みに退いたもの。

 神、という語を思い浮かべるのは簡単だった。けれど、大聖堂と同じ“神”ではないことも、なぜか理解できた。

「俺を、呼んだのか」

 ——汝が呼んだ。汝が選んだ。

 水鏡の表面が音もなく盛り上がり、滴が空中でほどけて、文字になった。ひとつの文脈をつくる。

 “審判”。

 その文字が、胸の奥で明滅する。

 ——与えよう。

 冷たさが胸に触れ、炎に似たものが背骨から指先へ駆け抜けた。

 息が詰まり、そして軽くなる。

「……これは」

 ——見る力。暴く力。焼く力。

 文字が増える。

 “真偽視”。“虚言灼”。“秤の手”。

 それらの語は意味を伴って、俺の中にすっと沈んだ。

 ——汝は選ばれたのではない。汝が選んだのだ、人を見捨てぬことを。だから、わたしたちは応える。

 言葉は厳しくなく、甘くもなかった。透明で、ただそこにある感じがした。


「俺を追放した者たちがいる」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。恨みをそのまま載せると、言葉は歪む。だから、平坦にした。

「彼らは嘘をついた。聖女は……笑っていた」

 水鏡が波紋を広げ、王都の大聖堂の天井が一瞬だけ映る。

 ——知っている。

「なら、俺はどうすべきだ」

 問うと、広間がわずかに暗くなる。

 ——汝の望みを言え。救うか、裁くか。両方か。

 息を吸う。胸が少し痛む。

 本当は、全部焼き払ってしまいたい。王都の高い塔も、薄笑いの勇者も、香の匂いの聖女も。

 けれど、その炎は俺の中で急速に燃えて、そして、やや静まった。

 兵士が言っていた。「人里から外れるな」。

 彼はただ退屈だったのかも知れない。それでも、俺に忠告した。

 道の脇で、干し肉を分けてくれた老婆がいた。皺だらけの手が、俺の手に温度を残した。

 王都は嘘で塗られている。だが、すべてが嘘ではない。

「——無辜を、まず救いたい」

 そう言うと、広間の空気が柔らかくなった。

 ——応えよう。

 新しい文字が流れる。

 “護域”。“糧生”。“泉出”。

 それらは、守りと、糧と、水の力。戦う前に必要なもの。

 ——そして、裁くときはためらうな。虚は虚へ、嘘は嘘へ返すだけ。

「わかった」

 俺は頷いた。

「名前を、教えてくれ」

 問うと、短い沈黙があった。

 ——名は時に檻となる。汝が呼びやすいように呼べ。

「じゃあ……“古き神々”。それでいいか」

 ——良い。

 水鏡の縁の文字が、淡く笑ったように見えた。


「俺に、もう一つ教えてくれ」

 言葉は自然に続いた。

「俺を断罪した“彼ら”は、いつかここに来るか」

 ——来る。助けを求めて。

 胸の底で、何かが音を立てた。怒りに似ている。悲しみにも似ている。

「そのとき、俺はどうするだろうな」

 ——そのとき汝が決めればよい。

 広間の空気がわずかに揺れた。

 ——行け、人の子。辺境は汝の庭となろう。

 足もとに光の輪が戻る。狼の唸り声も、冷たい夜気も、向こう側で待っている。


「——見ていろ。俺を追放した者たちに、見せてやる」

 俺は囁き、輪に踏み出した。


     ◇


 夜に戻ると、火はまだ辛うじて赤かった。狼の群れは距離を取り、円を描いている。

 俺は手を上げ、胸の内側に刻まれた語をひとつ、そっと撫でた。

 “護域”。

 地面から、淡い光が滲む。輪が広がり、焚き火と俺を包む。狼が一歩、踏み込んで鼻を鳴らす。見えない壁に触れたのだ。

「帰れ」

 声が、自分のものではないように響く。

 狼たちは一度だけ首を振り、踵を返して闇へ溶けた。


 膝が、遅れて震えた。光はやがて薄れ、夜が戻る。

 俺は焚き火に手をかざし、深く息を吐いた。

 生き延びた。

 そして、ただ生き延びただけではない。

 胸の中に、もうひとつの火が灯っていた。名を持たないが、確かに燃える火。

 王都の塔に打ちつける風の音を想像する。大聖堂の冷たい石。緋の衣の男。指先で笑った聖女。

 いつか、彼らはここに来る。辺境の片隅に、助けを求めに。

 そのとき——俺は秤を置く。

 彼らの言葉と、目と、胸の内側の温度を見て、嘘であれば焼く。真であれば、助ける。

 ざまぁは、復讐のためだけの言葉ではない。嘘を嘘へ、返すための形だ。


 焚き火に枝を足す。火は素直に燃え広がった。

 空は深い。王都より星が多い。

 俺は眠らないで夜を見た。冷たい空気を吸い込み、吐き出す。

 東の端が、かすかに白む。夜の下に、地形の骨が現れる。遠くに黒い影。崩れかけた石造りの塔。

 古い地図に曖昧に描かれていた“遺跡群”だろう。

 そこへ行こう、と決めるのに理由は要らなかった。庭をつくるなら、水がいる。壁がいる。守るべき場所がいる。

 俺は立ち上がり、縄の痕が残る手首を軽くさすった。

「始めよう」

 辺境の朝は、薄く、しかし鮮烈だった。


 そしてその瞬間、胸の内側に小さな文字が灯った。

 ——神授権能《審判》、付与。

 ——補助権能《護域》《泉出》《糧生》、起動可能。


 俺は笑った。誰にも見られない笑いだった。

 これは、終わりではない。最初の一歩だ。

 追放の先に、庭をつくる。

 無辜を守り、嘘を焼く。

 王都が、辺境の光を求めて膝を折る日まで。

 俺は歩き出した。東の白さに向かって。

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