第四章:水底の記憶、彼の沈黙
男は、珈琲カップを、ゆっくりと持ち上げた。
彼の指が、僅かに震えているのが、私には見えた。
香りを確かめるように、深く息を吸い込む。
そして、その一口を、まるで、何かを噛みしめるように、ゆっくりと飲み干す。
その所作一つ一つが、湖の深い場所で、ゆっくりと、何かが動いているような、そんな印象を私に与えた。
彼の瞳は、やはり、湖の深淵そのものだった。
私は、カウンターに戻り、ぼんやりと、外の湖を眺める。
陽が昇りきり、湖面は、いまや、眩しいほどの銀色に輝いている。
けれど、彼の周りだけは、まるで、時間が止まったかのように、影が深く、そこだけが、世界の断片から切り取られているように見えた。
彼の姿は、私にとって、まるで、湖の底に沈む、忘れ去られた石碑のように感じられた。
そこに、何かが、刻まれている。
けれど、私には、まだ、読み解けない。
不意に、彼が、私を見た。
その視線が、私に、氷のような冷たさで触れる。
けれど、それは、敵意ではない。
むしろ、何かを、問いかけるような、沈黙だった。
私は、彼が、何を言いたいのか、わからなかった。
いや、彼自身も、言葉にできない何かを、その瞳に宿しているように思えた。
彼の喉が、ごくり、と鳴った。
そして、彼は、何も言わず、カップをテーブルに置いた。
彼の視線が、再び、湖へと向けられる。
水面を、じっと見つめている。
その瞳の奥で、何かが、揺れている。
それは、湖の波紋と、同じ速度で、同じ深さで、揺れていた。
私は、彼の背中から、言い知れない重い感情の澱を感じ取った。
それは、まるで、湖の底に長年堆積した泥のように、深く、暗く、そして、容易には動かせないもの。
彼が、何と戦っているのか。
あるいは、何を、悼んでいるのか。
私には、分からなかった。
ただ、一つだけ、分かったことがある。
この男と、この湖は、同じものを抱えている。
言葉にはならない、けれど、確かにそこに存在する、何かを。
そして、私自身も、その「何か」に、引き寄せられている。
水面を渡る風が、彼の髪を、わずかに揺らした。
その動きが、まるで、彼の心の奥底から、微かな漣が広がるように見えた。
カフェは、静かに、ただ、湖の呼吸と、彼の沈黙と、そして、私の内に湧き上がる、新たな問いを、包み込んでいた。