第三章:交錯する波紋、水底の残響
ドアが開く音。
風が、微かに、私の方へ流れてくる。
その風に乗って、新しい、まだ見ぬ人の気配。
私の肩越しに、湖の、光が差し込む。
「いらっしゃいませ。」
声は、いつものように、平坦だった。
まるで、感情の起伏を、どこかに置いてきたかのように。
そこに立っていたのは、一人の男。
背が高く、どこか猫背気味。
着古した、ネイビーのパーカーのフードを深く被り、その下から覗く顔は、ほとんど見えない。
けれど、そのフードの縁から、わずかに、白髪交じりの髪が覗く。
年は、私より、おそらく、二回りも上だろうか。
彼の瞳は、暗く、しかし、湖の深淵のように、何かを吸い込むような力を秘めていた。
まるで、彼自身が、過去の影を、その身に纏っているかのように。
「珈琲を。」
低い声。
その一言は、湖底から響く、重い石のようだった。
彼の周りの空気が、一瞬、凝固したように感じる。
私は、無意識に、祖父の使っていたマグカップに手を伸ばしかけた。
けれど、すぐに、それは間違いだと気づき、別の、白いシンプルなカップを取る。
彼は、窓際の席に、音もなく腰を下ろした。
背を向けた彼の後ろ姿は、湖の向こうに、うっすらと霞んで見える山々のシルエットに、重なる。
エスプレッソマシンが、再び、ヴゥン、と低い唸り声を上げる。
湯気が、立ち上る。
湯気は、まるで、彼の言葉にならない感情が、形となって、空に消えていくようだ。
淹れたての珈琲の香りが、店内に満ちる。
その香りは、彼が纏う、澱んだ空気を、少しだけ、薄める。
私が、ゆっくりと、彼のテーブルへ向かう。
足音は、湖畔の小石を踏む音のように、小さく、静かだった。
カップを置く。
彼の指が、わずかに、カップの縁に触れる。
その指は、節くれ立ち、長年の労苦を物語っていた。
彼の指先から、湖の冷たさが、伝わってくるような気がした。
そして、その奥には、もっと、深い、何か。
過去の、あるいは、まだ終わらない、失意の痕跡。
その時、湖面で、小さな水しぶきが上がった。
それは、まるで、私と、そして彼の間に、新たな波紋が広がり始めた、始まりの合図のように見えた。